第32話 第二層での邂逅
ポータルのことも気にはなったが、今は一旦、頭の隅に追いやる。
──目の前に広がるのは、未知の階層だ。
ここから先は、誰も踏み入れていない迷宮の第二層。ほんの少しだが、背筋がぴんと張るのを感じた。胸の内に、じわりと緊張が広がる。
周囲を見渡す。他の三人も、それぞれに気持ちを整えているようだった。
視線が交わり、無言のうちに頷き合う。
俺が先頭に立って、部屋の奥にある扉へと向かう。重厚な石扉に両手をかけ、ゆっくりと押し開いた。
ぎぎ、と湿った音を立てて、扉がわずかに軋む。開いた先に広がっていたのは、これまでと同じような質感の洞窟。
湿気が肌にまとわりつくようで、鼻腔に生臭さが張りつく。空気は重たく、かすかに霧が漂っているような錯覚を覚えた。
「……ジメジメしてるな」
自然と、そんな言葉が漏れる。
奥へと続く通路は暗く、どことなく閉塞感を感じさせた。第一層のような開放的なホールではない。まるで、深く沈んでいく井戸の底をのぞき込んでいるような──そんな不安を煽る空間だった。
警戒しながら、少しだけ扉の先に足を踏み出す。
その瞬間、視界の端に何かが浮かび上がった。
「……!」
思わず身を引きそうになる。
だが、それは攻撃でも罠でもなかった。俺の目の前に、淡く光るパネルが静かに表示される。
【迷宮第二層の侵入を確認しました】
【交換できるアイテムを更新いたします】
……なるほど。
以前と同じく、例の固有スキルが反応したらしい。
第二層に入ったことで、交換可能なアイテムが更新された──その情報が、まるで通知のように自動で表示される仕組みだ。
だが、それを他の三人に悟られるわけにはいかない。
一瞬止まってしまった足を誤魔化すように、くるりと振り返る。
「……あたりには、とりあえず敵影はないみたいです」
努めて平静を装い、笑みさえ浮かべてそう言った。
「少し進んで、様子を見てみましょうか」
タケウチが頷き、ケイゴとミツイも続く。
交換リストが更新されたということは──第二層には、第一層と違う敵が現れるということだろう。
内容の確認はとりあえず後回しにして、先へ進むことにする。
慎重に、一歩ずつ。
壁際をなぞるように、俺たちは洞窟の奥へと進んでいった。足元にはざらりとした岩の感触、微かにぬかるむ場所もある。足音を立てぬよう気を張るたびに、額ににじむ汗が冷えていく。
やがて、前方にかすかに開けた空間が見えてきた。
「……広間?」
呟いた声は空気に吸い込まれるように小さく消えていく。周囲の壁よりもひときわ大きな黒い影──どうやら、そこはやや広い部屋のようだった。そしてその中央には……。
──いる。複数体。
暗がりの中、それは確かに動いていた。
視界の端に、ぼんやりと映る形が妙にくっきりとしている。距離があるにも関わらず、こちらの視線を遮るような靄の中でも、はっきりと敵影を捉えることができる。……ステータスによって、視覚能力も強化されているのだろうか。
俺はその場にぴたりと足を止めた。
そして、声を潜めて後ろにいる仲間たちに告げる。
「この先、少し開けた場所があります。モンスターが、複数……」
俺の小声に、タケウチがすぐさま反応した。
「どのようなモンスターか、見えますか?」
彼の口調もまた、極限まで音を抑えている。用心深さは隊長らしいとも言えるが、それ以上に、この迷宮の異様さが警戒を強めさせているのかもしれない。
俺も、視線を前に向けたままそっと応じる。
「……見た目は“アリ”ですね。ただし……“二足歩行”してます」
一瞬、背後の空気が凍った気がした。
息を呑む気配が、三人それぞれから伝わってくる。
「……に、二足って、あれか? 人間みたいに立って歩いてるってことかよ……」
ケイゴが押し殺すような声で尋ねる。驚きと、少しの怖気を帯びたその声に、俺はうなずいてみせる。
「……ああ、まっすぐ立ってる。まるで、普通の人間みたいな……そんな動き方をしてる」
口に出しながら、改めてその異様さを実感する。
仮に巨大な虫が相手だとしても、四つん這いや這うような動きなら、まだ“魔物”としての理解が追いつく。けれど、直立し、二本足で歩くアリだなんて……それはもう、どこか“人型の怪物”に近い。
無意識に、背筋に冷たいものが走った。
もし奴らが知性を持っていたら?
言葉を話せたら?
攻撃の意図を見抜いて、こちらの隙を突いてくるとしたら?
……その瞬間、ただの「討伐対象」から、「交渉の余地を持った相手」にすら感じられてしまう。
「……どうします? このまま戦いますか?」
俺の問いに、誰もすぐには答えなかった。
暗闇の奥、うごめく二足歩行の影。
静かな迷宮のなかで、そこだけが異様な存在感を放っていた。
一瞬の沈黙が空気にしみ込む。
やがて、タケウチが口を開いた。
「……危険ではありますが、あえて、相手の戦意の有無を確かめたいと思います」
彼の声には迷いがありつつも、慎重さと責任感が混ざっていた。淡い光に照らされたその顔には、若干の緊張が見えた。
「幸い、こちらにはイトウさんがいる。最悪、交渉が決裂してそのまま戦闘になったとしても……おそらく、問題なく抑えていただけるかと。ただ……どうしても、頼り切りになってしまう形になりますが……」
後半は、どこか申し訳なさそうに、俺の目をそっと伺うような言い方だった。
正直、頼られるのは嫌いじゃない。
それに、この程度の緊張感で怯むなら、ここに来た意味がない。
「大丈夫です。やるだけやってみます」
言いながら、視線を敵のいる広間へ戻す。
二足歩行のアリ──たしかに、見た目は気味が悪い。人間のようなシルエットで動くというだけで、無意識に「意思」を感じてしまいそうになる。だが、遠目に見る限りでは、人間らしさとはほど遠い。甲殻質の肌、異様に長い四肢、規則正しく蠢く姿は、むしろ“エイリアン”と呼んだ方がしっくりくる異質さだった。
(まあ……人型っぽいからって人権団体に配慮が必要かって言われると、だいぶ疑問だけどな)
妙に現実的な思考が頭をよぎる。
仮にこれが、知性があって言語を持ち、コミュニティを作っているような存在だったなら、戦うこと自体に逡巡が生まれていたかもしれない。でも、現段階ではただの敵性生物でしかない。距離を詰めてくる様子があれば、容赦するつもりはない。
「じゃあ、最初の声かけ──交渉というか、呼びかけはタケウチさんが?」
俺が問いかけると、タケウチは小さく頷いた。
「ええ。仮に敵対的でなかったとしても、まずは“こちらに敵意がない”ことを伝えたい。言葉が通じるかどうかは別としても……」
言葉を切る彼に向かって、俺も軽く頷き返す。
「了解しました。じゃあ、俺が先行して、ある程度距離を詰めたら、タケウチさんが前に出るって感じで」
「その流れでいきましょう」
彼の目がわずかに鋭くなる。作戦が決まった。
背後のケイゴとミツイもまた、無言で頷いた。空気が引き締まるのを感じる。全員が、何が起きても即応できるように、心と体を整えていた。
俺はひとつ、深く息を吐き──再び、前を向いた。
先ほどよりもさらに慎重に、息を潜めながら俺たちは広間へと歩を進める。
周囲の岩陰や起伏を縫うようにして進んでいたが、距離が縮まるにつれて、“彼ら”の姿が徐々に明瞭になっていった。
あれは──やはりアリ、だと思う。ただ、現実のものとはあまりにもかけ離れていた。
三体。どれもが人間の成人ほどの体格を持ち、艶のある甲殻に覆われた肌が、淡い迷宮の光に照らされて黒々と浮かび上がる。虫独特の節くれだった体の造形はそのままだが、脚は四肢ではなく、二本だけでしっかりと地面を踏みしめていた。まるで、人間のように。
武装までしている。
前方の二体は、有機的な光沢を帯びた黒い長剣を携えていた。まるでクワガタの顎を引き伸ばしたようなシルエット。鋭さというよりは、異質な不気味さを感じさせる。加えて、反対の手には丸みを帯びた盾。こちらも金属ではなく、甲殻のような、重々しい質感だ。
そして奥。最後の一体は、手にねじくれた木の棒のようなものを持っていた。杖──に見えなくもない。魔法を使う存在なのか、それとも単なる武器か。判別はつかない。
服は着ていない。裸──なのだろうか。甲殻で覆われた身体のためか、羞恥も寒さも無縁の存在に見える。ただ、その姿には獣のような野蛮さというより、どこか合理的で、機能的な印象があった。
彼らは、特にこちらに注意を払うでもなく、時折、ゆっくりと首を巡らせて辺りを見回している。何かを“見ている”。そこに、知性のかけらが見えなくもなかった。
気づかれていないように見えるが、完全に無警戒というわけではないだろう。
「……タケウチさん、そろそろ」
小声で後ろを振り返らずにそう伝える。声のトーンは低く、けれどはっきりと。広間の入り口までは、あと三十メートルといったところ。これ以上、隠れられる遮蔽物もない。
ここから先に進むには、いっそ姿をさらし、敵意がないことを示す方が賢明だ。
タケウチがこくりと頷いたのが、視界の端で分かった。
そっと、俺と彼の位置が入れ替わる。
一呼吸置いてから、タケウチが姿勢を正す。中腰の態勢からすっと立ち上がり、躊躇なく、しかし抑えた歩幅で広間へと向かって歩き出した。
緊張が、音もなく俺の中を満たしていく。
その背を追って、俺も一歩、また一歩と足を進める。タケウチのすぐ後ろ、斜めに位置取り、すぐに前へ出られるよう意識を集中させる。
もし、あの“アリ”たちがこちらを敵と見なせば、即座に対応する。感情はなるべく押し殺し、身体の内側を戦闘の熱で満たしていく。
タケウチが“彼ら”へ歩を進め、言葉を紡ごうとしたその瞬間だった。
空気が、はっきりと変わった。
今までどこか緩慢で無害そうにすら見えた三体のアリたち。その雰囲気が、一瞬にして殺気を孕んだものへと転じた。
錯覚か、それとも本当に音がしたのか──「ぎろり」と空気が鳴ったように感じた。
三体の複眼が、一斉にこちらを向く。何かに吸い込まれそうなほど無機質で、冷たい眼差し。牙のような顎が「カチリ」と鳴り、その音だけがやけに耳の奥に残った。
次の瞬間、剣を構えた二体が、鋭く地を蹴ってタケウチへと突進してきた。
速い。
迷いのない、殺すための動きだった。両腕の刃が一直線に突き出され、そのままタケウチを貫く──
はずだった。
──バゴンッ!
鈍く、重い衝撃音が広間に響いた。
二体のアリが、まるで跳ね飛ばされたかのように奥へ吹っ飛んでいく。
タケウチの前には、両の拳を振り切ったままの俺が立っていた。
「……一応、まだ確証はないんで素手で対応してます。これで死んでたら、それまでってことで……」
そう言って振り返り、タケウチに確認を取る。だが、その言葉を最後まで言い切る前に、俺の背筋がピクリと強張った。
奥にいた“あの一体”──杖を持ったアリが、気配を変えていた。
細いが硬質な指がねじれた杖を掲げ、精神を研ぎ澄ますような動作をしている。
「まずい……!」
そう思った刹那、アリの複眼がギッとこちらを射抜くように睨みつけ、杖の先が俺に向けられる。
──ドンッ!
足元の地面が唸った。
アリの足元から、岩の棘がまるで噴き出すように突き上がり、それが蛇のような勢いでこちらへと迫ってくる!
「っ! タケウチさん!」
とっさに、俺はタケウチの肩をどんと押し、射線から弾き出す。同時に、自分も跳ねるように脇へ回避。
背後で岩の槍が地を裂く音が響いた。遅れて細かな石片が跳ね、頬をかすめていく。
(……もう、言葉は通じねぇな)
胸の奥が冷えきるような感覚と共に、判断は自然と口をついて出た。
「……やります!」
俺の意思表示に、タケウチもすぐさま頷く。彼の声は悔しさを滲ませていたが、もう迷いはなかった。
「くっ、わかりました! お願いします!」
完全な敵意。対話の余地はない。なら、こちらも遠慮する必要はない──
拳を固めながら、ゆっくりと姿勢を低く構える。視線は前方の“術者”のアリに据えたまま。
……さて、行くか。どうせやるなら、一撃で黙らせてやる。
俺は、じり、と左足を引いて体勢を低くした。視線の先には、再び杖を構えている“術者”のアリ。
まるで殺意を凝縮したかのような気配を放ちながら、あいつの杖が淡く脈動する。次の一撃を放つ気だ。
──なら、撃たせる前に叩く。
意識を集中する。空気の流れ、壁のざらつき、地面の湿り気、すべてがはっきりと感じ取れる。
そして。
俺の足が、地を蹴った。
一瞬、世界が止まったような感覚。風を裂く音すら聞こえないまま、俺は広間を駆け抜ける。
術者のアリが、わずかに驚いたように複眼を見開いた。
その顔面に、拳を叩き込む。
──ドガンッ!!
音というより衝撃。地鳴りのような重低音が洞窟内に轟いた。
ねじれた杖を握っていた腕ごと、そのアリの上半身がめり込むように吹き飛び、岩壁に叩きつけられる。
身体を半分埋めたような状態で崩れ落ちるそれに、もはや動く気配はない。
……まず一体。
振り返る。先ほど吹き飛ばした剣持ちの二体が、すでに体勢を整えて再びこちらに迫ってきていた。
一体が盾を構え、もう一体がその陰から斬撃を放つ。なかなかに息の合った動きだが──
「……甘いな」
俺はその場でわずかに重心を沈めると、盾ごと突っ込んできた片方に対して、そのまま地を蹴って突進。
正面から受け止めた。
──ギャギンッ!
盾と拳が正面からぶつかる。金属と金属がぶつかったような音。
だが次の瞬間、俺の拳に押されるようにして、アリの身体がズズズッと後退し、足元の石が削れた。
「うおおおおおッ!」
気合い一閃、そのまま拳を貫通させるように、盾を押し込み──
バキィィィン!!
甲殻製の盾が粉砕音を立てて砕け散る。同時に、拳がそのままアリの胸を撃ち抜き、背中へ突き抜ける勢いでめり込んだ。
もんどり打って吹き飛ぶアリ。もう一体が慌てて距離を取り、横から斬りかかってくる。
──が、その一撃を、俺は頭を下げて避けると、ぐるりと半身を回して背中で受け流しながら、逆の拳でカウンターを叩き込んだ。
拳が顎を打ち上げる。
そのままアリの身体がくの字に曲がり、宙を舞った。
着地することなく、壁に叩きつけられ、地面へ転がっていく。
静寂が戻る。
洞窟の中、湿った空気の中に、俺の息遣いだけがわずかに響く。
後ろで呆然と立ち尽くしていた三人の気配に、俺は少しだけ肩をすくめて笑う。
「……とりあえず、終わりました。あまり、会話の余地はなさそうでしたね」
そう言って手を振ると、タケウチが我に返ったように駆け寄ってきた。
「い、イトウさん……凄いですね……」
「……カーッ、人がここまで強くなれるもんかね。俺もレベルアップせんとな」と、ケイゴがぼそりと呟き、ミツイは無言でメモを取りながらもやや興奮したように頷いている。
ステータスに任せた戦闘だが、妙に頭が冴えている気がする。
格闘経験なんて、ほぼ無いようなものだが、今まで自身が見てきた実際の格闘技やエンタメの世界の動きをフィードバックして無意識に動いているような感覚。
これが何によるものかは分からなかったが、今は都合が良かったので頭の片隅に一旦追いやった。
さて、これで少なくとも、この階層の危険性は理解できた。
これなら──問題ない。
そう、心の中で呟きながら、俺は改めて、アリたちの残骸へと視線を向けた。
そこには、"奴ら"のドロップアイテムと思われるものがキラリと光って主張していた。




