第31話 迷宮の仕組みがまた一つ
螺旋階段の口を前に、俺たちは自然と歩を止めた。
黒々とした階段の口は、ぽっかりと地底へ向かって開いている。重く澱んだ空気がゆっくりと這い上がってきていた。
しばらく無言でその暗がりを見つめていた俺たちだったが、意を決して口を開いた。
「……どうします? このまま第二層に進んでみるってのも、手だと思うんですが」
言いながら、全員の顔を一人ひとり見ていく。反応は様々だった。
「いいんじゃねぇか?」と口火を切ったのはケイゴだった。気負いのない声音だったが、その目には確かな熱が宿っている。
「第一層のマッピングも終わったし、日もまだ高い。ちょろっと見ていくくらいなら、全然ありだろ」
気楽そうに肩をすくめて笑ってみせるが、こういうときの彼の判断は意外と的確だ。
「しかし……不測の事態もありえます」
対照的に冷静な声で異を唱えたのはミツイだった。腕を組み、階段の口から目を離さないまま慎重に言葉を紡ぐ。
「我々がまだ知らぬ層、未知の構造。リスクを冒してまで今進むべきとは……私は思いません」
確かに、言っていることはもっともだ。俺自身、さっきのボス戦で多少の疲れはある。
とはいえ、迷宮攻略の要となる“情報”は何よりの武器でもある。
そう思っていると、タケウチが一歩前に出て、皆を見回しながら静かに言った。
「今の段階で、少しでも情報を得られるなら、それに越したことはない。だが深追いは禁物だ。安全を最優先して、無理のない範囲で探索する。いいな?」
その言葉に、ケイゴもミツイも表情を緩め、揃って小さく頷いた。
タケウチが最後に、俺の方を向く。
「イトウさん、君の状態は? ボス戦を終えたばかりですが、大丈夫ですか?」
俺は軽く肩を回してみせてから、にっと笑う。
「ええ、大丈夫です。多少は疲れてますけど……短時間の偵察程度なら問題ないですよ」
そう答えながら、ぐっと片腕を上げてアピールする。まだやれる、と。
その仕草に、ケイゴが小さく笑い、タケウチもうなずいた。
「了解。それじゃあ……第二層、少し覗いてみようか」
俺たちは足元の階段へと視線を戻す。
かすかにきしむ石の音、微かに流れてくる冷たい風。
その先には──まだ誰も知らない、新たな領域が広がっている。
* * *
ゆっくりと、俺たちは石造りの螺旋階段を下りていく。
足元はしっかりと固く、踏みしめるたびにわずかに石の軋むような感触がブーツ越しに伝わってきた。精巧に積み上げられた石材は、明らかに人工のものだ。だがその精密さが逆に、どこか人の手を超えた“異質さ”を感じさせる。
壁面をうっすらと照らす淡い光──青白い燐光が帯のように伸び、俺たちの影を長く引いていた。光源は見えない。だというのに、明るすぎず、暗すぎず、階段全体を包み込むように照らしている。
──まるで、水の底へ沈んでいくような感覚。
息を吸えば冷たく湿った空気が肺に入る。静寂のなか、足音だけが規則正しく響く。誰も喋らない。ただ、それぞれが次の層への警戒を込めて、沈黙のまま降りていった。
思っていたより長くはなかった。
数分も経たないうちに、階段は終点へとたどり着く。小さな踊り場の先には、質素な石扉が一枚だけ、じっと待ち構えていた。
俺は一歩前に出て、深く息を吸う。空気はひんやりとしていて、指先が少しだけ湿る。
そして、ゆっくりと扉に手をかけた。
「……いきます」
ギギィ──
押し開いた扉の向こうから、冷たく湿った空気が流れ込んできた。どこか鉄臭く、鼻腔の奥をくすぐるような匂い。暗い、と思った。第一層とは違う、じっとりと陰鬱な空気。
中は岩肌がむき出しの洞窟だった。
足元には細かい砂利が敷き詰められ、壁には青白い苔のようなものがぼんやりと光っている。照明の代わりだろうか。だがその光量は十分とは言えず、視界は常にかすかに霞んでいるような不安定さがあった。
第一層と比べると、通路は狭く入り組んでいて、閉塞感が強い。圧迫されるような感覚に、つい肩に力が入る。
「……なんだか陰気なところだな」
後ろからケイゴのぼやくような声が聞こえた。
振り返ると、彼もまた視界の奥をじっと見つめながら、眉をひそめている。
「空気が重い気がしますね」とミツイが続くように呟き、壁の苔を観察するように目を細めた。
辺りを見渡すと、今いる場所は、少しだけ開けた空間になっていた。小さな“部屋”といって差し支えない構造だろう。俺たちの背後には、いま通ってきた石の扉。そして、正面──奥の壁にも、対になるように一枚の扉が見えた。
「ここが……第二層の入り口というわけか」
タケウチが静かに言う。その視線は、奥の扉へと注がれていた。
だが、それよりも気になるものが部屋の中央に存在していた。
明らかに異質な“それ”。
空間の暗がりにぼんやりと浮かぶようにして、ぽつんと立っている。石碑のようにも見えるし、奇妙なオブジェのようにも思える。無骨な直方体の表面には、うっすらと何かの文様が刻まれているが、見たことのない言語か図形で判別がつかない。
周囲の光苔だけではその全容がはっきりとは掴めないのに──それでも、“存在感”だけは、やけに強烈だった。
「……なんだ、あれ」
小声でそうつぶやきながら、俺はそろりそろりと近づいた。
あと数歩で届きそうな距離──その瞬間だった。
「っ!」
石碑のような物体が、ぼうっと淡い光を放った。
驚いて思わず足を止める。だが、同時に俺の目の前に半透明のパネルがふわりと浮かび上がった。空間に直接、情報が投影されるような──まるで七所で見たあの通知と同じ形式だ。
【第二層への到達を確認】
【第二層ポータルを起動】
【ポータルから第一層入口への帰還を行えます】
【入口ポータルの起動を確認】
【以後入口ポータルから起動した階層ポータルへの移動が可能】
「……ポータル?」
思わず声に出していた。
振り返ると、タケウチたち三人もそれぞれパネルを見上げていた。突然の通知に驚いた様子で、各々の視線がそれぞれの“何か”を捉えようとしている。
「これは……ここに触れれば、転送キーみたいに入口まで戻れるってことですかね?」
そう言って、俺はそっと石碑のような物体を指さす。
ミツイが顎に手をやり、わずかに首を傾げた。
「おそらく、そう解釈して良いと思います。ただ、試すのはもう少し先でも構いませんね。まずはこの層の確認をしてからにしましょう」
「ですね」と軽く笑って答えたものの、ふと引っかかった疑問を口にした。
「……でも、こんなの、迷宮の入口付近にありましたっけ? もし、ここにあるなら、同じようなモノが最初の場所にもあってもおかしくないと思うんですが」
俺の記憶を掘り返しても、あんな目立つ物体があの広場にあった覚えはない。
すると、タケウチが即答した。
「いや、確実にありませんでした。私たちはここ数日、例の“事件”の影響で入口付近を再調査していましたが……こんなものは一度も確認されていない」
その言葉には確信がこもっていた。タケウチの性格上、見落としなどまずあり得ない。
「……ということは」
ミツイが補足するように言葉を続ける。
「さっきの通知にもありましたが、“入口ポータルの起動”──つまり、このタイミングで新たに出現した可能性が高そうですね」
そう言って、彼女は目の前のポータルと呼ばれた石碑を見つめる。その目には、わずかな驚きと、抑えきれない興味の色が浮かんでいた。
第一層を踏破したことで、迷宮そのものが──変化したのだ。
ポータルの発光が落ち着き、部屋に静けさが戻ったところで、ふと、気になることが浮かんだ。
「けど……ポータルが使えるってなると、転送キーってあんまり意味なくないです?」
無意識に口に出していた。
転送キーは、階層全体、特にボス部屋まで踏破してようやく手に入る貴重なアイテムだ。けど、もしポータルで入口に戻れるのなら、わざわざそれを使う意味が薄れてしまうように思える。むしろ、ポータルさえ開放すれば、帰還はいつでも可能ってことじゃないか。
俺の疑問に、ミツイが顎に手を当てて少し考える素振りを見せた後、口を開いた。
「いえ、転送キーの価値は変わりませんよ」
「……というと?」
「今はまだ第一層、第二層ですから、そのままの帰還、ないしはボスを倒しての次階層でのポータル帰還でもいいかもしれません。しかし、今後もっと階層が深くなって、レベリングや素材集めのためにクリア済みの階層を“周回”するようになった時──」
ミツイはそう言いながら、軽くポータルを指さす。
「その階層をあえて踏破せずに、アイテム集めなどだけを目的に巡るとしたら、ボスには挑まず、最後まで進まずに撤退する選択肢もありえます。そのとき、転送キーがあれば、探索終了のタイミングで即座に帰還できる。ポータルよりも柔軟性があります」
なるほどな、と自然に頷いていた。
確かに、俺も昔やってたゲームなんかで、ボスが強すぎる場合、一つ前の階層でレベルを上げてから挑んだり、アイテムを集めたりしたことがあったっけ。そういうとき、リレミトとか脱出魔法みたいなのが便利だった。
つまり、転送キーはそれに近い役割ってわけか。
「そっか……確かに、用途によって使い分ける感じか」
納得しながらも、もうひとつ、気になっていたことを思い出した。
「あ、あと。転送キーって、確か手に入れた本人しか使えないじゃないですか? でもポータルは……入口から第二層に来れるってことは、まだ来たことない人でも一緒に来れてしまう可能性があるんじゃ?」
そう。入口からの“帰還”はいい。けど、逆に“入口から各階層に来る”場合はどうなんだ。たとえば、誰か一人が先に第二層まで踏破していれば、同行者は第一層をスキップしていきなり深層に行けてしまう、なんてことがあるのか。
「……だとしたら、色々と戦略が変わってきますね」
ミツイが目を細めながら言った。
「まあ、第二層がどれほどの危険度かにもよりますが……場合によっては“入口から最短でレベリングスポットに移動”みたいなことも可能になるかもしれません」
「確かに、それができりゃレベルアップも少しはやりやすくなるな」
ケイゴが苦笑混じりに肩をすくめた。
けど、確かに気になる話だ。制度としてそれが許されるのかどうか、迷宮の構造上の“仕様”なのか“例外”なのか、知っておくに越したことはない。
「……一度、調べておいたほうがよさそうですね。今は確認するには限界がありますので、戻ったら隊の人間と確認を行います」
タケウチが静かに言いながら、ポータルの光をじっと見つめた。
その横顔はいつも通り冷静で──けれど、ほんのわずかに、未来への期待が滲んでいるようにも見えた。