第42話 心配と新たな情報と
「イトウさんは、まだ見つからないか」
夕闇が窓の外から忍び寄るなか、執務室に沈んだ声が落ちた。
黄昏に染まる室内は、照明の灯りでは補いきれないほどに陰影が濃くなっていた。
その声の主は、椅子に深く腰を下ろした男──タケウチだった。
顎に手を添え、目の前の報告書に視線を落としながらも、その言葉は真正面に立つ女性へと向けられていた。
「七所に潜って、もう三日か。今は二層を中心に捜索しているんだったな」
疲労の色を隠しきれない目が、書類の上からゆっくりと持ち上がる。
口元は手のひらに隠れていたが、隙間から伸びかけの無精ひげが覗いていた。
連日、部隊の戦力底上げの指揮に始まり、三鷹迷宮に関する調整業務、工事の監督、さらに近々行われる政府視察の準備に追われていた。
いつもは襟元まできっちり留められているジャケットも、今日は第一ボタンが外れたまま。
袖口も少し皺が寄り、男の疲労と焦燥がにじみ出ていた。
その問いに対し、立っていた女性──ミツイは軽くうなずいた。
「はい。シミズを中心に、三名構成のチームを三つに分けて捜索中です。ただ……」
言いかけて、ほんの一瞬、目を伏せる。
「そろそろ、“上”へのごまかしも、きかなくなってきました」
低く絞られた声は、執務室の静けさに染み入るようだった。
現在、名目上は「三鷹迷宮視察に向けた安全確認」のため、七所へ人員を派遣していることになっている。
一層および二層を中心に、安全な導線を確保するための事前調査。
それが、対外的な“建前”だ。
「他迷宮との構造差異を確認し、三鷹の安定性を明確にする」──そうした報告書上の目的で、実際にはイトウの行方を追うために人員を動かしていた。
だが、その体裁も限界が近づいていた。
成果の見えない“調査”に対し、上層部からの疑念と干渉が、じわじわと首を絞めてくるように迫っていた。
「隊の上層部はいい」
タケウチは、机に肘をついたまま低く言った。
疲労の色は隠しきれないが、その声にはまだ芯があった。
「こちらも、イトウさんの捜索には肯定的だし、何より“こちら側”寄りの手札として認識しているからな」
一息置いてから、視線を報告書から外し、正面を見据える。
「……ただし、“協会”側は別だ」
その言葉に、執務室の空気がわずかに変わる。
窓の外はすっかり日が傾き、薄闇がゆっくりと床を這っていた。
「金の成る木が折れたと見て、次の“金の卵”を探し始めたようだ。内調の結果だが──複数の組織、人員と内々で接触した形跡が確認されている」
パサリ。
乾いた音とともに、数枚のプロフィールが机の上に投げ出された。
手元の明かりに照らされたその資料を、ミツイが静かに手に取る。
「……気鋭のベンチャー企業、大手芸能事務所、カルトまがいの新興宗教まで……節操がないですね」
ぺら、ぺらとページをめくる音が続く中で、彼女が半ば呆れたように呟いた。
「イトウさんの後釜を探しているというのもあるだろうが、それ以上に──以前から自分たちの“子飼い”を仕立てようとしていた動きが、ここに来て活発化している」
言葉の終わりにかけて、タケウチの声がやや強まる。
静かな怒気が滲み、語尾が鋭く跳ねた。
「……イトウさんが、二層や三層程度でどうにかなるとも思えん」
口元を引き結びながら、タケウチがぽつりと漏らした。
「迷宮の罠にかかった、と言われた方がまだ現実味がありますね」
「うむ。敵性組織などの関与も含めて、考慮すべきだろう」
ミツイが手元の書類を差し替えるようにして、別の報告書を取り出した。
「七所に配置されていた隊員に確認を取りました」
報告書をめくりながら、事務的な口調で続ける。
「イトウさんが潜った当日、特に異変は確認されておらず、深夜になっても戻らなかったため、本隊に連絡」
タケウチが資料に目を落とし、続きを促すように無言で頷く。
「その後、同日深夜にこちらから第一チームを派遣し、第一層を確認。痕跡は発見されず」
ミツイはページを繰り、指先で内容をなぞるように読み上げた。
「翌朝、シミズ隊が合流し、二チーム体制で第二層を調査。だが、こちらも不発。痕跡らしきものすら発見には至らなかった、とのことです」
「……そして今日も、見つからず……か」
タケウチが椅子の背にもたれ、天井を仰ぐように目を閉じる。
沈黙が執務室に落ち、外の夕闇はますます濃くなっていった。
「設置された監視カメラとセンサーについては?」
問いかけに対し、ミツイが資料のページを素早くめくる。
薄い紙の擦れる音が、静まり返った執務室にささやかに響いた。
「共に異常は確認されていません」
淡々とした声ながら、ほんのわずかに歯切れが悪い。
「監視カメラについては現在も引き続き映像を精査していますが……今のところ、芳しくありません」
「……そうか」
短く返し、椅子の背に体を預け、重い沈黙に身を沈めた。
時計の秒針がカチ、カチ、と一定のリズムで空間を刻む。
遠く、建物の奥から聞こえてくる工事音が、かすかな残響となって部屋の壁に反射する。
その音さえも、この沈黙に気圧されるかのように、どこか控えめだった。
やがて、タケウチが低く、地を這うような声で呟いた。
「残念ながら──明日、あるいは明後日までしか、捜索は引っ張れんだろう」
言葉に滲むのは諦めでも冷淡さでもない。
現実の重みを飲み下した者だけが持つ、苦渋に近い声音だった。
「だが、ひとまずは“イトウさんは無事”という前提で、こちらの段取りを進める。……業腹だが、政府側もこの件を外に出す気はないらしい」
鼻を鳴らすようにして吐き出す。
「幸か不幸か──イトウさんは天涯孤独だ。騒ぎ立てる者もいない」
ミツイは何も言わずに頷き、資料をまとめながら静かに告げた。
「承知しました。ただ……シミズは、そのまま残るかもしれません」
その名を口にすると同時に、頭に浮かんだのは、あの大柄で無骨な従兄の顔だった。
真面目で一本気すぎる男──おそらく、本人が納得しない限りは、決して迷宮から出ようとしないだろう。
ミツイは思わず、ひとつ息をのんだ。ため息にならないように、そっと胸に押し込む。
タケウチは、しばらくの間考え込むように顎に手をやっていたが、やがて軽く頷いた。
「……一人二人ならば、まだ何とかなるかもしれん。シミズの立場的にも、うまくねじ込めるだろう。そちらは任せておけ」
続けて他チームには引き上げ準備へ移るよう指示が出され、数点の確認事項が共有された後、ミツイは一礼して部屋を後にした。
扉が静かに閉じられ、再び訪れる執務室の静寂。
タケウチはひとり、報告書に目を落としたまま、動かない。
やがて、誰にも届かぬ声でぽつりと呟いた。
「……無事でいてくださいよ、イトウさん」
その言葉は空気に溶け、音もなく執務室の天井へと昇っていった。
* * *
一夜が明け──といっても、この場所に太陽の昇り沈みはない。
ただ、区切りとしての“休息”を挟み、石を積み上げて作られた小さな家で浅い眠りを取った俺は、快活すぎる声で目を覚ました。
「イトウさん! さぁさぁ、さっそく探しに行きますよー!」
外から響くその声は、まるで朝の号令のようだった。
のそりと体を起こし、重いまぶたを擦りながら扉をくぐると、案の定、腕を突き上げているメイリンの姿があった。
朝から元気すぎる。
本来、何も言わずに立っていれば、整った顔立ちに清楚な雰囲気──“深窓の令嬢”なんて言葉が似合いそうなタイプだ。
けれど、ぴょんぴょんと跳ねる様子を見てしまえば、そんな印象は霧散する。
目の前にいるのは、ただの元気な女学生だ。元気すぎるくらいに。
この集落に保護された後、彼女も俺と同じように小さな家を与えられているらしい。
どこにあるのかは知らない。知る必要もない。
探しに行く理由もなければ、聞く理由もない。
「……慌てないでくださいよ。まずは戦力確認と、どこまで進むのか。あと、どこまで行ったら引き返すか──そのあたりくらいは決めましょう」
昨日のうちに話したとおり、準備もそこそこに飛び出して失敗するのだけは避けたかった。
だからこそ、「朝に話を詰めよう」と、昨晩は早々に別れたはずなのだが。
「……ああ、そうね! じゃあ、暑いし、イトウさんの家の中でいいかしら!」
返事を待たずに、彼女はそそくさと俺の家に入っていく。
扉の布がめくれ、ぱたんと音を立てた。
「……どうぞご自由に」
小さく息を吐きながら、俺もあとに続く。
先ほど出てきたばかりの石の家に、もう一度逆戻りだ。
中に入ると、メイリンはすでにゴザの上に腰を下ろしていた。
そして、嬉々とした様子で手を振ってくる。
「早く早く!」
朝からハイテンションな彼女にせかされるのは少し癪だったが、特に断る理由もない。
「はいはい」と声には出さずに、小さく腰を落として彼女の正面に座る。
さて、どう話を切り出すか──そう考えを巡らせようとした矢先だった。
メイリンが、まるで待ってましたとばかりに口を開く。
「じゃあ、まずはこっちの情報からね」
手を膝の上でぱんと打ち合わせるようにして、彼女は得意げに話し始めた。
レベルは14。
主に探索しているのは迷宮の第二層と第三層。
戦闘では弓と魔法を併用する後衛寄りのスタイルで、支援魔法──バフも一種類だけ扱えるらしい。
「ただ、三層はまだ踏破してないのよね……だから<迷宮適応>のスキルは持ってないの」
ふう、と息を吐いて肩を落とすその仕草は、どこか芝居がかって見えた。
だが、その口から出た単語に、思わず俺の口が動いていた。
「……<迷宮適応>?」
言葉をそのまま返すと、メイリンは少し目を丸くして、まるで“それ知らないの? ”とでも言いたげな顔をした。
「ええ。三層を踏破して、四層に初めて到達したときに、全員もらえるスキルよ」
そう言いながら、顎に人差し指を当てて考えるような素振りを見せる。
「うちの周りだと、到達した人はみんな貰ってたから、そういうものだと思ってたけど……他の国じゃ違うのかしら?」
さらっと告げられたその事実に、俺の思考は止まりかけた。
三層──どころか、四層に足を踏み入れている人間が“複数いる”ことが、あたかも当然のように語られている。
しかも、レベル14の彼女が“まだまだ”扱いとは……。
「……しかし、レベル14か。高いですね」
思わず口に出した俺の言葉に、メイリンはまたしてもきょとんとした表情を浮かべ、そしてすぐにカラカラと笑い出す。
「私なんて、まだまだよー。お姉ちゃんたちなんて、そろそろレベル20に届きそうなんだから」
その口ぶりに、俺は自然と視線を落とした。
レベル20──。
俺の現在のレベルは、それを上回っている。
だがそれは、ポイント交換で得たアイテムを利用した結果であり、純粋な経験と努力の積み重ねではない。
彼女たちは、迷宮と共に生活し、向き合い、そこで“育って”きたのだ。
探索と戦いの中で地道に積み上げた数値。
それが、レベル20という現実。
……日本は、遅れている。
いや、世界の中で出遅れているという自覚すら、俺たちは十分に持てていなかったのかもしれない。
個人的には、今の俺は優位に立っている自覚がある。
スキルの質も、レベルも、手持ちのリソースも。
けれど──国としてはどうだろうか。
全体として、何もかもが遅れている。
情報の集約も、迷宮への適応も、そして教育も。
個人が先を走っていても、それを受け止める体制がなければ、いずれは限界が来る。
……実際、いま聞いた<迷宮適応>なんてスキルも、もっと早く知る術があったはずなんだ。
「<迷宮適応>というのは……?」
思わず口に出したその声には、少し驚きが滲んでしまったかもしれない。
だが、今はそんなことを気にしている場合じゃない。
一つでも多く、彼女から情報を引き出すことが重要だった。
メイリンはというと、こちらの内心を知ってか知らずか、やけに饒舌だった。
何も考えていないのか、それとも……すでに言うべきこと、言ってもいいことを、精査したうえで喋っているのか。
真意は測れないが、ともかく今は“聞けるときに聞いておく”のが正解だ。
「さっきも言ったけど、四層に下りたときに、パネルから通知が来るの。で、スキルに<迷宮適応>って名前のやつが追加されるのよ」
そう言ってメイリンは、手のひらをひらひらとさせながら話し続けた。
「効果はね──“迷宮内での活動に対してステータスの向上”。つまり、実際の数値以上のパフォーマンスを出せるってこと」
具体的には、だいたい1.2〜1.3倍ほどの向上が確認されているらしい。
一見、地味にも思えるが──迷宮のような極限環境下では、その差が生死を分けることもあるだろう。
「ちなみにね」
と、いたずらっぽく目を細めながら、彼女は声を潜めた。
「取得時の表示に、“<第一段階>”って出るらしいの。だから、まだまだ潜れば強くなれる可能性もあるんじゃないかな〜って」
「フフフ」と笑うその姿に、余裕と期待が混じっていた。
だが、すぐに表情が曇る。
メイリンは小さくため息をつきながら、額に手をやった。
「ただね……これ、スキル枠を一つ埋めちゃうから、それが悩みどころなのよ。五枠までしか入れられないからさ……」
「……五枠」
思わず口の中で繰り返し、確認するように問い直す。
「スキルは、五枠までしか使えないんですか?」
今の自分が持っているスキルは三つ。
うち一つは固有スキル。
もし、<迷宮適応>が自動的に追加されるとしたら、残りは一枠しか残らない──。
これは、洒落にならない。
「そうそう」
メイリンはこくりと頷きながら、続けた。
「うちの知り合いでね、スキル球を見つけるたびに“とりあえず使ってみよう! ”って、後先考えずにどんどん入れてたやつがいて」
「で、六個目を使おうとしたとき、パネルから“<スキルは五枠まで>”って通知が来たんだって」
「そいつ、何とか四層までは到達したんだけど──スキル枠がもう埋まってたから、新たにスキルを取得できなくて。<迷宮適応>も、付与されなかったの」
「今じゃすっかり“馬鹿話”として戒めにされてるわ。うちの若いのが迷宮に入る前には、必ず話題にされるくらいにはね」
「……私も、まだ二枠残してるけど。どうしようかな〜って、今ちょっと悩んでるところ」
そう言って、またケラケラと笑う彼女の横顔を見ながら──
俺は、そっと手を膝の上で握り込んだ。
五枠──
その制限はかなり重いものだ。
スキルの取得における戦略が、まったく違ってくる。
個人の成長が許された自由な環境だからこそ、選択の重みは、さらに増す。
俺は、静かにその現実を噛みしめていた。




