第22話 迷宮前のブリーフィング
気がつけば、あれからもう一週間が経っていた。
自宅に戻ってからの毎日は、見た目こそ“いつも通り”だったけれど、内側はどこか落ち着かなかった。
迷宮という非現実の空間に身を置いていたせいか、逆に現実の風景が、嘘くさく見えることすらある。
何気なくテレビをつけてみれば、案の定というべきか──三鷹迷宮の話題が、ニュースでもワイドショーでも連日取り上げられていた。
「本当に安全なのか? 一般人の立ち入りを許していいのか?」
「いえ、むしろ今後は人類にとって新たなフロンティアになる可能性があります」
そんな感じで、スーツ姿の評論家だか大学教授だかが、スタジオで持論をぶつけ合っていた。
机を叩いて熱弁する者、冷静ぶって論点をずらす者、キャスターが何度も軌道修正しながら、議論はいつの間にか脱線していく。
──まるで茶番だな、と苦笑いが漏れた。
ネットのほうも負けていない。
掲示板には「俺、迷宮に入ったことある」という書き込みが乱立していた。
だが、文体も語り口も、あまりに作り物めいていて……たぶんホラ話だ。
内容がフワフワしているし、実際に迷宮に入ったときの“熱”を感じない。
動画投稿サイトでは、何人かの“迷宮系配信者”が出始めていた。
──なんてジャンルだよ、って思いながらも、ついクリックしてしまう。
画面の中では、夜の三鷹迷宮の入り口らしき場所に忍び込もうとする若者が、友人らしき人物とスマホ片手に笑いながら近づいていく。
警備員の注意に慌てて逃げ出す映像には、コメント欄で「草」「チキンすぎる」なんて書かれていた。
ちなみに、海外ではすでに迷宮に潜った動画というのが存在する。
ボディカメラを装着した若者が、実際に迷宮内へと足を踏み入れる様子。
緊張感ある息遣い。暗闇の奥から聞こえる、何かの足音。
そして、視界の端に映る“それ”。
──巨大な何か。たぶんモンスター。
パニックになって逃げ出す配信者。乱れる映像。ブツンと切れた録画。
三鷹迷宮に入る前は、自分もあれが本物かどうかの判断はできなかったが、今ならわかる。
あれは本物の迷宮だった。
おそらく今後もそんな形で迷宮について目に触れる機会がどんどん増えていくであろう予感が生まれる。
ただ、俺自身について言えば、日常生活はわりと平穏だった。
日課だった“あれ”──街のゴミ拾いで得られるポイント換算──については、いまはまだ様子見の状態にしている。
たぶん、国から完全に放置されているわけじゃない。
自宅には戻されたが、今もどこかで監視されている可能性はある。
直接的な尾行や、家に何かが仕掛けられている気配は感じないが──
“見られているかもしれない”という意識は、消えてくれなかった。
「ま、ゴミ拾いの方は少しおとなしくしておくか」
リビングのソファに腰を沈めながら、つぶやくように言った。
今は目の前に迫る迷宮への意識を大きくする。
──七所迷宮。
迷宮日和、というわけではないが、空は青く澄んでいた。
* * *
玄関のチャイムが、甲高く耳をつんざいた。
ああ、来たか──
軽く伸びをして立ち上がり、「はーい」と返事をしながら玄関へ向かう。
ドアを開けると、そこには見慣れた顔が立っていた。
ただし──今日は少し、雰囲気が違う。
「今日はよろしくお願いします、イトウさん」
爽やかにそう言ったのは、いつもの迷彩服姿ではないタケウチさんだった。
分厚いブーツにジーンズ、カーキ色のレザージャケットを羽織っている。
ミリタリー色を完全に脱ぎ去ったその姿に、一瞬誰だか分からなかったほどだ。
「よろしくお願いします。……私服だと、印象がだいぶ違いますね」
率直な感想を口にすると、タケウチさんは少し照れたように頭をかいた。
「はは……いやぁ、普段は隊で支給されるものばかりでして。
私服ってどうにも、落ち着かないんですよ。妹がいろいろうるさくて、ようやく一式揃えたんですが……なんかこう、しっくり来なくて」
「妹さん、いらっしゃるんですね?」
ちょっと意外だった。だが、考えてみれば妙に納得もいく。
この人の、どこか面倒見のいい感じは、家族を支える立場に慣れているからなのかもしれない。
「ええ、年がけっこう離れてましてね。付き合い方がいまいち分からなくて、悩みますよ……」
苦笑しながら、どこか困ったように言う姿には、妙な親近感が湧く。
「おっと、そういえば──ミツイを車に待たせてるんでした。そろそろ向かいましょうか。
ご準備のほうは?」
そう言って玄関の奥を見やる。
俺は頷きながら、すでに用意しておいたバックパックを肩に担いだ。
「はい、すぐ出られますよ」
玄関を出ると、朝の空気が少し肌を刺すようだった。
澄みきった青空に、まだ日差しは柔らかい。
通りには車の通行も少なく、週末の朝を思わせる静けさがあった。
道路脇に止まっている一台の車が目に入る。がっしりとしたシルエットのSUV。
国産の、重厚な四駆だ。多少の悪路でもビクともしなさそうな車体。軍用ではなく、民間のモデルだろう。
助手席にはミツイさんが座っていた。
黒のタートルネックに細身のジーンズというシンプルな出で立ち。
なぜか、広げているのは今どき珍しい紙の地図だ。
じっと何かを確認している様子に、ふと微笑みがこぼれた。
「イトウさんは後部座席へどうぞ」
そう声をかけて、タケウチさんがドアを開けてくれる。
軽く会釈して車内へ身体を滑り込ませる。
「ミツイさん、おはようございます」
声をかけると、彼女は振り返って、わずかに柔らかい表情を見せた。
「イトウさん、おはようございます。
体調など、いかがですか? あ、それと……よろしければ、どうぞ」
そう言って、助手席の足元から取り出したのは、まだほんのり温かいペットボトルのお茶だった。
コンビニで買ったばかりなのだろう。ラベルが朝日で少し透けて見える。
「ありがとうございます。体調は、ばっちりですよ」
軽く微笑んで受け取り、蓋をひねる。温かさが手のひらに沁みてくる。
「今日向かう迷宮へは、どれくらいですか?」
そう尋ねると、運転席に乗り込んだタケウチさんが答える。
「二時間弱、というところですかね。平日ですし、渋滞には巻き込まれないと思います」
シートベルトを締めながら、ルームミラーを調整するタケウチさん。
その動きは手慣れていて、日常的にいろんな場所へ赴いていることが伺えた。
「迷宮についての基本情報は、車内でミツイから簡単に共有させます。
より詳しい話や現地の説明は、実際に現場を見ながら……ということで」
車が静かに発進する。タイヤがアスファルトを擦る音が、やけに耳に残った。
後部座席から見える街の風景は、見慣れたもののはずなのに、今日は少し違って見えた。
俺が向かうのは、ただの“遠出”じゃない。
未知への再訪。迷宮という非日常へ、再び足を踏み入れるための、旅路。
──さて、七所迷宮ってのは、どんな顔をしているのか。
* * *
あれから、どれくらい経ったのか。
いや、たぶん、そこまでの時間は経っていない。
自分でも気づかぬうちに、内心が高揚していたのだろう。
景色の変化に気を取られる間もなく、車は目的地へと近づいていた。
「そろそろ到着します」
タケウチの声に我に返る。
窓の外に視線をやっていたが、それを前方へと切り替えた。
そこには、静かな住宅街の中に、ぽつりと佇む神社の鳥居が見えていた。
武蔵村山──ここが、七所迷宮と呼ばれる新たな“現場”だ。
移動中、ミツイさんが助手席から簡単に説明してくれた内容を頭の中で反芻する。
七所迷宮。
発生地点は、七所神社の裏手。
神職の人間が境内裏の森に不自然な穴を発見し、警察に通報。
現地確認の結果、迷宮の特徴と一致し、正式に“迷宮”と認定された。
内部のセーフラインは100メートル。
規模は三鷹迷宮には及ばないとみられ、現時点では仮称“小型迷宮”という部類に入れているらしい。
ただし、依然として迷宮の本質は不明のままだ。
潜る以上、油断は禁物。
神社側は「改修工事中」という建前で通達を出し、迷宮出現地点は目隠しで完全に覆われているという。
世間的には、あくまで“工事現場”の一角にすぎない──その偽装が、妙にリアルで逆に不気味だった。
そんなことを思い出しているうちに、車は神社横の駐車スペースにすっと滑り込むように停まった。
エンジンが止まり、辺りに静けさが戻る。
俺はドアを開け、外の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
思っていたよりも冷たい風が頬を撫でる。
肩をほぐすように腕を伸ばし、大きく背筋を鳴らす。
そのとき──背後から、声が飛んできた。
「よう! あんたがイトウさんかい?」
ハッとして振り返る。
そこには、大柄な男が立っていた。
少し見上げるほどの長身。
鍛え上げられた身体は、羽織っているライダースジャケット越しでもその迫力が伝わってくる。
黒く短く刈り上げた髪。
強面にも見える精悍な顔立ちだが、今はにっかりと人懐っこい笑みを浮かべている。
まるで大きな猛獣が、機嫌よく喉を鳴らしているかのような印象だ。
「ケイゴ、もう来ていたのか」
タケウチが車から降りながら、その男に声をかける。
どうやら顔なじみのようだ。
「おうとも! ワクワクしちまって、一時間も早く着いちまったよ」
豪快に笑いながら、男──ケイゴと呼ばれたその人物は、胸を叩いてみせた。
なるほど、今日の同行者というのは彼のことらしい。
「イトウさん、彼はシミズ・ケイゴといいます」
タケウチが俺に紹介してくれる。
うなずいて軽く会釈を交わすと、ケイゴもガッと手を差し出してきた。
がっしりとした握手。手のひらがまるで岩のように硬かった。
「先ほど話していた今回の同行者です。うちの隊ではありませんが、信頼できる人物ですよ。あと──」
言いかけたところで、ミツイさんが後部から静かに姿を現した。
「……私の従兄でもあります。不本意ですが」
少し不服そうに肩をすくめながら、ケイゴを一瞥する。
なるほど。そう言われてみれば、鼻筋や目元の雰囲気がどことなく似ている。
ケイゴはというと、その言葉にいちいち気を悪くする様子もなく、ますます笑みを深めていた。
「おお! ヨウちゃんも久しぶりだな! 今日はよろしく頼むぜ!」
手を上げながら、まるで親戚の集まりにでも来たかのような快活さ。
今まで俺が関わってきた人間にはいなかったタイプで、ちょっと調子が狂いそうになる。
だが──
こういう人物がいるのは、悪くない。
空気をほぐすという意味でも、こうした“陽”の気配を持つ人間は、チームにとって大きな意味を持つ。
逆に言えば、それだけこの“迷宮探索”というものが、張り詰めた空気の中にあるのだろう。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
俺はそう言って、自然と笑みを返していた。
* * *
三人と連れ立って神社へと向かう。
舗装された歩道を少し外れ、土の香りが濃くなってきたあたりで、その“異物”は視界に入った。
目隠し。
高さは二階建ての建物ほど。
工事用の白いシートが、無骨な足場に張られて神社をぐるりと囲んでいる。
まるで歴史ある社を丸ごと封印しているような、異様な光景だった。
「おー……ここまで囲うとは」
思わず漏れた独り言に、先を歩くタケウチが小さく笑った気がした。
シートの切れ目に沿って、彼が迷いなく足を踏み入れる。
俺とシミズ、ミツイもそれに続いた。
中に入ると、まず目に入ったのは大きめのタープテント。
その下では数名の自衛隊員らしき男たちが、資料を手に何やら話し込んでいる最中だった。
こちらに気づいた隊員たちは、すぐに立ち上がり、揃って敬礼。
「お待ちしておりました! こちらは準備できております。いつでも出発可能です!」
若そうな声の隊員だったが、語調はしっかりしていて、頼もしさを感じさせた。
「ああ、ありがとう」
タケウチが頷きながら応じると、俺たちの方へ目を向ける。
「先に伝えている通り、今日はこちらの三名で迷宮探索を行う」
そう言って一歩前に出ると、隊員たちへ改めて説明を始めた。
「彼らは私の隊の人間です。この後、探索に向けての方針や、
収集していただきたい情報を共有しますが、そのとりまとめは彼らが行います。
また、その他にサポートが必要な場合も、できる限り対応させていただきます」
軽く頭を下げると、隊員たちも深く敬礼で応える。
その横では、シミズが片手を上げ、気軽な調子で挨拶をしている。
どうやら顔なじみらしく、隊員たちも柔らかい笑みを浮かべて応じていた。
「さて、では簡単に今回の方針についてご説明させていただきます」
タケウチが改まってそう口にすると、テント下に設置された折りたたみ式のテーブルへと誘導された。
缶コーヒーや軽食用のスナックが並び、簡易ながらも整ったブリーフィングスペースだ。
俺たちはそれぞれ椅子に腰を下ろし、用意されたおにぎりをつまみながら話を聞く。
まず、今回の目的のひとつ──迷宮内に出現するモンスターおよび、ドロップアイテムの確認。
現状、三鷹迷宮のデータしかなく、他の迷宮において同様の傾向があるかは不明。
そのため、出現する敵が三鷹とは異なる可能性を視野に入れ、遭遇した個体については細かく記録を取る必要があるとのこと。
「例えば、蛾のような状態異常を引き起こすタイプのモンスターが出るかもしれない。
あるいは、経験値の取得量に差があるかもしれない」
タケウチの声には、慎重さと冷静さが滲んでいた。
次に、迷宮内のマッピング。
三鷹ではセーフライン周辺を軽く確認した程度だったが、
今回は可能な限り詳細な地図を作成してほしいとのこと。
後続部隊への引き継ぎ資料としても重要らしい。
三つ目は、罠の確認。
三鷹で発動した宝箱のトラップ。
他にどんな罠があるのか、また、回避可能なのか。
当然、これは危険性が大きいので可能な限り、という注釈がついた。
そして四つ目──宝箱の発見。
この話になると、タケウチが少しばかり申し訳なさそうに頭を下げた。
「……本音を言えば、上層部はこれに一番期待してるんです。
経済的、あるいは軍事的な価値も含めて、何か“成果”が欲しいのだと」
なるほど。
きっと政府やスポンサー筋から、そういった“戦果”のようなものを求められているのだろう。
だが、こちらとしては命あっての話だ。
タケウチは、決して無理に探さなくても良いと、タケウチは続けた。
話はそこまでで一段落となった。
予定としては、数日間にわたる探索になる見込みだ。
近くの民宿を拠点にしながら、様子を見て進めていくスタイル。
ミツイは都内での仕事もあり、出入りがあるようだが──
シミズは俺と行動を共にするらしく、宿も同じ場所に取ってあるとのことだ。
「では、申し訳ありませんが──イトウさん、よろしくお願いします」
タケウチが、深々と頭を下げた。
彼はこれから、三鷹迷宮にて部下を引き連れて潜るらしい。
あちらも再調査が必要で、セーフエリアの再確認や、周辺の状況把握にあたるそうだ。
入口付近のみの安全を考慮しての作業らしいが、
政府からも、改めて学者連中を引き連れて迷宮の調査をするにあたり、
迷宮での実戦経験のある彼らを外したくはないのだろう。
恐縮している背を見せながら、タケウチは一人三鷹へと向かっていった。
「──よっしゃ! じゃあ、こっちも向かうか!」
シミズが、タケウチがいなくなった空気を変えるためか、声を張る。
その明るさに、少しだけ緊張がほぐれる気がした。
俺とミツイは立ち上がり、腰のバックパックを軽く整える。
「……行きましょうか」
七所迷宮が、その暗い口を広げて眼前に佇んでいた。