第29話 三鷹迷宮のボス
三鷹迷宮──
その深奥へと、タケウチと二人で黙々と歩を進めていた。
ケイゴとミツイとは、もうしばらく前に別行動を取っている。
彼らは第一層を丁寧にマッピングしながらの探索。こちらは一直線にボス部屋を目指す、スピード重視のルートだ。
すでに入口から三時間近くが経過していた。
途中、何度か小休止を挟んではいるものの、じわじわと疲労が蓄積しているのが分かる。
とりわけタケウチの呼吸が、段々と深く、重くなってきていた。
軍人らしく表情には出していないが、額に浮かぶ汗、肩の揺れ、わずかな足取りの鈍さ──そのどれもが、彼の消耗を物語っていた。
道そのものは迷宮という名に反して、さほど複雑というわけではない。
とはいえ、直線的な一本道というわけにもいかず、行き止まりにぶつかっては引き返し、いくつかの分岐を繰り返している。
途中、雑魚モンスターも何度か現れたが、戦闘は基本的にすべてタケウチが引き受けている。
俺は一歩引いた位置から見守りつつ、必要に応じて補助を入れる程度に留めた。
──だからこそ、タケウチはすでに一つ、レベルを上げていた。
【種族 : 人間 】
【レベル:05 】
【経験点:163 】
【体力 :46 】
【魔力 :08 】
【筋力 :42 】
【精神力:52 】
【回避力:30 】
【運 :01 】
彼がステータスウィンドウを確認しながら、短く息を吐く。
「ふう……これで、やっとレベル5ですか……先は長そうだな」
肩に背負ったバックパックを少しだけ背負い直し、額に浮かんだ汗を手の甲で拭いながらも、足を止める気配はない。
むしろ、先ほどよりも一歩ずつ踏みしめるように進んでいる。
(根性あるな、ほんと)
俺は、内心そう思いながらも口には出さず、後方から静かに歩調を合わせた。
七所迷宮の構造と比較すれば、そろそろボス部屋が近くてもおかしくはない。
壁の苔や湿度の変化──目に見えない“深さ”のようなものを、感覚で察していた。
「この調子だと、一日で稼げる経験値は……100から、頑張っても200くらいでしょうか」
タケウチが静かに呟いた言葉に、俺は軽く頷いて応じた。
「そうですね。一人で戦って、休憩を挟みながらだと、たぶんそのあたりが上限でしょうね」
「やはり、そうですか……」
「今は自分がフォローしてるんで、それでもこのペースですけど……普通の隊員の人たちだと、もっと効率は落ちると思いますよ」
実際、戦闘に参加した人数で、得られる経験点はきっちり等分される。
誰かが攻撃を一撃でも入れたら、その時点で“戦闘参加者”としてカウントされ、経験点は山分けになる。
それがルールだ。
今のタケウチは、俺の補助を受けつつ、ほぼすべての戦闘を単独でこなしている。
だからこそ、経験点を独占できている。
しかしそれも、俺のような高レベルの後衛が控えているからこそ可能な芸当だ。
「ケイゴとミツイさんは……」
「ええ、二人で分け合ってるぶん、経験値の伸びも半分になりますね」
俺に続く形でタケウチが告げる。
「なんとか、効率的にレベルを上げたいところですが、やはり難しそうだ」
「ですね……。できるだけ自分も協力します」
タケウチは短く「ありがとうございます」と答えてから、少し前を向き直った。
ボス部屋の入り口が近いのか、空気の質が、ほんの僅かに変わった気がした。
(もうすぐだ──)
俺たちは、再び足を速める。
* * *
あれから、さらに一時間が経過した。
少し汗ばんだシャツの内側に、肌がじっとりと張り付く。
沈黙の中、どこか胸の奥がざわつく感覚があった。
そして──目の前に現れたのは、重々しく、そしてどこか禍々しい気配を帯びた巨大な扉だった。
幅、高さ、ともに三メートル以上はあるだろうか。まるで要塞の門のように、両開きの分厚い鉄扉がそびえ立っている。
鈍く光る鋼の板に、赤黒い錆が走っていた。
だが、それ以上に目を引くのは、扉そのものが発するような重圧──視線すら弾き返すような、異様な存在感だった。
(……間違いない)
七所迷宮で見た、あの扉と酷似している。
扉の向こうに何かがいる。その気配が、肌を撫でる空気から伝わってくる。
奥底に眠っているはずの、何かの眼差しを感じるような──そんな錯覚に陥る。
「……ここが、ボス部屋ですか」
隣でタケウチが呟いた。
「ええ、ほぼ間違いないと思います。七所と同じ雰囲気です。中に入れば、おそらく扉は自動で閉まります。倒せば開きますが、退路は断たれるので、入る前の準備は万全にしてください」
俺がそう説明すると、タケウチは目を細め、しばし黙って扉を見上げた。
口を結んだまま、息をゆっくり吐いている。
彼の表情には、緊張と覚悟、それに少しの高揚が混ざっていた。
「じゃあ、一旦休憩しましょうか。装備の確認もしたいですし」
俺はそう言うと、壁際に腰を下ろした。
バックパックを脇に置き、ファスナーを開けて中から水のボトルを取り出す。
温くなった水を一口、喉へ流し込む。
疲労とともに乾いていた口内が、じんわりと潤っていく。
「そうですね。私はここまでで、お役御免ってところでしょうけど……一息入れましょう。さすがに、疲れました」
タケウチも、装備のベルトを緩め、壁に背中を預ける。
肩で息をしながら、空になりかけた水筒を口に当てた。
それでも、彼の目は扉から離れない。
(さて、三鷹のボスはどんな奴かな)
タケウチは緊張した面持ちで、扉を見上げていたが、
対して俺は──というと、どこかで胸が騒いでいた。
ゾワリとした高揚感。
焦燥でも不安でもない。むしろ逆だ。
まるで子どもが夏祭りを前にしているような、そんなわくわくとした気持ちが、心の底から湧いてくる。
(やっぱり、こういうのがたまらなく好きなんだよな)
恐らく、この先にいるのは七所迷宮と同程度のボスだろう。
あのときの戦いを思い返せば、大きな問題はないはずだ。
「タケウチさん」
俺は肩の力を抜いたまま、軽く口を開いた。
「多分、ボスを倒すこと自体は問題ないと思います。今後、皆さんが対峙することもあると思うので、ある程度動きを観察しながら戦いますね」
気負いもなく、自然と出た言葉だった。
情報は、戦う相手を知る上での最強の武器だ。
余裕があるうちに、できるだけ集めておくに越したことはない。
タケウチはその言葉に、ぱっと顔を上げた。
「それはありがたい! ボスの情報があれば、会談のときにも使えますから」
いつもの理性的な雰囲気に比べ、声のトーンがわずかに上がっている。
気のせいではない。
本当に嬉しそうにしていた。
「じゃあ──そろそろ行きますか」
俺は立ち上がり、残っていた水をグイと飲み干した。
プラボトルを一振りして空気を抜くと、バックパックに収める。
ベルトを締め直し、手甲を軽く握って装着感を確かめた。
「ええ、わかりました」
タケウチも同じように装備を整え、肩にかけていたバックパックを背負い直す。
その顔に、ほんの少しだが緊張の色が薄れていたように見えた。
ふたり並んで、再び扉の前に立つ。
見上げるようなその鉄扉は、黙して語らぬまま、そこにあるだけでこちらを試すようだった。
俺は深く息を吸い込み、両手でその扉を押し出す。
ギギギ……と、錆びた金属が軋む音が響く。
重い。けれど、拒絶するような重さではない。
まるで「よく来たな」と、何かが試すように、こちらを迎え入れるかのようだった。
隙間から冷たい空気が漏れ出し、ふっと足元を撫でていく。
その一歩先に、戦いの場がある。
俺が先に足を踏み入れ、タケウチが続いた。
そして──
ギギ……バタン、と。
鉄の扉が背後からゆっくりと閉まり、やがてドスン、と鈍い音を立てて完全に閉じた。
外界からの光は断たれ、空気が変わる。
冷たく、重く、異質な気配が、全身を包み込む。
俺たちは、いま確かに“その領域”に足を踏み入れたのだった。
* * *
部屋に足を踏み入れた瞬間、思わず立ち止まった。
(……ボスは、どこだ?)
警戒して周囲を見回すが、それらしい気配はない。
空気は重く、静寂に包まれている。にもかかわらず、肌の奥がぞわりと逆立つような不穏な気配だけは、確かにあった。
部屋の構造自体は、これまで歩いてきた迷宮の通路と大差なかった。
石灰岩のような壁、湿った空気、天井からはわずかに水滴が垂れている。
違うのは、天井が高く、部屋全体がやたらと広いこと──そして、その中心にどっしりと鎮座している“何か”だった。
「……岩?」
直感的にそう思った。
高さは三メートルほどもあるだろうか。
灰色の肌、表面には苔のようなものも生えていて、まるで山肌の一部を切り出してきたかのような、自然のままの塊。
人工物ではないことはすぐに分かったが、どこか不自然に、そこだけぽつんと存在している。
(まさか、あれの後ろに……?)
俺は慎重に、けれど視線を逸らさぬようにして歩み寄る。
タケウチは後方で警戒態勢のまま、俺の行動を見守っているようだった。
距離を半分ほど詰めたときだった。
ふわり。
「……っ!?」
岩が──浮いた。
(いや、浮いた……?)
ありえない光景に、思考が一瞬停止する。
そのまま、ゆっくりと宙に舞い上がっていく。
三メートルはあるそれが、まるで重力を無視するかのように、ふわ、と。
ぽかんと見上げた。
その刹那、感覚が叫ぶ。
(来る──!)
「ッ、下がれッ!!」
反射的に後ろへ跳ねる。
その瞬間、視界の隅で巨大な影が急降下した。
ドォォォォンッ!!
岩が地面に叩きつけられた瞬間、爆発的な轟音とともに土砂と風圧が全身を襲う。
地面が揺れる。音が腹に響く。
咄嗟に腕を顔にかざし、砕けた岩片と砂煙から身を守る。
数秒後、土埃が少しずつ晴れていく。
目を細めて、視界を凝らす。
そこにいたのは──岩ではなかった。
「……亀、かよ……」
巨大な甲羅に覆われた、獣のような影。
岩のように見えていたのは、その背中だった。
甲羅には無数の苔と傷が浮かび、まるで年月を重ねた地層のような重厚さがある。
頭部は分厚く、眼光は爬虫類特有の濁りを帯びながら、確かにこちらを捉えていた。
地響きを残したまま、四本の柱のような脚をゆっくりと動かし、巨体が少しずつこちらへ向き直る。
背筋が、ほんのわずかに冷たくなる。
「タケウチさん、大丈夫ですか!」
背後を振り向くと、タケウチは部屋の端、距離を取った位置に立っていた。
顔に土埃を浴びた跡が見えるが、表情は崩れていない。
「問題ありません……けど、あれが、ボス……なんですね……」
「ええ、間違いなく」
俺は目の前の“岩亀”を見据える。
その巨体は、ただそこに立っているだけで威圧感が、ひりひりと肌を焦がすようにして伝わってきた。
(さあ……どう料理してやろうか)
口元に、自然と笑みが浮かぶのを感じた。




