第37話 見渡す限りの森、見知らぬ人を添えて
森の中を、慎重に足を運ぶ。
聞いた話では、人の手が入っていない森なんてものは、枝葉や根が絡み合ってとても歩けたものじゃないらしい。
だが、この第三層は意外にも違っていた。
もちろん、舗装された道なんて気の利いたものはない。
それでも、木々の間には人ひとり分ほどの間隔があり、背丈の低い草の生えている場所を選べば、意外と足場は悪くない。
うっそうと茂って先が見えない場所は警戒が必要だが、それを避ければ、ある種“歩きやすい森”と言えるかもしれない。
「二層とは空気がまるで違うな……」
二層で感じた、あの毒々しい、息を詰めたくなるような雰囲気はすっかり消えていた。
森を渡る風は、ほんのり湿ってはいるが爽やかで、土や木の香りが鼻をくすぐる。
ただ──頭上を覆う背の高い木々のせいで、太陽の光はほとんど届かず、昼間でも薄暗い。
風が止まると、空気が一気に冷え込んだように感じる。
(第三層……今までみたいな洞窟じみた閉所じゃないから、どっちに進めばいいかが難しいな)
<導殻の勾玉>があればとも思ったが、現状慌てて探索することもないかとタケウチたちを優先させていた。
なんとなく、攻略本を見ながら探索している気がして食指が動かなかったというのもある。
入口への転送ポータルは、階段を下りてすぐ、ぽつんと空き地に置かれていた。
どうやら、この階層は部屋で区切られた構造ではなく、広大な森そのものがフィールドになっているらしい。
背後を振り返れば、木々の間から、さっき下りてきた螺旋階段がそびえているのが見える。
空を貫くような異様な存在感──あれが、ここが現実ではないことを改めて突きつけてくる。
(最悪、道に迷っても……木に登れば入口は見えるか)
そう考えると、少しだけ気が楽になる。
むしろ──今のうちに一度登って、周囲の様子を見ておいたほうがいい。
「よし、一回登ってみるか」
適当に選んだ太い幹に手をかける。
指先が樹皮に食い込み、驚くほど簡単に体が持ち上がった。
これもステータスの恩恵だろう。地面を蹴って枝をつかみ、するすると登っていく。
……やがて、視界が一気に開けた。
十階建てのビルと同じくらいの高さ。
眼下に広がるのは、木、木、木……見渡す限りの樹海だ。
どの木もほぼ同じ高さで、緑の海が水平線のように広がっている。
(……やっぱり、広いな)
地上からの水平距離で、人間の目はせいぜい四キロ先までしか見えないと聞いたことがある。
だが、その範囲はすべて、森に覆われていた。
ただ数か所、遠くにぽっかりと木々の隙間が空いているのが見える。
「あそこか」
ひとまずの目印を得た俺は、幹を降りながら次の行き先を決めた。
木から降りた俺は、目指す方角を定めて森の中を進み始めた。
さっき見た“ぽっかり空いた場所”までは、恐らくそれなりに距離があるだろう。
森は静かだ。
……いや、静かすぎる。
足元の枯れ枝がパキッと鳴る音が、やけに響く。
(何かいるな)
耳を澄ますと、かすかに低い唸りのような音が混じってくる。
風の音じゃない。もっと、生き物の喉の奥から絞り出すような──
やがて、茂みがガサリと揺れた。
現れたのは……イノシシに似たシルエットの、やたらと肩幅の広い獣だ。
全身を覆う毛は黒ずんでいて、所々が針金のように固く、背中には短い棘が無数に突き出している。
そして、突き出た二本の牙が、まるで湾曲した鎌のように鋭かった。
「……なんだ、あれ」
見たことも聞いたこともない。
だが、あの牙で突進されたら、まともに受けるのは危険すぎる。
獣が地面を蹄で蹴った瞬間、土煙が上がった。
突進だ──!
「っと!」
横に飛び、直前まで俺が立っていた木の幹がバキリと裂けた。
牙が触れただけで、この破壊力か。
すかさず距離を取る。
だが、獣はその場でくるりと向きを変え、再び低く構えてきた。
(何度もやられたら逃げ場がなくなるな)
足元に転がっていた石を拾い、全力で投げつけた。
石は獣の右目の横に当たり、甲高い鳴き声が森に響く。
怯んだ、その一瞬。
腰の短剣を抜き、踏み込みざまに脇腹へ浅く切り込む。
黒い毛の間から赤黒い血がにじみ、獣は派手に後ずさった。
唸り声を上げつつも、距離を取った獣は、そのまま茂みの奥へ消えていく。
残されたのは、抉れた地面と、鼻につく生臭い匂いだけだった。
「……逃げられたか」
息を吐き、短剣を軽く振って血を払い、獣との距離が完全に切れたことを確認し、再び歩き出す。
森の匂いが濃く、湿った土と草の香りが鼻を抜けていく。
だが、その奥に……生ぬるく、鼻の奥をくすぐるような匂いが混ざってきた。
(……腐った水? いや、沼か何かが近いのか)
足元の草がしっとりと濡れている。地面を踏むたびに、じゅわっと泥が染み出す。
やがて、木々の間に水たまりのような広がりが見えた──その中心で、何かが動いた。
それは、カエルに似ていた。
ただし、ありえないほど大きい。俺の胸ほどもある胴体に、真ん丸で光沢のある皮膚。
背中には苔のような緑の斑点が広がり、両目は赤く光っている。
口は横に裂け、喉が大きく膨らんだかと思うと──
「ゲボッ!」
粘ついた液体が、槍のように一直線に飛んできた。
反射的に身をひねって避けるが、液体がかすった草がジュウ、と煙を上げて溶けていく。
「酸かよ……っ!」
奴は水たまりから半身を躍らせ、バネ仕掛けのように俺に跳びかかってきた。
ぬるりと光る皮膚が目の前に迫る。
短剣で迎え撃つ──が、分厚い皮膚に刃が半ばまでしか通らない。
手応えはあるが、決定打には程遠い。
着地した巨体が地面を揺らし、再び喉が膨らむ。
この距離で酸を吐かれたらまずい。
俺は咄嗟に足元の泥を蹴り上げた。
泥の塊が奴の顔面を覆い、酸が的外れの方向へ飛ぶ。
隙を逃さず、喉元の柔らかい部分に短剣を突き立て、力任せに引き裂いた。
赤黒い体液が飛び散り、巨体がぐらりと傾く。
やがて水たまりに沈み込み、泡を立てながら動かなくなった。
「……やったか、ドロップは、なさそうだ」
深呼吸をひとつして、泥まみれの短剣を拭いながら立ち上がる。
第三層の森──どうやら、なかなか油断できない場所らしい。
* * *
歩き出してから、もう数十分は経っただろうか。
木の上から見たときは、もっと近いように思えたが……実際はずいぶん遠かった。
いや、距離だけじゃない。途中でちょこちょこモンスターに絡まれたせいもある。
最初に遭遇した鴉に始まり、イノシシとカエルにとその後何回か接敵した。
(……三層の顔ぶれは、だいたいこいつらってわけか)
二層で人型の敵を見たせいで、この層でも同じ傾向があるかと予想していたが、どうやら外れらしい。
だが純粋な強さだけなら、一層や二層の雑魚より明らかに上がってきている。
スピード、タフさ、そして攻撃のバリエーション──どれもじわじわと手強くなっているのがわかる。
「一層のボスには及ばないが……こいつらも十分厄介だな」
ぼそりとつぶやき、息を整える。
だが、一層や二層に比べれば接敵頻度は低い。
単純に層が広いせいで分布が散らばっているのだろうか。
戦利品といえば、あの鴉から落ちたのがひとつ。
──<漆羽の小手>
黒い羽毛を思わせる艶を持つ手甲で、革のような質感だが指先まで軽く覆ってくれる。
効果の詳細はまだわからない。
だが、手持ちの革手甲よりは明らかに良さそうだと踏んで、その場で交換した。
「……こういうとき、<識別の石板>があればな」
苦笑しながら呟く。
装備品はまだいいが、薬関係などは効果が確認できずに試すのは躊躇われた。
仕方ないか、と漆羽の小手の具合を確かめながら、森の中をゆっくりと歩く。
拳を軽く握っては開き、手甲の動きに違和感がないかを確かめるたび、革の内側がしっとりと手に馴染んでくる。
手首をひねれば、羽のように軽やかな感触が返ってくる。悪くない。
そうして歩き続けると、不意に木々が途切れた。
枝葉が開け、視界がぱっと明るくなる。
そこは、森の中にぽっかりと空いた円形の空間だった。
足元は短い草で覆われ、地面は平らだ。走り回れそうな広さはあるが、静まり返っていて妙に落ち着かない。
サク、サク……
草を踏みしめながら奥へ進むと、広場の中央にぽつんと何かが置かれているのが見えた。
その形は──四角い箱。
「……宝箱?」
思わず声が漏れた。
三鷹迷宮で見たあの時以来だ。
あの時は──転移トラップで酷い目に遭った。思い出しただけで、背筋がざわつく。
(いや、でも……あの時の中身は確かに凄かった)
興奮と、不安。
胸の中でせめぎ合う感情に押されるように、俺はつい足を速めた。
しかし、数歩近づいたところで、ふと違和感が引っかかる。
(……あれ? 三鷹の時と雰囲気が違う)
視線を凝らす。
そうだ、装飾がない。
三鷹迷宮の宝箱は、金色の金具や彫り物で豪華に飾られていて、それだけで「当たりだ」と言わんばかりの存在感を放っていた。
だが、今目の前にあるのは……ただの木箱にしか見えない。
金具はくすみ、彫刻もなく、木の表面には細かい傷や汚れがついている。
(こっちは……いわゆる“普通の宝箱”ってやつか?)
俺はこれまで、宝箱といえば三鷹迷宮のあの豪華なものしか知らなかった。
だからこそ、この質素さが逆に新鮮だ。
中身もそれなり──いや、もしかすると大したことがないのかもしれない。
「さて……開けるべきか、やめるべきか」
木箱を前に、俺は腕を組み、視線を外さずに思案する。
中身が大当たりか、ハズレか──あるいは罠か。
決め手がなく、ただ風の音だけが耳を撫でていく。
その時だった。
……ザワ。
うなじを駆ける悪寒。
気のせいか──と思った瞬間、背中に粘りつくような視線の感覚が走った。
(……なんだ?)
胸の奥がひやりと冷える。
空気が、さっきまでよりも重い。
ゆっくりと、振り返る。
木々の間、陰影の奥に……何かがいる。
何も見えない。だが、そこに何かがいることはわかった。
(……モンスターか? それとも──)
俺は宝箱から一歩だけ離れ、双剣を取り出し低く構える。
心臓が、鼓動を強く打ち始めた。
気配は、じわり……じわり……と木々の間を移動しているのがぼんやりと分かる。
得体のしれない雰囲気に、全身の筋肉が勝手に緊張していく。
「……一体、何が」
低く、誰にともなく呟いた。
風が止まり、気配が濃くなる。
その刹那、木陰の闇がぐらりと揺れた──
* * *
ゆらり──
木陰から現れたのは、全身を覆うローブにフードを目深に被った人物だった。
姿を見た途端、それまで背筋を這っていた濃密な殺気が、嘘のように薄れる。
森の空気は元の静けさを取り戻した……はずなのに、妙な違和感が胸の奥にへばりついて離れない。
俺は警戒を解かず、足を半歩引いて構えた。
「……誰だ!」
声が、広場に短く響く。
問いながら頭をフル回転させる。
(この迷宮に入っているのは俺ひとりのはずだ。追加で隊員が来るなら、まずこんな恰好じゃない……。じゃあ、元から潜っていた? それとも──)
返事はないだろう、と高を括っていた。
だが、ローブの人物はわずかに肩を揺らし、まるで驚いたような素振りを見せる。
その仕草が妙に人間らしくて、逆に警戒心を煽る。
やがて、こちらの問いを吟味するかのように一瞬だけ動きを止め……そして、首を傾げた。
フードの奥の顔は影に沈み、性別も年齢も分からない。
(……なんだ、あいつ……)
全身を覆う布の下から、じりじりと肌を焼くような圧力が滲み出している。
男か女かすら見えないのに、対峙した瞬間、確信に近い感覚が胸に走った。
──強い。
三層まで潜ってきて、一番の強敵は三鷹での<神々の試練>の時のボスだった。
あの時も決して楽勝ではなかったが、それでも心に多少の余裕はあった。
だが、今、目の前に立つ「何か」に対しては……初手から全力を出さなければ、即座にやられる。
理屈じゃない。体がそう告げている。
握った拳に、じわりと汗が滲んだ。
ローブの人物が、ゆっくりと──まるで地面を滑るような足取りで一歩、こちらに近づいた。
その動きは音も立てず、落ち葉すら揺らさない。
俺は反射的に半歩引く。
距離はまだあるはずなのに、急に圧迫感が増した。
(……間合いを詰められた? いや、気のせいじゃない。こいつ、ただの一歩で空気を変えやがった)
フードの下から、白く細長い何かがするりと抜き出された。
刀──だろうか。だが、日本刀のような反りは浅く、幅も細い。柄も妙に長く、金属の質感は鈍い光を帯びている。
(なんだ……あの刃物。見たことがない……)
俺の視線に気づいたのか、ローブの人物は刃を軽く傾け、陽の光を反射させた。
光が目を刺し、思わず細めた瞬間──
影が消えた。
「……っ!」
次の瞬間、空気を裂く鋭い音。
反射的に身を捻った俺の頬を、冷たい風がかすめる。遅れて、後方の木の幹がざくりと斜めに裂けた。
(速ぇ……!)
ローブの人物は、一言も発さない。
ただ、滑るような足運びで俺の正面に回り込み、再び細長い刃を構え直す。
その所作は静かで、しかし研ぎ澄まされた殺意が、皮膚を刺すように迫ってきた。
(こいつ……本気だ)
俺は深く息を吸い込み、足を踏み込む。
金属がぶつかり合う甲高い音が、森の静寂を切り裂いた。
双剣を交差させ、迫りくる斬撃を受け止める。衝撃が腕を痺れさせ、足元の土がずるりと滑った。
(重い……! 細い刃なのに、なんでこんな力が乗るんだ)
ローブの人物は、わずかに体を傾けただけで次の斬撃へと移ってくる。
無駄な予備動作は一切ない。小さな体の揺れから、刃が一瞬で間合いに飛び込んでくる。
防いだ瞬間にはもう次の角度からの一撃が襲い、こちらの呼吸を奪っていく。
「……っはあ!」
俺は双剣を下段から払うように振り上げ、押し返す。
だが相手は後ろへ飛ぶでもなく、滑るように半歩下がり、刃を逆手に持ち替えて低く構えた。
(読めねぇ……!)
再び距離がゼロになる。
風を切る音が耳を裂き、視界の端で枝葉がばらばらに飛び散った。
斬り込まれるたびに火花が散り、その光が残像のように残る。
(くそ……押されっぱなしだ)
それでも、何十合目かの斬撃を受け流した瞬間、手応えが変わった。
相手の刃筋がわずかに逸れた。
「……今だ!」
踏み込み、双剣を交差させて切り上げる。
相手は咄嗟に身を捻ってかわしたが、そのローブの袖が裂け、細く白い腕が露わになった。
わずかに後退したその足運びに、今までの切れ味はない。
(ほんの少し……押し返せた)
呼吸を荒げつつも、俺は双剣を構え直した。
相手の無言の視線が、ますます鋭くなる。
次は、こっちから行く番だ。
地を蹴った瞬間、全身の血が熱く沸き立った。
双剣が風を裂き、続けざまに左右から斬り込む。
金属同士がぶつかる甲高い音が、途切れず森に響き渡った。
「はああっ!」
相手の刃を弾き飛ばす勢いで叩きつけ、そのまま踏み込む。
今度は俺が一瞬たりとも間を与えない。
右、左、斜め下──動きは我流だが、畳みかける速度だけは負けない。
ローブの人物は、最小限の動きで捌こうとするが、その腕を押さえ込むような一撃を織り交ぜると、初めて足運びが乱れた。
(よし、効いてる!)
枝葉を巻き込みながら斬撃を振り抜く。
火花が散り、木の幹がぱきりと裂ける音が耳に届いた。
相手の視線が一瞬だけ大きく揺れる──
「まだだ!」
さらに踏み込み、胸元へと両刃を交差させて斬り込む。
その瞬間、相手は身を翻し、地面を蹴って大きく後方へ飛び退いた。
空気を切り裂く音が響き、ローブの裾が翻って闇に舞う。
数歩離れた場所で着地した相手は、無言のまま、僅かに肩で息をしていた。
覆われたフードの奥から、こちらを鋭く見据えている。
(……押し込んだ。この距離、どう出る?)
俺は双剣を構え直し、荒くなった呼吸を整えながら、次の動きを見極めようと目を細めた。
距離を取った相手は、しばし無言でこちらを見据えていた。
剣先は微かに下がっているが、全身から漂う気配は消えていない。
まるで、次の一手を選びあぐねているようだ。
やがて、ローブの中でわずかに肩が動く。
懐から引き抜かれたのは、一枚の薄いカード。
金属とも紙ともつかない質感で、表面には淡く輝く模様が走っている。
(……なんだ、それは)
俺が一歩踏み出すと、相手はほんの僅かに顔を伏せ、何かを決断したようにカードを握り込んだ。
その瞬間、パリンと空気の膜が割れたような音が響く。
カードの表面から光が溢れ、無数の粒子が弾けるように広がった。
青白い星屑の群れが、意思を持ったかのようにこちらへ迫ってくる。
「……まずい!」
反射的に横へ跳ぶ。
だが光の粒子は蛇のように進路を変え、背後から包み込むように迫ってくる。
必死に剣で払い落とそうとするが、触れた瞬間に刃をすり抜け、肌にまとわりつく。
「くっ……!」
視界が白く染まった。
耳の奥で、低く唸るような振動音が響く。
全身が引きずられるような感覚とともに、足元の地面が消えた。
最後に見えたのは、静かにこちらを見つめるローブの人物の影。
その姿も、次の瞬間には光の中へと飲み込まれていった。




