第24話 七所迷宮、ボスへの挑戦
「あー! ようやっと外だあっ!」
ケイゴが両腕を高く突き上げ、大きく伸びをしながら叫んだ。
肩を回すたびに、ゴキゴキと骨の鳴る音が辺りに響く。
夕方の空気が肌を撫で、ひんやりとした風が頬をかすめた。
それだけで、肺の奥まで清浄な空気が染み渡るような気がした。
俺も無意識に深く息を吐き出していた。
──ようやく、迷宮の外。
いくら広いとはいえ、あの閉ざされた空間に数時間もいたせいか、
解放感に包まれるこの瞬間が、やけに心地よい。
「ふぅ……やっぱり、外の空気は違うな」
小さく呟くと、頭上では木々が風に揺れ、葉擦れの音がサラサラと耳に優しい。
シートで囲まれた仮設の待機所、その内側から一歩踏み出しただけで、
空も広く感じた。
「では、私はこのまま失礼いたします」
ミツイが、淡々とした口調で切り出した。
「お二人はゆっくりお休みください。明後日、またよろしくお願いいたします」
そう言うと、待機していた隊員にひと言声をかけながら、
迷いのない足取りでシートの外へと姿を消していった。
「お疲れ様でしたー!」
俺が少し慌てて声をかけると、ミツイは小さく振り返り、軽く頭を下げた。
ケイゴは手を大きく振りながら、
「ほんと、よく働いてくれたな。おつかれさーん!」と、笑顔で送り出した。
ふと、その背後から聞き覚えのある声が飛んできた。
「皆さん、お疲れ様です!」
振り返ると、昼間に俺たちをここへ案内してくれた隊員の一人が、
元気そうな顔を見せていた。汗をぬぐいながらも、目はしっかりしていて、
一日中この場に待機していたというのに、表情に疲れを感じさせない。
「お二人が今夜お泊まりになる宿まで、私がご案内いたします。
歩いてすぐの場所ですので、もしお差し支えなければこのまま向かいましょうか?」
にこやかに尋ねてくる隊員に対し、ケイゴがすぐさま元気よく答える。
「おう! ありがとな、助かる! なあ、イトウ、行けるか?」
「ええ、問題ないです」
俺も頷いて答える。
迷宮内の緊張と長時間の移動で、じんわりと疲労が足に溜まっていた。
早く風呂に入って、この汗を流したいという気持ちが膨らむ。
「すみませんが、案内よろしくお願いします」
そう伝えると、隊員は軽く敬礼し、俺たちの前へと立った。
「では、ご案内いたします。お気をつけてお進みください」
整った口調でそう言うと、彼は足元を確認しつつ進み出す。
俺とケイゴも、その背中を追いかけるように並んで歩き出した。
* * *
案内してくれた隊員に続いて、俺たちは静かな小道を抜けていった。
森に囲まれたこの神社の境内から少し外れると、瓦屋根の古風な民家風の建物が点々と立ち並んでいる。
その一角、やや年季の入った木造の平屋──それが、俺たちが今夜泊まる宿だった。
「こちらになります。水回りは共用ですが、部屋は個別にご用意しております。
食事は隣の母屋でご提供いたしますので、お好きなタイミングでどうぞ。
それでは、どうぞごゆっくりお過ごしください」
きびきびとした挨拶のあと、隊員は一礼して去っていった。
入れ替わるように、宿の女将らしき年配の女性が玄関から顔を出して、
「おかえりなさいませ」と柔らかい笑みを浮かべてくれた。
「よぉし、じゃあ先にひとっ風呂といこうぜ、イトウ!」
ケイゴが待ちきれないといった様子で、早速靴を脱ぎながら中へ入っていく。
宿の中は、外見の古さとは裏腹に、しっかりと手入れがされていた。
畳の香りが鼻をくすぐり、木の床はしっとりと落ち着いた色味をしている。
照明は抑えめで、どこか旅館のような静謐な空気が漂っていた。
荷物を部屋に置いたあと、風呂場へと向かう。
脱衣所に入ると、ほんのりと湯気の匂いが満ちていた。
「うひゃー……生き返る……」
浴室から聞こえてくるケイゴのだらしない声。
俺もざっと体を洗って湯船へと身を沈めると、思わず唸り声が漏れた。
「……くあぁ……」
足の先までじんわりと熱が伝わる。
戦闘で無意識にこわばっていた肩や腰が、湯の中でゆるゆるとほぐれていく。
改めて、今日はよく動いたのだと実感する。
「なぁ、イトウよ」
隣で腕を伸ばしたままケイゴが話しかけてきた。
「初めて迷宮に入ったが、ありゃあ見ると聞くとでは大違いだな。
お前さんがいたからすんなり進めたが、俺やヨウちゃんだけじゃあんなにスムーズには進めんかっただろうさ」
「あ、ありがとうございます」
褒められて悪い気はしないが、妙に照れくさくて、湯に浮かぶ泡を指ですくいながら言葉を濁した。
「はっは! 照れるな照れるな!」
バシバシと背を叩きながら豪快に笑うケイゴを横目に、さらに深く湯船に沈む。
その後はお互い黙って浸かり、しばらく無言のまま、静かに体の芯を温めていた。
風呂から上がると、隣の母屋で用意された夕食が待っていた。
質素だが、温かいご飯と味噌汁、それに地元の野菜を使った煮物と焼き魚が並んでいた。
「うおー……これだよこれ。こういうのが一番染みるんだよなぁ」
ケイゴが茶碗を両手で抱えて、まるで何日も空腹だったかのように白米をかき込む。
俺も、箸をとって一口食べた瞬間、思わず目を細めた。
──うまい。
胃が、きちんとした食事を待っていたかのように、静かに喜んでいるのがわかった。
疲労が、ひと口ごとにゆっくりと溶けていく。
「明後日が楽しみだな、あの扉の奥……どんなのが出てくるんだか」
ケイゴがぽつりと呟く。
俺は答えず、黙って味噌汁をすする。
「ボスを倒したら何があると思う?」
さらに続けて聞いてくるケイゴに対して、お茶を一口飲んでから答える。
「どうでしょう、何かしらのクリア報酬があるとか、さらに奥へと続く道が現れるのか。
ゲームとかだとそのあたりですかね」
「なるほどねぇ。まあ、行ってみればわかるか!」
そう笑いながら彼もお茶を口に運ぶ。
夜も更けて、未知へと思いを馳せて彼らは夢の世界に旅立っていった。
* * *
窓の外に茜色の陽が差し始める頃、厚みのある木製の扉が静かに開いた。
無駄のない足取りで一人の女が部屋に入る。手には綴じられた資料の束。胸元に添えられた襟章が彼女の立場を物語っていた。
部屋の奥、重厚なデスクの向こうには一人の男が椅子にもたれかかっていた。
迷彩服を着こなして、彼は背筋を伸ばしてミツイを迎えた。
「さて、どうだった。七所迷宮は」
机の上に組まれた両手を解き、タケウチが口を開く。声は穏やかだが、鋭く芯のある音を帯びている。
「はっ。ほぼ全域のマッピングを完了し、残すは仮称ボス部屋のみとなっております」
直立の姿勢を崩さず、ミツイが手にした地図を差し出す。視線は少し上にいるタケウチの顔へと固定されていた。
「体力および精神面を考慮し、ボス部屋への突入は明後日を予定しております」
タケウチは受け取った地図を広げ、目を落とす。
迷宮の構造が緻密に記された紙上を、指が静かに滑る。
「ふむ……大したものだ。所要時間は?」
そう尋ねる声には、淡い驚きが混じっていた。
「全体でおおよそ五時間程度です。おそらく、イトウがいなければ、その倍から三倍の時間を要したかと推測されます」
ミツイの報告に、タケウチの眉がわずかに動いた。
それは期待以上の成果に対する静かな反応だった。
「なるほど、戦力過多か……だが、安全を最優先にすれば、それも然るべきということだな」
「はい。正直なところ、自分とシミズだけでは負傷者が出ていた可能性が高いです。
探索者グループとしては、現段階では四名前後を標準とするのが妥当かと考えます」
視線を戻すタケウチに対し、ミツイは間を置かず続けた。
「まず、少人数編成についてですが、これは危険度が高く、推奨できません。
イトウのように高レベルの探索者がいれば例外となりますが、マニュアル上は非推奨と明記すべきです」
「ふむ」
タケウチは地図から目を離し、ゆっくりと椅子に背を預ける。
「加えて、多人数の編成にも注意点があります。
一つ目は、経験点の分配。今回のモンスターの経験点は4点から8点と低めで、
戦闘参加者が多すぎると分配効率が著しく低下します」
「なるほど」
「二つ目は、隊列上の問題です。
三鷹のように広い迷宮であれば良いのですが、七所のように通路の狭い構造では、
物理的に戦闘に参加できる人数に限界があります。
ポーターや補給要員を含めた配置であっても、撤退時の足手まといにならないよう、
一定の上限人数を設けるべきです」
報告を受けながら、タケウチの表情に小さな笑みが浮かんだ。
「うむ。もっともだ」
そして、懐から取り出したペンで自らのメモに軽く何かを書きつけた。
「実のところ、我々の部隊でも今日小規模の戦闘があった。
だがレベル2あたりになれば、アリ程度のモンスターなら問題なく対応できる。
協会のほうにも、迷宮侵入人数に関する基準は打診しておくべきだな」
言葉を切り、深いため息が漏れる。
「……やつら、人海戦術でゴリ押せばいいと、本気で思っている節があるから困る」
嘆息混じりの声とは裏腹に、その瞳は静かに、次なる段階を見据えていた。
「ともあれ、現場が順調に進んでいるようで何よりだ。
すまないが、引き続きよろしく頼む」
「はっ!」
ミツイは短く敬礼すると、くるりと踵を返して部屋を後にした。
静寂が戻る。タケウチは数秒だけ天井を見上げ、次いでゆっくりと机の引き出しを開けた。
中には数枚の厚紙資料。
英語で書かれた文字列、外国の役人と思しき顔写真──どれもが、三鷹迷宮に絡む件だった。
「……まったく、この忙しいタイミングで三鷹迷宮の視察とアーティファクトの協議だと?」
皮肉まじりに呟いて、ため息をもう一つ。だが、それすら声にはならず、書類の海へ静かに溶けていった。
* * *
七所迷宮に挑んで三日目。
──いよいよ、あの大扉の先に挑む日が来た。
昨日は気がつけば昼寝をして、そのまま部屋でゴロゴロしてしまった。
風呂上がりの冷房が気持ちよくて、ぼんやりしていたらいつの間にか日が暮れていた。
何をするでもなく、気が抜けたように時間が過ぎた。ある意味、贅沢な過ごし方だったかもしれない。
夕飯のとき、ケイゴが「午後からちょっと出かけてた」と言ってきたので、どこに行ってたのかと思えば──
「この辺、めっちゃバイクで走るの気持ちいいぞ!」と、山道や渓流沿いを走り回っていたらしい。
食事中、彼の話は止まらなかった。景色がどうだったとか、木漏れ日が最高だったとか、カーブの角度がちょうどよかったとか──
まあ、本人が楽しそうだったのは良かったけど、こっちは何もしてない身として、やや気まずかったのは否めない。
そして今朝。
宿の朝食は、とても旨かった。
焼きたての鮭に、優しい味の味噌汁。女将さんに礼を告げて宿を出た俺たちは、例の神社へと向かう。
参道を抜け、シートで囲まれた結界内に足を踏み入れる。
すでに中ではミツイが、いつものように机の上で地図を広げていた。
タープテントの下、陽を避ける影の中でペンを手に何やら書き込んでいる。
(……いつも、地図見てるな、あの人)
そう思いながら声をかける。
「おはようございます」
ミツイが顔を上げ、穏やかな表情で返してきた。
「おはようございます、イトウさん。よくお休みになれましたか?」
椅子を引いて立ち上がると、軽くこちらへと歩いてくる。
その直後、後ろから大きな声が飛んできた。
「いやぁ、たまの休暇に使うにはいい場所だな! 自然たっぷりでバイクが気持ちいいわ、このあたり!」
ケイゴが満面の笑みで手をひらひらと振りながら言う。
その様子を見たミツイが、ジト目でじっと睨みつけた。
「……今は任務中というのをお忘れなく」
「はっはっは、堅いなぁヨウちゃんは~」
ケイゴは気にした様子もなく豪快に笑う。俺はその横で、少しだけ乾いた笑いを漏らした。
さて、と気を取り直して、話を戻す。
「で、今日はどんな感じで行くんですか?」
俺が尋ねると、ミツイも気を引き締め直すように頷いた。
「あ、すみません、脱線しましたね」
「本日は、仮称ボス部屋を目指して最短ルートで進行します。
部屋に到着次第、内部へ侵入。戦闘が発生した場合には即応し、対応します」
そう言って、ミツイは一度ケイゴに目を向けてから、改めて俺に視線を戻す。
「おそらく、ボスのような存在がいたとしても、イトウさんが対処されれば問題はないでしょう。
ですが今回は、初見の“ボス相手”という状況下での緊張感や判断力を、私とシミズで検証しておきたいと考えています」
「なるほど」
俺は腕を組んだまま、自然と頷いていた。
確かに、安全が保障された状況での戦闘と、未知の強敵に初めて挑むときの緊迫感はまったく違う。
その違いを、実地で経験させておくというのは悪くない。
「だから今回は、二人でまず対処してみます。
イトウさんには後方から備えていただいて、可能であればアシストに回ってもらえればと」
「わかりました」
俺は頷き、口元にわずかな笑みを浮かべた。
「自分は後ろで見守らせてもらいます。……でも、危なくなったらすぐに手を出しますから、そのつもりでいてくださいね」
「ありがとうございます」
ミツイが丁寧に頭を下げた直後、ケイゴが拳を握って口を挟んでくる。
「ふっ、イトウの手を煩わせるまでもなく終わらせてやるよ!」
その勢いに、ミツイが「はぁ……」とため息をこぼし、俺はまたしても苦笑を浮かべた。
「さて、装備についてですが」
朝の光がタープ越しに柔らかく差し込む中、ミツイが手元のメモを見ながら話を切り出した。
その表情は、昨日の戦利品を思い出すような──あるいは、少しだけ言い出しにくい話題に踏み込む前のものだった。
「事前の契約通り、迷宮で得られたアイテムの所有権はイトウさんにあります。
ですので、昨日ドロップしたアイテムも、すべてイトウさんのものという扱いになりますが……」
そこまで言って、ミツイが俺の目を一瞬だけ見る。
視線の端に、わずかな逡巡があった。
「今日のボス部屋に備えて、それらのアイテムを──こちらで使用させていただけないでしょうか。
もちろん、対価としては正式に“買取”という形を取らせていただきます」
……なるほど。
てっきり何か揉め事でもあるのかと思ったが、そんな話か。
確かに契約上、迷宮で得たアイテムはすべて俺の所有物だ。
だが、このレベル帯の装備に、そう大きな価値があるとも思えない。
それに、使う目的が迷宮の攻略──特に、あの奥の“扉の向こう”であれば、俺としても異論はない。
「ええ、大丈夫です。どうぞ、使ってください」
俺が頷くと、ミツイは少し肩の力を抜いたように頭を下げた。
「ありがとうございます。とても助かります」
「よっしゃ! じゃあ、いっちょ行きますか!」
隣でケイゴがぐっと両手を握りしめ、気合いを入れたように声を上げた。
俺たち三人は、迷宮の入り口へと足を進める。
結界を抜けると、すぐにあの静寂が戻ってくる。
木々のざわめきが遠ざかり、空気がぴたりと肌に貼りつくような感覚。
迷宮の空間特有の、どこか現実から切り離されたような雰囲気が広がっていた。
俺たちは、そこに一歩、また一歩と足を踏み入れる。
すでに勝手知ったる内部だが、それでも装備の確認は怠らない。
それぞれ短剣と各所の防具を装備している形だ。
回復薬と状態異常回復薬は、それぞれ五本ずつを二人に分配。
予備の分は、俺のアイテムボックスの中にしっかり保管してある。
それだけではない。
予備装備も収納してあり、万が一武器防具が破損した場合には、即座に補給が可能だ。
ボックスを開いて取り出すだけで済むこの機能は、こうした場面では頼もしい。
「それじゃ、行きましょうか」
軽く手を振りながら、俺が先導する形で通路を進んでいく。
ボス部屋まではすでにルートを把握済み。
最短距離を辿れば、およそ一時間弱。
その間に出現する雑魚モンスターは、消耗を極力避けるため、すべて俺が先に出て処理する方針を取った。
道を塞ぐように現れた蜘蛛型モンスターも、三体まとめて俺の蹴りで壁に叩きつけられて沈黙する。
気配を察知した段階で先手を取り、近づかれる前に一掃していく。
危なげない。
背後からは、ミツイの控えめな足音と、ケイゴの少し軽快な靴音が聞こえていた。
俺は何度か後ろを振り返りながら、二人の体力や表情を確認する。
大丈夫そうだ──まだ余裕がある。
そして──
「……着いたな」
目の前には、あの日見た大扉が、静かに佇んでいた。
* * *
扉がゆっくりと開いていく。
その先に広がっていたのは、最初に迷宮へ足を踏み入れたときの部屋とよく似た構造だった。
天井は高く、壁も天井も灰色の石材で組まれており、空気にはどこかぬるりとした湿り気がまとわりついている。
だが決定的に違うのは、その静けさと──感じる、圧。
空間そのものが静まり返っていて、物音一つないのに、何かがこちらを“見ている”気配がする。
全員がゆっくりと部屋の中へ足を踏み入れた、その瞬間だった。
──バタンッ。
無機質な金属音が背後で響く。振り返ると、扉が勝手に閉まり、重い音を立ててロックがかかった。
「うおっ、まじか!? ドアが閉まったぞ!」
最後に入ってきたケイゴが慌てて振り返り、両手で扉を押す。
だが、びくともしない。
「これって……お約束のヤツかよ! くそっ、開かねぇ!」
彼がドアに肩をぶつけながらぼやくが、それを無視するように、俺は部屋の奥に視線をやる。
「……おそらく、ボスを倒すことで開くような仕組みなんでしょうね」
言いかけたそのときだった。
「あそこに……何かいます!」
ミツイの声が鋭く響き、俺とケイゴの視線も同時に彼女の指差す方向へと向いた。
──いた。
部屋の中央からやや奥、ほの暗い空間のなかに、何かが静かにうずくまっていた。
鈍く光る殻、節のある脚、ずんぐりとした胴体。大きさは、俺たちよりも明らかに大きい。
這いつくばる姿勢ではあったが、それでも見上げるほどのサイズがある。優に2メートルはあるだろう。
「なんだあれ……なんか、どっかで見たことあるような……」
ケイゴが首をかしげながらつぶやく。
「形は……カナブンみたいな? いや、それにしては……」
俺も言葉を濁す。見覚えのあるような、ないようなそのフォルム。
ただ一つ確かなのは、それがこの部屋の“主”であるということだった。
「今は思い出している場合ではないでしょう。向こうが動かないうちに……!」
ミツイが低く促した、その瞬間だった。
敵の顔──いや、頭部のような部分が、ピクリと動いた。
つぎの刹那、ドン、と空気が震える。
「来るぞ!」
咄嗟に身を引いた。
大地をえぐるような音とともに、巨大な虫が俺たちに向かって突進してきた。
その姿は、まるで軽自動車が突っ込んでくるかのような威圧感だったが、
こちらの反応も間に合った。レベルの上昇により、反応速度も向上しているのだろう。
俺はスライドするように横へ、ケイゴは身を翻してバックステップ、ミツイも冷静に避けた。
「形状からして、攻撃手段は体当たりと、前脚による引っかき! 捕まれた場合、噛みつきの可能性もあります!」
ミツイが分析を叫びながら、すぐさま追撃に転じる。
敵が一気に間合いを詰めたことで、背後を向けている──その一瞬を逃さず、ミツイが飛びかかった。
双剣のように短剣を振るい、虫の背中を斬ろうとするが──それはまるで、背中に目があるかのように身をひるがえし、攻撃をかわした。
「よっしゃ、おいでなすったな!」
だが、その動きの先を読んでいたのは、ケイゴだった。
カウンター気味に飛び出し、その右拳を渾身の力で叩き込む。
鉄板を殴ったような低く重い音が部屋に響き、巨大な虫は弾き飛ばされるようにして宙を舞い──壁に叩きつけられた。
ドゴォッ……!
壁がわずかにひび割れ、土埃がもうもうと舞い上がる。
「はっは! やっぱりオレには刃物より、こっちの方が性に合ってるな!」
ケイゴが拳をぶんぶんと振りながら笑う。
短剣を持たされても、結局いつも素手での戦闘を好んでいた彼は、今日もそのスタイルを貫いていた。
かつてはミツイにも小言を言われていたが、実際、彼の打撃は侮れない。
素手とは思えぬ破壊力で、敵を次々と叩き潰してきたのを俺も見ている。
結局、今では誰も文句を言わなくなった。
「敵、立ち上がります! 今がチャンスです!」
煙の中、よろめきながらも虫が再び身を起こそうとする。
その隙を逃さず、ミツイが追撃を仕掛ける。
左右から一撃、そしてもう一撃。
敵の動きは明らかに鈍っている。どうやら、先ほどの打撃でダメージが通ったようだ。
(このまま押し切れるか?)
そう思いながら、俺は一歩後ろで戦況を見つめる。
今のところ二人の連携は良好、回避も的確で、攻撃も通っている。
だが──
そのときだった。
俺の目に映ったのは、虫の体から一瞬、青白い光が走ったような──
直後、それまでとは違う“異様な動き”を見せる敵の姿だった。
(……まずい)
本能が警鐘を鳴らす。
「気をつけて! 何かあるッ!」
叫んだ瞬間だった。
──ビキッ!
あの巨大な虫の背が、乾いた音を立てて裂ける。そこから突如として、太くねじれた“何か”がぬるりと飛び出した。
「……っ!」
目を奪われたその一瞬の遅れが、命取りになる。
根のように蠢くその異形の器官──まるで木の根に鞭を足したようなそれが、しなるように振るわれた。標的は……ケイゴだった。
彼は咄嗟に腕をクロスさせて身構えるも、完全には間に合わなかった。
「ぐっ……!」
横薙ぎの一撃が、彼の身体をまともに打ち据える。鈍く、重い音。
人一人が、まるで人形のように吹き飛び、床を転がった。
「ケイゴッ!」
思わず名前を叫んで前に出ようとする。けれど、それどころではなかった。
鞭のようなそれの先端が、ピタリと空中で静止した。まるで意志を持つかのように首をもたげ──そして、その先に、じわじわと炎が集まりだす。
赤熱するその球体は、膨れ上がるように大きくなり、やがて脈動するほどの熱気を帯びて輝く。
「なっ、火……?!」
思わず目を見開く。狙いは、ミツイ。
彼女はケイゴの安否に気を取られているようで、こちらの警告にも反応が遅れそうだった。
──まずい、間に合わない!
考えるより先に身体が動いていた。俺はミツイへと駆け寄り、そのまま抱きかかえるようにして脇からかっさらう。
直後、轟音が空間を揺らした。
──ドゴォオッ!
先ほどまでミツイがいた地点が、赤い閃光とともに爆ぜる。焼け焦げた空気が肌をなぶり、呼吸が一瞬止まりかけた。
(第二形態……か?)
ゲームでよくあるパターンだ。一定のダメージを負った敵が、姿を変えて“本性”を現すやつ。
(こいつも、それってわけか……!)
睨むように敵を見据えていると、俺の腕の中でミツイが声を上げた。
「そうだ……冬虫夏草! 冬虫夏草ですよ、これ!」
「冬虫……夏草?」
聞き返しながら、俺の中で何かが繋がる。
セミの幼虫に寄生するあのキノコの一種──ああ、思い出した。どこかで見たことのある、あの奇妙なフォルムの由来がやっとわかった。
「そう……セミの幼虫に寄生して、菌糸を伸ばして成長するキノコです!」
「つまり、あの根っこみたいなのは……」
そう言いかけたところで、よろよろとケイゴが這い出してきた。
「ゲホッ、ゲホ……うぅ、してやられたぜ。冬虫夏草てことは、名前からもじってんのか、あの炎は」
せき込みながらケイゴが這い出して来る。
「ケイゴ! 大丈夫なの!?」
ミツイが俺の腕の中から身を起こし、彼の元へ駆け寄る。
ケイゴは血まみれの袖をまくりながら苦笑を浮かべた。
「回復薬三本使って、ようやくこのザマだ。……すまん、予備分をもらってもいいか?」
「もちろん。ほら、これで足りるか?」
俺はすぐさまアイテムボックスから追加の回復薬を取り出し、彼に渡す。
ケイゴはそれを受け取って、一気に飲み干した。
その間も、敵は再度の攻撃を仕掛けてくることはなかった。
こちらの動きを伺っているのか、それともあの炎攻撃に反動があるのか──理由は不明だが、今はありがたい時間だった。
「……名前のもじりって、どういうこと?」
短く尋ねると、ケイゴが答えた。
「“冬虫夏草”の“夏草”を“火草”とでも読ませたんだろ。……火を吐いたしな」
「……くだらない」
とっさに呟いたが、すぐに思い直す。
迷宮という異常空間で、常識や論理なんてものは通用しない。
洒落のようなネーミングの敵が本当に火を吐く……それがこの世界なのだ。
「それにしても、炎の玉は意外と遅いな。あれなら回避は間に合う……問題は、あの鞭の方か」
しなり、速度、そしてリーチ。あの攻撃は対処を誤れば致命傷になる。
だからこそ、俺は視線を二人に向けた。どうするか──代わろうか、と。
けれど、その思いを察したのか、ミツイがまっすぐに言った。
「おっしゃる通り、炎にさえ気をつければ、最悪の事態は防げます。……もう少し、私たち二人に任せてください」
その目には、強い決意が宿っていた。
「俺が先に言おうと思ってたのに……へへっ、俺も同意見だ!」
ケイゴも、拳を軽く鳴らして力強く頷く。
俺は深く息を吐いて、頷いた。
「……わかった。無理はしないように。くれぐれも、気をつけてくれ」
敵が動いた。
鞭のような根が再びしなり、床を叩くと同時に、三人が一斉に散開した。
空気が再び張り詰め、第二ラウンドが始まる。




