第19話 識別の石板と、舌の上の虚構
建物の中へと足を踏み入れると、外の喧騒が一気に遮断された。
薄暗い廊下には、天井に設置された灯りがぽつぽつと灯り、壁際に立つ自衛官たちの制服がちらちらと視界をかすめる。
無言のまま俺を囲む彼らの顔には緊張の色が浮かんでいた。
階段を上がり、二階の奥。厚みのあるドアの前で足を止める。
鍵の外される金属音と共にドアが開くと、その先に広がっていたのは、
まるで“それ専用”としか言いようのない無機質な空間だった。
十畳ほどの部屋。中央には簡素なテーブルと椅子が二脚、壁際にはパイプ椅子が一つだけぽつんと置かれ、
隅には折りたたみ式の簡易ベッドが無言で存在を主張していた。
──まるで、誰かを一時的に閉じ込めるための部屋だな。
そんな印象を抱いた矢先、タケウチが俺の背後に回り、手錠のロックを外した。
「窮屈な思いをさせて申し訳ありませんでした」
手首から外された冷たい金属の感触を確かめながら、俺は軽く手首をさする。
痺れはないが、違和感だけが残る。
「お座りください」
タケウチが言いながら、ドア側の椅子に腰を下ろした。
ミツイは何も言わず、その背後に直立したままだ。
俺は素直にテーブル越しの椅子に腰を下ろした。
途端に、足の裏からじわりと疲労が押し寄せてくる。喉が渇いているし、腹も減っていた。
全身の筋肉が気づけば張り詰めていて、ようやくほぐれたような感覚。
だが、気を抜くわけにはいかない。
「……すみません、何か、飲み物ってもらえたりしますか?」
肘をテーブルに乗せ、できるだけくだけた調子で問いかけてみる。
「できれば、簡単な食べ物も……携行食とか、何でも構わないので」
一瞬、タケウチとミツイが互いの顔を見合わせ、きょとんとしたような表情を見せた。
だがすぐに、タケウチがふっと笑い、肩を竦めながらドアの方へ身を乗り出す。
「ミツイ、誰かに頼んでくれ。携行食と、水、私たちにもコーヒーを」
「了解しました」
ミツイが頷いてドアの外に出ていき、数秒で戻ってくる。
「今、用意させてます。すぐ来ると思います」
「ありがとうございます、マジで腹ペコで……」
俺は腹をさすりながら笑ってみせた。
軽口ひとつ。だが、それだけでこの場の空気が、ほんのわずかに緩んだ気がした。
タケウチも肩の力を抜いたように、背凭れに身を預ける。
「まったく、帰ってきたかと思ったら食事の心配ですか」
「まあ、試練明けですから」
自然と笑いが漏れる。緊張の糸は、ほんの一瞬だけゆるむ。
でも──わかっている。この後に待っているのは、情報のすり合わせと、俺の正体への疑念だ。
* * *
ノックの音と共に、ドアの隙間からワゴンが押し出されてきた。
軋む車輪の音が妙に響き、俺の意識を現実に引き戻す。
ワゴンの上には、茶色い紙袋に詰められた携行食がいくつか。
それに、ペットボトルの水が二本と──紙コップに注がれたインスタントコーヒーが湯気を立てていた。
「どうぞ。大したものはありませんが」
タケウチが手のひらで軽く示す。
その一言に甘える形で、俺はすぐに紙袋を手に取った。
指先に伝わる、わずかに湿り気を帯びた包装紙の感触。
ビニールを破り、ひと口分を頬張る。乾いた舌に、ほんのりとした塩気と油分が広がった。
「……やっと、一息つけた」
ぽつりと漏らした俺の言葉に、タケウチが苦笑を漏らす。
「相当お疲れですね」
「ですね。頭がぼーっとしてきたとこでした」
水を一口。常温でぬるいはずのそれが、今は染みわたるように美味かった。
ふと、タケウチの手が机の脇へと伸びる。
何気ない動作のようでいて、そこには確かな意図があった。
──光沢のある黒い板。
その形状を見た瞬間、俺の手がわずかに硬直する。喉の奥に違和感が走った。
識別の石板。
それが意味するものは、あまりに明白だった。
嘘も、隠し事も通用しない、“真実の暴露装置”。
「……さて、そろそろ本題に入りましょうか」
机の上にそれを静かに置いてから、タケウチは俺をまっすぐに見据えた。
その瞳には、責める意図も、同情もない。純粋な確認の眼差しだった。
「まずは、我々があの後どうなったか、から始めましょう。共有しておくべきことです」
そう言って彼は、手元のコーヒーに一口、口をつけた。
湯気が揺れ、香ばしい香りがほんのりと漂う。
「宝箱を開けた直後、我々は“部屋”に飛ばされました。
突然の転移です。構造は──そうですね……“モンスターハウス”とでも言えば伝わるでしょうか」
「……なるほど」
俺は思わず相槌を打った。状況が想像できたからだ。
「周囲を見回す間もなく、すでに二十体ほどのモンスターがひしめいていてね。
即座に戦闘状態でした。混乱のあまり、最初はあなたがいないことにも気づかなかった」
その言葉には、悔いと自嘲の混じった苦笑がにじんでいた。
「正直、目の前の状況に必死でね。レベル3の隊員が数人いたのが不幸中の幸いでした。
全員、傷は負ったが、なんとか切り抜けられた」
ミツイが無言のまま頷く。
彼女の視線は、どこか遠くを見ていた。たぶん、その修羅場を思い出していたのだろう。
「あなたの不在に気づいたときには、すでに戦闘は終わっていた。すぐに戻ろうと試みましたが……」
タケウチは少しだけ言葉を切る。そこに、わずかな違和感があった。
「……戻れなかったんですか?」
「いや、戻れました。ただし、入口に」
その言葉に、俺は眉をひそめた。
彼は静かに続ける。
「部屋の出口は一つしかなかった。
しばらく進んでも道は一本道。途中で現れる敵も倒しながら先に進んでいくと、
なぜか入口に戻っていました。
そして振り返ると、そこには壁があるだけだった。まるで一方通行の通路のように」
一方通行。
ゲームによくあるギミックだ。片道だけ通れて、戻ることはできない構造。
なるほど、それで強制的にリセットされたような状態になったというわけか。
「ゲームに詳しい隊員のひとりが、そのように解釈してくれました。
でなければ説明がつかないですからね」
苦笑を交えながら、タケウチがまたコーヒーをすすった。
その表情は、ようやく一息つけた者の顔にも見えたし、まだ緊張を解いていないようにも見えた。
「ともあれ、我々は迷宮の入口に戻った。
モンスターハウスでのドロップ、それに途中で手に入れた状態異常回復薬
──合わせて、なんとか最低限の治療は行えた。けれど……」
そこまで語ったところで、彼の声がわずかに低くなる。
「あなたのことが、引っかかっていた。置いてきてしまった。気にならないはずがない。
しかし、今から奥に向かってもどうしても時間がかかりすぎる。
どうしたものかと判断しかねていたそのとき……」
彼はテーブルの上のコーヒーに視線を落とし、ぽつりと口にした。
「──あのアナウンスが表示されたのです」
【“試練”の討伐が確認されました】
その文字列が、俺の脳裏にも蘇る。
確かに、あのとき見た。静かに、淡々と表示されたその通知。
「思わず、目を疑いましたよ。期間切れでもない。<討伐>。
つまり、“誰かが倒した”ということになる」
彼の目が、まっすぐに俺を射抜く。
「そして、その誰かは──あなたしか考えられなかった」
沈黙が落ちる。コーヒーの湯気さえ、音を立てるかのように感じるほど。
「だが当然、疑問が浮かぶ。“どうやって倒したのか”。
いや、“そもそもなぜ生きていたのか”。
我々が、モンスターハウスであれほど苦戦したのに。あなたは、たったひとりで」
その声には、責める色はなかった。ただ──“確認”がそこにあるだけだった。
ミツイが微動だにせず、こちらを注視していた。まるで、言葉にしない全てを読み取ろうとするかのように。
「あなたのことは、確かに気がかりでした」
タケウチが言った。その声音に責任の重さと、わずかな迷いが滲んでいる。
「しかし、あの迷宮を塞いでいた壁が消失し、脱出可能な状態になった以上、
まずは負傷者の治療と──一般人の安全確保を優先しました」
机の上で、彼の指先が紙コップの縁をなぞるように滑った。
タケウチは視線を落としながら続けた。
「ちなみに……」
少し声の調子を変える。
「今日の全参加者──あなたと、亡くなったキノシタを除く計四十八名には、
ここで簡単な事情聴取を行った後、別の施設に移送して、詳しい取り調べを行っています」
そこまで言うと、彼はふうと息をついた。
「二、三日で解放できる見通しですが……まあ、大変なことには違いありません」
その言葉に、ふと──疲れきったクスノキの顔が脳裏をよぎった。
彼女のことを思うと、少しだけ胸が痛んだが──同時に、今の自分には何もしてやれないと思い、
俺は首を軽く横に振り、思考を切り替えた。
「外は大騒ぎでしたよ」
タケウチがふっと笑って、紙コップをことりと机に置いた。
「マスコミや野次馬が、公園の周囲をぐるりと取り囲んでいて。
あれだけ騒がれたら、無視はできませんよね。……幸い、一定の距離を取ってましたし、
シートでの目隠しもしていたので、顔が世間に晒されることはありませんでしたが」
まるで言い訳のようにそう言うと、彼は肩をすくめた。
たしかに、迷宮の外で自衛隊と関係者が騒々しく出入りし始める。
世間が騒がないわけがない。
「こちらも、部隊の確認、状況報告、整理と、最低限の事務を終えたところで
──あなたが帰還した、という連絡を受けたわけです」
言葉を切り、タケウチは静かにこちらを見た。
その目は、まるで何かを測るように、探るように、まっすぐだった。
「さて。……あなたは、どうやって“試練”を倒したのか」
その声は穏やかだが、芯があった。
「なぜ、あなた一人が倒せたのか。その経緯を、教えていただけますか?」
一拍、間が空く。
部屋の空気が、すっと引き締まった気がした。俺は息を吸い、ゆっくりと吐き出す。
「……わかりました。説明します。その前に──」
俺は、目の前の黒い板に視線を落とした。
「<識別の石板>、すでに説明文は確認されてますよね?」
あのとき、回収された石板を手にした彼の表情を思い出す。
まるで時間が止まったかのように、しばらく動きを止めていた。あれは、説明を読んでいたに違いない。
レベルを獲得した者であれば、
パネル越しに一部のアイテムの説明文を見ることができるのは、この場にいる人間なら知っている。
タケウチは頷いた。
「……はい。確認しています。これは──おそらく、この後“上”に報告し、回収対象になるでしょう。
ですが、今のところは、私の管轄下にあります」
そう言って、彼は石板をずずと俺のほうへ押し出した。
「見ていただいた方が、早いでしょう」
俺は無言のまま、視線で促した。
一瞬だけ、タケウチの目にためらいが宿る。それでも彼は、静かに石板に触れた。
次の瞬間、黒い板の上に、淡い光が浮かび上がる。
──ホログラム。俺のステータスが、そこに表示された。
【種族 :人間 】
【レベル:28 】
【経験点:38,253 】
【体力 :197 】
【魔力 :52 】
【筋力 :121 】
【精神力:182 】
【回避力:213 】
【運 :15 】
【所持スキル 】
<アイテムボックス(下級)>
俺は内心で眉をひそめた。
──……<固有スキル>が、表示されていない。
正直、表示されていたらどうしようかと思っていたが、表示されなかったのは嬉しい誤算だった。
ただ、こちらがそのことに反応してしまえば逆に怪しまれる。意識を無にし、表情を崩さないように努める。
それにしても──
「……これは、なんとも……」
タケウチが目を見開いたまま、しばらく言葉を失った。
「ある程度の予想はしていましたが、まさか、これほどとは……」
大きく息を吐き、背もたれに体を預ける。
ミツイの視線が、鋭くこちらに向けられていた。警戒の度を一段階上げたような空気。
もしこちらが何かすれば、即座に飛び出してくる気配をまとっている。
それを感じ取ったのか、タケウチが軽く手を振った。
「やめろ、ミツイ」
その声に、彼女の肩がわずかに動いた。
「彼は誠意をもって、我々にステータスを開示した。
もし、彼が我々を害する意志を持っていたならば、
あの密室──迷宮内で、いくらでも手段はあったはずだ。
だが、それをしなかった」
椅子の上で組んだ腕を解きながら、彼は静かに言葉を重ねる。
「気になる点が多いのは確かだ。しかし少なくとも、私は彼を“敵”とは見ていない」
その言葉に、ミツイは唇を噛み、ほんのわずかに視線を下げた。
「……申し訳ありません。
イトウさんも……お気を悪くされたかもしれません」
素直な謝罪だった。頭を下げる彼女に、俺は微笑みで返した。
「いえ、気にしてません。状況が状況ですし、仕方ないことだと思います」
そう言って軽く会釈する。
ミツイは一瞬目を見張り──そして小さく頷いた。
……それでも、まだ完全には心を許してくれていないのは、分かる。
「ミツイは……すみません。
顔は美人なんですが、どうにも融通が利かないところがありましてね」
冗談めかしてタケウチが言うと、ミツイがバッとこちらを向いた。
何か言い返そうとして、でも堪えて、結局斜めの方向を向いたまま口を閉ざす。
肩がほんの少しだけ震えていた。
俺は、苦笑をこらえながら、テーブルの上の石板に視線を戻す。
ゴホン。タケウチが咳を一つ。
「イトウさんが高レベルだということはわかりました。
……おそらく、試練に勝てたのはそういうことでしょう。
我々は、せいぜいがレベル3。レベル28もあれば、戦闘力は天と地の差だ」
納得したように頷くその顔には、むしろ清々しい諦念すら浮かんでいた。
──実際には、どこまでいっても綱渡りだったんだが。
俺は黙って小さく頷くだけに留めた。余計なことは言わない方がいい。
「では──なぜ、あなたがそんなレベルを得ることができたのか。
それを教えていただけますか?」
言葉の調子が変わった。まっすぐな眼差しがこちらを射抜いてくる。
俺は軽く息を吸い込み、乾いた唇を舌でなぞる。
ここからが本番だ。
「はい。わかりました。
……正直、信じてもらえるかわかりませんが、全部お話しします」
ほんの少し間を置いて、水を一口含む。
微かにぬるくなったミネラルウォーターが喉を潤した。
「迷宮騒ぎが起きてしばらくしてからのことです。
いつものように散歩していたんですよ、近所の公園を。
人があまりいない、静かな場所なんですけど──そこで、妙なものを見つけまして」
タケウチとミツイが、動かずにじっと耳を傾けている。
俺は言葉を選びながら、続きを口にした。
「木の幹に、ぽっかりと空いた洞があったんです。
妙に気になって、のぞいてみたら……吸い込まれた」
重くなった空気の中で、静かに水を置いた。
ちらりと彼らの表情を確認する。まだ疑っているというよりは、警戒の中に聞く姿勢を保っている。
「気がついたときには、そこはもう迷宮のような場所でした。
狭くて、体育館くらいの広さしかない空間。そこで──出会ったんです。あいつに」
「あいつ?」
タケウチの声が自然と漏れる。
俺は小さく頷き、少し肩をすくめてみせる。
「言葉で説明するのが難しいんですが……銀色の、丸っこい物体。
小型犬くらいの大きさで、ぴょこぴょこ跳ねて動く、なんというか……ぷよぷよしたやつでした」
ふと、あの間抜けなフォルムが脳裏をよぎる。
あの時は恐怖しかなかったが、今思えば愛嬌すらある外見だった。
「突然飛びかかってきて、反射的に腕を振ったら……たまたま、うまく当たったんです。
そしたら、倒してしまって」
口元にわずかな苦笑を浮かべる。
「その時、足元に転がっていたのが、経験値変換球と呼ばれるアイテムでした」
「……経験値変換球?」
ミツイが、思わずオウム返しに呟く。口を開くのは珍しい。
それを受けて俺は頷いた。
「その球を使うと、経験値が1000点、得られます」
「1000……!? アリや蛾を倒しても、1点か2点程度なのに……」
タケウチが珍しく声を上げ、椅子の背にもたれ直す。
「ですよね? 自分も、今日初めて他のモンスターを倒して、その差に驚いたんです。
あの“ぷよぷよ”は経験値そのものは持っていませんでしたが、倒すたびに、その球を落とした。毎回確定で」
静かに息を整える。ここからが肝だ。
「数をこなせば、そりゃレベルも上がります。
最初は不安で仕方なかったですが……その洞には、ちゃんと外に出られる“穴”もあって。
何日か、通い詰めました」
日々のことを思い出し、感情を乗せるように語った。
実際には違うが、どこかの誰かが実際に体験していそうな──そんなリアリティを意識して。
「通い始めて10日ほどたった頃でしょうか。
その日を最後に、穴が通れなくなってしまって。
何度試してもだめで……それで、諦めました」
「……その公園は?」
「仙川の方にある公園です。詳しい場所は後でお伝えします」
そう答えながら、視線をタケウチの目に合わせる。
彼はしばらく黙っていたが、やがて静かにため息をついた。
「……信じ難いな。だが、違うとも言いづらい」
「ありがとうございます。でも、これが本当のことです。それ以上は……」
そう言いながら、できるだけ真摯な表情を作る。
真実を隠し、偽りを紡ぐ──その罪悪感は、今は胸の奥に押し込めた。
タケウチは、重たそうに椅子を引き、石板を伏せる。
ミツイの視線はまだ鋭いままだったが、何も言わず、ただ俺を観察するようにしていた。
「……わかりました。今の説明をもとに、こちらで報告をまとめます。もちろん、上にも提出しますが──検証のための調査も行います」
「助かります」
俺は頭を下げた。
「では、今日はこのまま休んでください。
明日になったら、他の方々と同様、別施設へ移送させていただきます。
……期間は他の人より少し長くなると思いますが、ご了承ください」
「了解しました」
静かに頭を下げる。
タケウチは立ち上がり、ミツイに目配せをして、無言のまま部屋を後にした。
ドアの外に、人の気配がある。おそらくは監視役だろう。
それでも、ひとまずは──乗り切った。
安堵と疲労がどっと押し寄せてくる。
布団の上に身を横たえると、体中から力が抜けていくのがわかった。
これからどうなるかは、誰にもわからない。
だが、今だけは……眠ってしまいたかった。
目を閉じた瞬間、深い闇が訪れ、俺はそのまま夢の底へと沈んでいった。




