第36話 迫る怪しい影
翌日、俺は再び七所迷宮の入口に立っていた。
朝の空気は少し湿り気を帯びていて、吐いた息がじんわりと重く感じる。
ここまでは、普段見かけたことのある隊員の車で送ってもらった。
タケウチ達は忙しいそうだ。
運転席の隊員が、途中でぽつりと「隊長たち、今日も相当バタバタしてるみたいですよ」と漏らした。
三層の調査や物資搬入で、しばらくまともに休めていないらしい。
あの面々の顔が脳裏に浮かび、少しだけ苦笑が漏れる。
迷宮前の広場には、見慣れた制服姿の隊員が立っていた。
以前よりも数は多く──といっても三鷹のような物々しさはなく、せいぜい五人程度。
それでも、この静かな七所にしては人が増えた印象だ。
「おはようございます」
軽く会釈を返しながら通り過ぎると、彼らも小さく頭を下げてくる。
深く話し込むこともなく、俺はそのまま迷宮の中へ足を踏み入れた。
一人きりで入るのは、意外と胸に来る。
これまで何度も複数人で潜ってきたせいか、背後に誰の足音もしないのが、やけに心細い。
薄暗い通路の先、湿った石の匂いと、遠くで滴る水音だけが耳に残る。
不安の影がじわりと背筋を這い上がってきたが、首を振って振り払う。
「よし」
小さく声を漏らし、気合を入れ直す。
まずは、ボス部屋まで一直線だ。
道中の雑魚敵には目もくれない。黒光りするムカデや、羽を震わせる大型の蜂を見つけても、軽く助走をつけて跳び越え、足音を響かせながら駆け抜ける。
前回は慎重に進んだせいで一時間近くかかった道のり。
今日は、ただ一直線に走り続けるだけで、わずか十分ほどで辿り着いた。
──そして、目の前にそびえる。
磨き抜かれたような黒い石造りの大扉。
(さて……よくある話だと、ボスのリポップなんてのもあるが、さてどうだ?)
胸の中でひとりごち、両手を扉にかける。
黒く鈍い光沢を放つ扉は、押し返してくるような重みを持っていた。
ゆっくりと押し開けると、隙間から冷えた空気が流れ込んできて、肌を刺す。
俺はそのまま身体を滑り込ませ、背後で扉が「ゴウン」と重たく閉じる音を聞いた。
薄暗い室内の奥、そこにいたのは──前回と同じ、ずんぐりとした巨大な昆虫。
甲殻が硬質な光を返し、節のひとつひとつが岩のように分厚い。
じっと見据えてくる複眼は、感情があるのか分からないが、確かに俺を捕捉している。
(……出たな。やっぱり同じボスが復活してる。リポップの周期は分からないが、周回できるならアイテム集めも悪くない)
低く構えると、奴の足先がゆっくりと動き出す。
甲殻が擦れるギチギチという音が部屋に満ち、相手も警戒しているのが分かった。
俺はアイテムボックスから黒蟻の短剣を取り出す。
刃が淡い光を反射し、手にしっくりと馴染む重量が心地いい。
……一瞬、空気が張り詰めた。
お互いの呼吸さえ止まったような、静止した時間。
次の瞬間、床を蹴る。
低い姿勢のまま、一気に距離を詰め、横凪ぎに振り抜いた短剣が硬い甲殻を裂いた。
鈍い抵抗の後、刃が肉を断ち切る感触が手に伝わる。
「ギギィィ!」
甲高くも鈍い悲鳴が響き、巨体がよろめく。
振り向きざま、背中の甲殻が割れて、ヌルリと触手のようなものが飛び出した。
「させるか──!」
俺は跳ね上がり、その勢いのまま短剣を振り下ろす。
刃は触手を易々と断ち切り、断面から淡い液体が飛び散った。
巨虫は立つこともできず、鈍い音を響かせてその場に崩れ落ちた。
まさしく──虫の息、というやつだ。
【<状態異常回復薬(最下級)>が5つドロップしました】
【<毒よけの首飾り(下級)>がドロップしました】
短いアナウンスが脳裏をよぎる。視界の端に浮かぶ表示と、床に転がる戦利品が一致しているのを確認し、俺はゆっくりと短剣を下ろした。
足元には、甲殻のひび割れからまだわずかに体液を流し続ける巨虫の死骸。鼻を刺す鉄と酸の混ざった匂いが、部屋の空気に重く漂っている。
(……今回は<仙人漢方>はドロップなしか。少し期待してたんだがな)
肩で息をつきながらも、内心でため息をつく。まぁ、こればかりは運だ。
視線を部屋の奥へと向ける。そこは先ほどまで壁しかなかったはずなのに、俺が近づくと音をたてて壁の一部がせり上がる。
やがて暗がりを宿した入口が現れた。
(やっぱり……三鷹の一層と同じ造りか)
中へ進むと、冷えた空気と共に、螺旋を描く階段が闇へと続いていた。
踏み出す足が、石段の感触を確かめながら下りていく。
音はほとんど響かない。静けさが、やけに耳にまとわりつく。
階段を下り切ると、そこは三鷹の時と同じく小さな部屋だった。
無骨な石造りの壁と、何もない床。
──ただ、その中央に鎮座する石碑だけが、異質な存在感を放っている。
近づくと、石碑が淡く脈打つように光を帯び、表示が浮かび上がった。
ポータルでの入口への帰還が可能になったことを確認し、息をつく。
「よし……これで、帰還の足は確保できた」
これで最悪の事態は避けられる。
ポータルの光を背に、再び前へと向き直る。
(さて……続けて第二層だ。まだ時間は十分ある。どこまで行けるか)
そう心の中で呟き、俺は次の扉に手をかけた。
冷たい金属の感触が手のひらを包む。ゆっくりと押し開け、闇の中へ足を踏み入れた。
* * *
イトウが迷宮に足を踏み入れてから、およそ一時間。
七所迷宮前では、隊員たちが散らばるように作業を続けていた。机代わりの折りたたみ台の上には分厚い資料や端末が並び、ページを繰る音とキーを叩く軽い音が絶え間なく響く。
現場は騒がしくはない。むしろ、必要なことだけが淡々と積み上がっていく、ほどよい緊張感と忙しさが漂っていた。
──その空気を裂くように、ふらりと影が現れた。
深くフードをかぶった人影。顔の輪郭はおろか、視線すら伺えない。
現場を囲う工事用の布地の隙間を、まるで最初からそこにあった道を知っているかのようにするりと抜けてきた。
布の端が微かに揺れる。だが、通り過ぎた瞬間を見た者はいない。
何者かは、そのまま人の合間を縫って歩き出した。書類を抱えて歩く者の横を、端末を見つめながら移動する者の背後を、ぬめるように滑っていく。
──不可解だった。
距離は近い。すぐそばを通っている。それなのに、隊員たちの視線は決してその影を捉えない。まるで、そこに存在していないかのように。
影はやがて、迷宮の入口へ辿り着く。
躊躇もためらいもなく、暗がりの中へと足を踏み入れた瞬間──。
一陣の風が、現場にいる隊員たちの頬をそっと撫でた。
「……ん? 今、何か通ったか?」
書類を整理していた一人が顔を上げ、近くの同僚へと問いかける。
「いや、別に。人も通ってないぞ?」
同僚は首を横に振り、再び端末に視線を戻した。
「……そうか。あ、そうだ。近くの空き地の所有者確認って、もう終わってたっけ?」
「まだだ。あとで照会する」
何事もなかったように会話が続き、作業の手は止まらない。
その背後で、異物はすでに地下深くへと姿を消していた。
誰一人、侵入者の存在に気づくことなく──。
* * *
──七所迷宮"第三層"。
階段を降りた瞬間、ひやりとした空気が頬を撫でた。
目の前には、天井も壁も見えないほど広がる森。
高く伸びた木々が頭上で枝を絡ませ、わずかな光をこぼしている。その光はどこか人工的な安定感があり、現実の太陽とは違う、不思議な白さを帯びていた。
鳥の鳴き声も、風に揺れる葉擦れの音も聞こえる。それなのに──どこか“生きていない”感覚がある。息を呑むほどの静謐さだ。
「……まさしく森の中、って感じだな。でも、現実の森じゃない」
背後を振り返ると、空中にぽっかりと口を開けた螺旋階段が、まるで途中から切り取られたかのように宙へと伸びている。
現実世界のどこにもあり得ない光景だ。それが、今いる場所が迷宮の内部だと、嫌でも理解させてくる。
第三層に来るまでのことを思い返す。
あのあと、第二層は思ったよりもあっさり進めた。道中で出てきたのは、二足歩行の蜘蛛やムカデ。しかも、やたら毒々しい色合いをした気味の悪い奴らだ。
ドロップも、黒蟻の短剣に似たものに毒効果が追加された品ばかり。毒耐性があるのか、第二層の敵には毒がまったく効いていないようだったから、結局そのまま黒蟻の短剣を握って進んだ。
そして二層のボス戦。
現れたのは、胴回りが樽ほどもある巨大な大蛇。その周囲を、第二層の雑魚が五体も取り巻いていた。
複数戦ということで、正直少し身構えたが──毒耐性のネックレスを装備していたおかげで、毒の脅威は弱く。しかも雑魚は、刀を振るうまでもないほど簡単に沈む。鎧袖一触、とはこのことだ。
ただ、大蛇の生命力はそれなりに高く、斬っても斬っても動きが鈍らない。しつこい攻撃を何度もいなし、ようやくその長い体が崩れ落ちたときには、さすがに少し息が上がっていた。
戦利品は三つ。
一つ目は、淡く光を反射する銀白色の指輪──<白鱗の指輪>。
二つ目は、蛇の鱗を丁寧に編み込んだような渋い光沢のマント──<蛇鱗のマント>。
そして、初回討伐の報酬として手に入れたのは──初めて見る双剣。
黒く硬質な刀身が二本、交差するように収められている。名前は<蛇帝の双牙>。柄の部分には蛇の意匠が彫られていて、握るとひやりとした感触が伝わってくる。
「……これは、使えるかな」
双剣を握り直し、重さを確かめる。
思った以上に軽い。二本に分かれている分、片方の剣だけなら片手で軽く振れる。
そのくせ、刃の重心は絶妙に前に寄っていて、振ったときの加速が乗りやすい。これは……かなり戦いやすそうだ。
「ちょうど、試し切りにはいいか」
──バサバサッ。
頭上で枝葉が揺れた。森の奥から、大きな影が羽ばたきながら姿を現す。
全長二メートルほどの、黒い羽根を持つカラスのようなモンスター。鋭い嘴と爪が、光を反射して不気味に光る。
「来るな……」
翼をたたみ、弾丸のような速度で降下してくる。
その一瞬、視界から黒い影が消え、耳元で風が裂ける音が鳴った。
俺は体をひねり、右手の双剣を低く構える。
足元すれすれを掠めてきたソレの脇腹を、横薙ぎに斬り上げた。
ザシュッ!
刃が肉を裂く感触と同時に、反対の左手の剣が反射的に動く。
まるで二本の牙が交互に噛みつくように、二撃目が続いた。
「……っ、これは……!」
切り込んだ衝撃がほとんど腕に残らない。刀身が異様に滑らかに動く。
双剣はそのまま流れるように連撃へと繋がり、三撃、四撃──最後に逆袈裟で叩き割る。
羽ばたこうとした巨鳥が、短い鳴き声を残して地面に崩れ落ちた。
「速さが、段違いだな……」
刀身の黒い光沢には、鳥の血が細い筋となって流れている。
それを軽く払うと、またひやりとした冷たさが手に戻った。
この<蛇帝の双牙>──第三層での立ち回りを、大きく変えてくれる武器になるだろう。




