第3話 仕事を辞めた日
あの日のことは、やけに鮮明に覚えている。
蝉の鳴き声が耳にまとわりつくほどに騒がしく、アスファルトの照り返しが地面から蒸気のように立ち上っていた。
そんな夏の盛り、俺は仕事をやめた。
理由は――そうだな、特にこれといったものはなかった気がする。
ただ、何となく肌に合わなかった。空気が違うというか、ずっと居心地が悪かったというか。
外回りに始まり、戻ってからの膨大な書類整理。時間になれば会議室へ呼ばれ、長く続く建設的でもない議論。
毎日がただ流れていく。自分の意志ではなく、歯車として組み込まれたまま、回されていく感覚。
「もう、いいか」
ふとした瞬間、そんな言葉がこぼれ落ちた。
その“ふと”がどれほどの意味を持っていたかは、あとになって知ることになる。
翌日には辞表を出していた。
五年勤めた会社だったが、意外なほどにすんなりと受理された。上司も、同僚も、少し口元を動かしただけで、引き留めようとすらしなかった。
――ああ、俺はこの職場で“誰でもよかった存在”だったんだな。
そんな考えが脳裏をよぎったが、怒りや悲しみは湧いてこなかった。ただ、妙に納得してしまっただけだった。
今、俺は一人、部屋にいる。
1LDKの賃貸。築十五年ほどだが、駅も近く、コンビニも歩いてすぐの距離にある。壁紙に少し古びた黄ばみが浮かんでいるけれど、住むには充分すぎる。
使い古したソファに体を沈めると、沈んだ背もたれがぎしりと鈍く軋んだ。
天井を見上げながら、窓の外に目をやる。団地の向こうから、通学中の小学生のはしゃぎ声が聞こえてくる。ランドセルの金具がからんと鳴っているのが妙にリアルで、懐かしさと遠さを同時に感じさせた。
「……俺も、あんな頃があったんだっけな」
誰に向けるでもない独り言が、乾いた空間に吸い込まれていく。
地元にはもう何年も帰っていない。両親が亡くなってからは、連絡を取る相手もいなくなった。
実家は確か、母方の親戚がそのまま管理しているはずだが、俺自身は特に帰りたいとも思わない。
ぼんやりと時間だけが流れる。
時計の針の音が、やけに大きく響いていた。
「……腹、減ったな」
ふと鳴った腹の音に、ようやく体を起こす。
ソファから立ち上がると、カーテン越しに陽が差し込んで、床に淡い光と影を落としていた。
ゆるりとキッチンへ向かい、冷蔵庫を開ける。
「……ん」
中には、使いかけの調味料と水だけ。賞味期限を過ぎたドレッシングの瓶が、場違いな存在のように片隅で眠っている。
棚を開けても、カップ麺すら見当たらなかった。
買い置きのつもりだった缶詰も、最後に食べた記憶があるだけで、もうどこにもない。
「ああ、そうだ……こないだ全部食ったんだったな」
忙しさにかまけて、外食ばかりになっていた日々。
家に食料がないことにも、今日になるまで気づかなかった。
静かな部屋に、また腹の音が響く。
「――さて、買い出しでも行くか」
ぽつりとつぶやき、財布の所在を確かめながら玄関の方へ目をやった。
会社を辞めたからといって、急に何かが変わるわけじゃない。
それでも、今日の空気は昨日より少しだけ軽く感じた。
* * *
ドアを開けた瞬間、むわりと熱気が押し寄せた。
コンクリートの地面はすでに焼け、湯気でも立ちそうな勢いだ。アスファルトからの照り返しが足元を包み込み、まるで地面からも焼かれているような感覚に陥る。空を見上げれば、雲一つない夏空が、これでもかと光を降らせていた。
「……うわ、あっつ……」
思わず口をついて出た言葉が、乾いた空気に溶けていく。
天気予報では、夕方にかけてゲリラ豪雨の可能性があると言っていたが、今この瞬間にそんな気配は微塵も感じられない。空は青く、太陽は高く、風さえも熱を孕んでいた。
額を手の甲でぬぐいながら、歩き出す。
スーツを着ていた頃の記憶が、ふとよぎる。
この暑さのなか、ネクタイを締め、ジャケットを羽織り、得意先へと回っていたあの頃――
「常識」や「礼儀」の名のもとに、汗だくになりながらも黙々と仕事をこなしていた自分が、今では他人のように思える。
脇をすり抜けていくサラリーマンが、顔をしかめながらハンカチで額をぬぐっている。
腕には資料の入ったバッグ、足取りは急ぎ気味。
彼の姿が、つい先日までの自分と重なって見えた。
「……お疲れさまです」
思わず声に出しそうになって、喉の奥で押しとどめる。
その代わりに、ひとつ深く息を吐いた。
さて、問題はこれからだ。
腹が減っている。けれど、どこで何を買うか。
スーパーか、コンビニか。頭のなかで天秤にかける。
品ぞろえを考えれば、もちろんスーパーの方が良い。惣菜も豊富で、弁当類も種類がある。
だが、スーパーまでは少し歩く。ましてや、この暑さの中だ。
「……近い方にしとくか」
ぽつりと独り言を漏らし、足をコンビニの方向へ向ける。
日差しに目を細めながら、フラフラと歩き出した。
アスファルトの上は逃げ場のない熱気が充満していて、一歩踏み出すごとに体力が削られていくようだ。
道の向こうから、日傘をさしたご婦人がゆっくりと歩いてくる。
涼しげな帽子に、風通しの良さそうなワンピース。
その姿を横目に見ながら、俺は己の浅はかさを噛みしめる。
「……帽子くらい、かぶってくりゃよかったな……」
陽に焼かれる頭皮が、じりじりと痛い。
手をかざしてみても焼け石に水、むしろ掌の影の中の熱気の方がこもっているような気さえした。
コンビニまでの道は、緩やかな坂を下るようになっている。
都心から少し離れたこの地域は、昼間は驚くほど静かで、人通りもまばらだ。
聞こえてくるのは蝉の声と、時折風に乗って届く風鈴の音くらい。
両脇には新しく建てられた家々が並び、まだ土の匂いを残す庭先には、青々とした芝生や、植えたばかりの樹木が揺れている。
そういえば――と、思い出す。
このあたり、昔は田んぼばかりだったと聞いた。
けれど今では、そうした風景もわずかに残るばかり。
気が付けば、四角い箱のような建売住宅が、雨後の筍のように立ち並ぶようになった。
それでも、角を曲がったところには古びた木造の家があり、その庭先ではトマトらしき鉢植えが陽を浴びていた。
少し歩けば、草いきれの匂いが鼻先をかすめる。
「……こういう、取り残されたような場所、嫌いじゃないんだよな」
つぶやいた声に返事はない。けれど、風が一陣吹いて、木々の葉がざわめいた。
まるで、それが答えのように思えた。
――あと少しで、コンビニだ。
もう一踏ん張り、と自分に言い聞かせ、汗ばんだシャツの背中に風を感じながら歩を進める。
* * *
自動ドアが、かすかな電子音とともに左右に開いた。
その瞬間、冷たい風が全身を包み込む。
エアコンの涼気が、焼けた肌に沁みるように触れてきて、思わず立ち止まった。
灼熱の屋外から逃げ込んだ身体にとって、それはまるで救いの手だった。
「……はぁ、生き返る……」
誰に聞かせるでもない独り言が漏れる。
Tシャツの背中にこびりついた汗が、冷気でじんわりと冷えていくのがわかる。
数秒、いや十秒近くは入口で放心していたかもしれない。
だが、ふと我に返って、後ろを振り返る。
誰かが待っていたら迷惑だろうと思ったが、幸いにも他に客の姿はなかった。
少し肩の力が抜けた。
薄明かりの蛍光灯に照らされたコンビニの店内。
冷蔵棚のガラスには薄く曇りが浮かび、雑誌コーナーにはスポーツ紙が無造作に差し込まれている。
BGM代わりのポップな店内音楽が、耳の奥で軽やかに流れていた。
ふらりと足を向けた弁当コーナーには、所狭しと並べられたパッケージが整然と並び、どれもそれなりに食欲をそそる。
カツ丼、からあげ弁当、幕の内――
だがその中で、俺の手が伸びたのは、生姜焼き弁当だった。
――安定の一品。外さない。
そう思いながら、パッケージ越しに豚肉と玉ねぎの姿を見つめる。タレが染みて、ほんのりと湯気が立っていそうな錯覚にすら陥る。
「最近のコンビニ弁当も、馬鹿にならないな……」
ぽつりとつぶやいて、少しだけ苦笑した。
仕事で忙殺されていた頃も、こうして手早く済ませられるコンビニ飯に何度助けられたことか。
続けて、お茶の棚に向かい、無糖の緑茶のペットボトルを手に取る。
そしてレジ横のスナック菓子棚に寄り道して、小袋のポテチとチーズ味のクラッカーもカゴに放り込む。
ちょっとしたご褒美――そんな気分だった。
レジはセルフではなく、年配の女性店員がにこやかに応対してくれた。
「温めますか?」という問いかけに、首を横に振る。
どうせ、あと数分もすれば、またこの灼熱の中に戻るのだ。どうしても、弁当は少しでも冷たいままで持ち帰りたかった。
会計を済ませ、買い物袋を片手に外へ出る。
――再び、夏の重さが身体にのしかかる。
外の空気は、冷房の効いた店内にいたせいか、先ほどよりもさらに濃密に感じた。
じわじわと、肌を焦がすような日差し。光と熱が無遠慮に降り注ぎ、さっきまでの涼しさが嘘のようだ。
「……やっぱ、暑っ……」
ぼやきながら、額に浮いた汗を手の甲でぬぐった。
空腹は限界に近づいていて、腹の虫が盛大に自己主張を始めている。
ぐう、と鳴ったその音に思わず笑ってしまう。
「はいはい、わかったわかった。今帰るからな」
自分の腹に向かってそう答えながら、袋を揺らして歩き出す。
朝よりも少しだけ心が軽い気がしたのは、ひとつ区切りをつけた安堵か、あるいは満たされる予定の胃袋への期待か。
蝉がまた、わしゃわしゃと鳴いている。
日差しの中、照り返す歩道を一歩ずつ戻る。