第27話 再度・三鷹迷宮
ヨセミテ迷宮・第三層。
カリフォルニアの大自然の中に忽然と口を開いたこの迷宮は、外界の森林に似せた構造を持ちながらも、どこか現実離れした静謐さを漂わせていた。
濃い緑の中を、ひとりの女性が歩いていた。
長身で、引き締まった身体にはしなやかな筋肉が浮かび上がる。露出の多い装束は、まるで自らの強さを誇示するかのようだ。
その肌に光るのは、肩や腕、太腿の一部にだけ取り付けられた金属製の防具。軽装ながら、要所だけは固めているのが、逆にこの環境の危険さを物語っていた。
──そして、ここは迷宮。
この不可思議な世界では、そのアンバランスさがかえって自然に思えた。
女性は、誰もいないはずの森の中で、朗らかに声を上げた。
「んでー、なんであたしがジャパンなんかに行かなきゃいけないのさー。
生魚、マジで苦手なんだけどー?」
返事を待つように、彼女は首を傾げる。
その耳元には、奇妙な光を帯びた通信装置が取り付けられていた。
陶器にも金属にも見える滑らかな質感に、不可思議な文様が淡く浮かぶ。緑色のランプがチカチカと瞬き、どうやら相手の声が届いているらしい。
「え、SUSHI食いに行くんじゃないの? ……って、ジョーダンだって! HAHA!
あたしだって聞いてるよー、例のミタカ? アーティファクトが出たんでしょ?」
彼女はひとりで大笑いしながら、深い森の中を、まるで無人の平原でも歩くかのようにスタスタと進んでいく。
周囲には、迷宮特有の微かなざわめきが漂っている。風もないのに葉が揺れ、奥の暗がりで何かが蠢く気配がする。それでも彼女は、危険を感じていないのか、むしろ楽しげに鼻歌を交えて歩を進めていった。
突然、低く湿った唸り声が落ちた。
「グルルル……ッ!」
反射的に女性が顔を上げる。
枝葉の間を裂くように、巨大な影が落ちてきた。
猿──だが、普通の猿ではない。二回りは大きく、肩から腰にかけて隆起した筋肉が鎧のように盛り上がり、
剥き出しの牙が血に濡れたように光っている。
牙が彼女に届く、その寸前。
──ズドォォォンッ!!
耳をつんざく轟音が迷宮の森に炸裂した。
いつの間にか彼女の右手には、常人の前腕ほどもある巨大なハンドガンが握られていた。
銃口から迸った衝撃は、まるで爆発そのもののようで、
飛びかかってきた猿は、上半身を吹き飛ばされ、地面に落ちて痙攣するだけの肉塊になった。
硝煙の香りが、森の湿った空気に混じる。
だが、彼女の表情は変わらない。
淡いブロンドの髪を揺らしながら、耳元の通信装置に軽く触れ、気怠げに声を漏らす。
「え? 大丈夫大丈夫、いつもの猿だから。
でさー、結局あたし、ジャパンに行くんでしょ?
今はプレジデントの指示で装備品集めしてるんだけどー」
軽口を叩きながら、吹き飛んだ猿には一瞥もくれずに歩みを進める。
その足取りは、迷宮という異常空間にあっても、まるで自宅の庭を散歩するかのように余裕に満ちていた。
森の奥には、まだ数匹の巨大猿が潜んでいた。
枝を軋ませる音が遠くから聞こえたが、彼女の銃声と気配に圧されたのか、
一歩も近づいてくる気配はなかった。
「んー……わかったわよ。そっちが調整してくれるなら、あと三周くらいで戻るわ。
明後日くらいにDCでいいんでしょ?」
やがて、森の奥に場違いな光景が現れた。
巨木の間に、石造りの巨大な扉がぽつんと佇んでいる。
苔むした表面と金属の装飾が不気味に光り、明らかに人工的な気配を放っていた。
「んじゃ、ボス部屋に着いたし、切るわよー。
はいはーい、んじゃまたね」
耳元の装置に軽く触れると、緑の光がすっと消える。
通信を終えた彼女は、何の緊張もなく、手のひらでドアを押した。
──ギギギ……ッ。
重い扉がゆっくりと開く。
彼女はひらりとその中へ消え、直後にドアはドスンと音を立てて閉まった。
再び、森には深い静寂だけが戻るのだった。
* * *
三鷹迷宮前に建つ、あの建物。
かつて、初めて迷宮探索出る前、ここに集められたのを思い出す。
冷たい朝の空気を胸いっぱいに吸い込みながら、俺は足を止めた。
約束の時間まではまだ少し余裕がある。
とはいえ、のんびり外で待つよりは中に入った方がいいだろう。
重たいガラス扉を押すと、かすかに消毒液と油の混じったような匂いが鼻をかすめる。
中は思いのほか慌ただしく、迷彩服姿の隊員たちが書類や無線機を手に、次々と廊下を行き交っていた。
低く交わされる声、床を打つブーツの音が重なり合い、空気に緊張感を漂わせている。
入口付近で立ち尽くして周囲を見渡していると、不意に声が飛んできた。
「あっ、イトウさん! お待ちしてました!」
振り向くと、見覚えのある顔が笑顔で駆け寄ってくる。
あの、三鷹迷宮で初陣を共にした隊員の一人だ。
「こちらへどうぞ。タケウチ隊長、もうお待ちです」
そう言いながら彼は先に立ち、廊下を軽快な足取りで進んでいく。
歩きながら、ちらりとこちらを振り返り、楽しげに話し始めた。
「いやぁ、あの一件がきっかけで、自分も特別班に組み込まれたんですよ。
もしかしたら、今後もイトウさんとご一緒する機会が増えるかもしれません。
そのときは、どうぞよろしくお願いしますね!」
軽く笑みを返しつつも、心の中では別の思いが浮かぶ。
……守秘義務とか、こういう話までしていいのか?
いや、もしかすると、こうやってわざと内部の空気を伝えて、俺を取り込もうとしているのかもしれない。
無駄に警戒する自分に、思わず苦笑しつつも足を進める。
消毒液の匂いと足音が交錯する廊下を抜けながら、
久々にここへ戻ってきたことを、体の奥でひしひしと実感していた。
案内されて通されたのは、以前の仮設感のある会議室とはまったく雰囲気の違う部屋だった。
壁は落ち着いたグレーで、窓には厚手のブラインド。小さいながらも重厚感があり、
簡易的だが応接用と思われる机と椅子がきちんと置かれている。
おそらく、ここはタケウチ専用のオフィスなのだろう。
入口で隊員に軽く会釈を返すと、彼は敬礼をして扉を閉めた。
中に残ったのは俺一人だけだ。
部屋の奥、デスクに向かっていたタケウチは、視線を書類に落としたまま低い声をかけてくる。
「申し訳ありません、ちょっと緊急でまとめなければいけない書類が回ってきまして……」
言葉通り、手元の書類を矢継ぎ早にめくりながら、ペン先が走る音がカリカリと部屋に響く。
時折、赤い印鑑を押す乾いた音がトンと混じった。
「あと十分ほどで片づきますので、そちらの椅子におかけになってお待ちください。
冷蔵庫に水とお茶、缶コーヒーが入っています。どうぞお好きなものを」
忙しそうな様子に、邪魔をするのもはばかられる。
「じゃあ、お言葉に甘えて」と一言断りを入れ、壁際の小さな冷蔵庫を開ける。
中は整然としていて、透明なペットボトルの水、緑茶、そして黒と銀の缶コーヒーが冷えて並んでいた。
水を一本取り出してキャップをひねる。
ひんやりとした冷たさが指先に伝わり、ひと口含むと乾いていた喉に染み渡った。
応接用の椅子に腰を下ろすと、背もたれが思ったより深く沈み、肩の力が抜けていく。
静かな部屋に響くのは、タケウチのペン先が走る音と書類をめくる紙の音だけ。
窓の外からは微かに、駐屯地らしい車両のエンジン音や、人の声が風に乗って届く。
こうして落ち着いていると、初めてここに来たときをふと思い出す。
あのときは初めての迷宮に対するワクワクとした気持ちで緊張を感じていた。
今は、同じ場所にいながら、少しだけ慣れた自分がいる。
ペットボトルを握り直し、口をつけながら、静かにその十数分を過ごした。
* * *
タケウチがトントンと書類を揃え、デスクの引き出しに収める音が静かな部屋に響く。
ペン立てにペンを戻し、軽く目頭を押さえてから、深く息を吐いた彼は、ようやく俺の方に歩み寄ってきた。
「お待たせしました。いやぁ……立て込んでしまっていて、すみません」
眉尻を下げた申し訳なさそうな顔に、俺は「気にしませんよ」と軽く手を振る。
タケウチは俺の正面に腰を下ろすと、背筋を正し、低い声で切り出した。
「さて、本日の予定を確認させてください。三鷹迷宮の第一層ボス──討伐です」
その言葉に、胸の奥で小さな火が灯る。
「先日、何とか上から許可が下りました。これで、正式に向かうことができます」
彼の言葉に、思わず小さくうなずいた。ここに来て「やっぱりダメ」なんて言われたら、さすがに笑えない。
さらに、胸ポケットから数枚の紙を取り出すタケウチ。
「先日買い取らせていただいたアイテムについて、金額の草案が来ています。ご確認ください。問題なければ、前回同様に振り込ませていただきます」
差し出された紙を受け取り、ざっと目を通す。
──合計五百万。
内訳はネックレス百万円、仙人漢方百万円、スキル球三百万円。
前回のアーティファクトと同じく、こちらも異論はない。
俺はうなずき、紙をテーブルに返した。
「問題ありません。振り込み、お願いします」
タケウチの表情がふっと緩む。肩の力が抜けたのが分かった。
「ありがとうございます。では……すぐに迷宮へ向かいましょうか?」
「ええ。こっちはもう準備万端です。迷宮内で装備を整えて、さっそく挑みましょう」
そう言ってペットボトルの水を飲み干し、立ち上がる。
ドアを開けると、廊下の向こうに冬の光が差し込み、遠くで隊員たちの靴音がこだまする。
目指すは三鷹迷宮・第一層。
未知の先にいるボスを、この手で倒しに行く。
胸の奥で、静かな高揚感がじわりと広がった。




