第13話 牙向く迷宮、希望か絶望か
「……なんだか、とんでもないことになっちゃいましたね」
ぽつりと、クスノキが呟いた。
その横顔には、血の気が引いたような蒼さがあり、握ったままの栄養バーは手の中でしおれて見えた。食欲がないのだろう、一口かじっただけで止まっている。
自分はというと、もらったそれを無理やり胃に押し込んだ。
味は、まぁ──予想通りのまずさだった。乾いたパサつきと、妙に人工的な甘さが、口の中にいつまでも残る。
だが、それでも空腹を放置するわけにはいかなかった。
あの騒動のあと、隊長格のタケウチが隊員たちを集め、いくつかの指示を飛ばした。
その後、我々一般参加者にも、簡易的ながら情報共有がなされた。
曰く──入口を塞いだ半透明の壁は、見た目に反して強靭な材質で、弾丸すら通さないという。
触れた隊員の話によれば、まるで厚いゴムか透明なアクリル板のような弾性を持っているらしい。
通信も引き続き不能だったが、外の部隊とは筆談を通じて状況が共有されたようだった。
ただし、外部からの干渉手段は今のところ皆無に等しく、重機を使っての壁面突破を検討中とのことだが──「迷宮」という存在に対して、どこまで人間の技術が通用するか、正直、期待できそうになかった。
食糧や水は、一応二日は持つとのこと。
けれど、それも安心材料にはなり得なかった。なぜなら──
「……大丈夫だぞ! 外に出れば、ちゃんと助かるからな!」
少し離れた場所で、医療班の若い自衛官が、血の気の引いた顔でそう叫んでいた。
手を握られているのは、アリに脚を噛まれた隊員。膝下を中心に皮膚がずたずたに裂け、骨が露出している。
それでも止血と鎮痛剤の処置により、彼はまだ意識を保っていた。
問題は、もう一人の方だ。最初に跳ね飛ばされた隊員は、壁際で毛布にくるまれて横たわっていた。
呼吸は不安定で、時折か細く呻く声が漏れる。腹部への損傷が激しく、医療班の表情も沈んだままだ。
──おそらく、このまま時間が過ぎれば、命はない。
だからこそ、動き出す者がいた。
「なぜ奥に行くんだ! さっきの変なパネルにも書いてあっただろう!?
『時間が経てば解除される』って!」
激昂した声が静けさを破る。
中年の男性が、タケウチに詰め寄っていた。がっしりとした体格にスーツ姿。
どこか「俺が責任者だ」とでも言いたげな態度だ。
「申し訳ありません」
タケウチは、声を荒げるでもなく静かに応じた。
「先ほども説明した通り、こちらの隊員が重体です。解除まで何時間かかるかも分からない今、手をこまねいているわけにはいきません」
その横で、控えていた自衛官が一歩前に出て目配せを受ける。
彼らはすでに準備を整えたようだった。
「もちろん、残留部隊によって皆様の安全は確保されます。ご安心ください」
男性は何か言いたげだったが、周囲の視線を感じたのか、不承不承といった様子で口を閉じた。
その一部始終を見ていたクスノキが、小さく呟く。
「……でも、確かに『試練』っていうのを倒すほうが確実ですよね」
その言葉には納得よりも、不安が色濃く滲んでいた。
最初に声を荒らげていた男性も、最終的には黙り込み、わずかに首を振りながらその場に腰を下ろした。
しぶしぶ──というのが、正直なところだったが、それでも反対の声が他に続くことはなかった。
結果、迷宮奥への探索隊が結成されることとなった。
自衛隊員総勢40名。そのうち2名はすでに負傷しており、戦闘不能。
残る38名から、我々参加者の護衛に20名。
さらに、医療班や通信士を含む支援要員が10名を占める。
そして──たった8名。
前線に赴く探索隊として、危険区域へと踏み込む任を負ったのは、たったそれだけだった。
指揮官であるタケウチは、この場所に残る判断を下した。
代わって先導を任されたのは、説明会場でタケウチの右手に立っていた、背の高い女性自衛官だった。
「──ミツイ二尉。頼んだぞ」
タケウチが、低く、しかしはっきりとした声で告げる。
その顔には、信頼と不安と、指揮官としての苦悩が滲んでいた。
「1時間だ。片道30分、必ず一度は引き返せ。深追いはするな。
目的は“討伐”ではなく、情報収集だ。道を切り拓くんじゃない。扉をノックするだけでいい。
……発砲は自由とする。状況を見て判断しろ。迷ったら、撃て」
ミツイと呼ばれた女性将校──凛とした目元が印象的な人物は、その言葉を一言一句、噛みしめるように聞いたあと、深く頷いた。
その背筋はまっすぐに伸びており、脇に控えていた7人の隊員たちも、自然と姿勢を正す。
「了解。必ず戻ります」
そう短く応じ、敬礼で応えるミツイ。
それに応じて、タケウチもまた無言の敬礼を返した。
任を受け、武器を肩に下げ、探索隊の8人は重い足取りで迷宮の奥へと進み出した。
──あの先に何があるのか、誰も知らない。
けれど、誰かが行かねばならない。
死のリスクを抱えながら、誰かが道を探さなければ、ここに残された者たちの未来も、ただ座して死を待つだけとなる。
* * *
探索隊が迷宮の奥へと姿を消してから、しばらく。
こちらの空気は、幾分落ち着きを取り戻していた。
周囲の隊員たちは依然として警戒を怠らず、銃口は迷宮の闇を向いたままだ。
けれど、アリが再び姿を現す気配は今のところなく、張り詰めていた緊張感も徐々に和らいでいるようだった。
ひとまずの“平穏”──ただし、嵐の前のそれかもしれないが。
そんな中、自分は一歩離れた場所に立ち、思案に沈んでいた。
(……さっきのアリ。確かに恐ろしかったが、戦っても問題はなさそうだな)
目の前で展開された一連の戦闘。
あの異形の生物の突進速度は尋常ではなかった。加速すら必要とせず、いきなり全力疾走で襲い掛かってくる。
普通の人間なら反応すらできず、吹き飛ばされて終わりだろう。実際、それで隊員が重傷を負っている。
だが。
(あれが“普通の人間”にとっての脅威、か)
迷宮に入ったときから、自分の感覚は明らかに変わっていた。
身体が軽く、視界が広く、呼吸も乱れない。まるで、何年も鍛錬を積んだ熟練者のような……いや、それ以上の感覚。
おそらく、あのアリの速度であっても、今の自分なら目で追え、避けられる。
むしろ、迎撃すら可能だとさえ思えた。
(……ただ)
眉間にしわを寄せて、そっと唇を引き結ぶ。
(今この場で、自分の“力”を見せるのは得策じゃない)
目立てば、問われる。
どうしてそんな力を持っているのか。なぜ自衛官たちすら圧倒する存在でいられるのか。
疑問は、やがて不信になり、恐れになり、排除へとつながる。
(いずれ“あれ”以上の存在とも出会うだろう。そのときまで、俺はできるだけ“ただの参加者”でいるべきだ)
自分だけの話なら、隠し通せば済む話だった。
だが──視線を向ける先には、仰向けに寝かされた二人の隊員がいた。
ひとりは足を噛み砕かれ、包帯が血に染まっている。
もうひとりは、胸部を激しく打たれたせいか、呼吸が浅く不規則で、声もかすれていた。
医療班の隊員たちがつきっきりで看病しているが、今の装備ではできることに限界がある。
彼らはただ手を握り、声をかけるしかないのだ。
(──回復薬)
自身の能力で交換できる、例の“アイテム”。
見た目は怪しげな色をしていたが、試してみたときの効果は絶大だった。
(効く……はずだ。あれが“ゲーム的な回復アイテム”なら、最下級とはいえ重症ですら多少は癒せるかもしれない)
だが、問題はそこではない。
(一般人が、そんな“怪しい薬”を持っていたら……普通は、飲むわけがない)
奇跡の薬なんて、漫画や映画の中だけの話だ。
目の前で命が尽きようとしているこの状況でさえ、現実の枠組みは簡単に壊れたりしない。
(──強引に、飲ませるしかない、か)
誰かに見られる前に、意識が完全に飛ぶ前に。
無理やりでも口をこじ開けて、喉に押し込む。
それが彼を救う唯一の手段なら、やるしかない。
彼らの命の灯が消えそうになれば、迷わず実行しようと考えていた。
そのときだった。
ふいに、空気がざわめいた。
「っ! なんだ!?」
離れた場所で警戒に当たっていた隊員が、異変に気づき鋭く声を上げた。
反射的にその視線を追う。
視界の先、半ば闇に溶け込んだ空間を、何かが──いや、“いくつも”が、宙を滑るようにこちらへ向かってきていた。
「……蛾だっ!」
誰かの絶叫が、それを正体づける。
新聞紙を広げたほどの大きさ。
羽根は夜のように濃く、ところどころ毒々しい紫や深緑がまだらに浮かび、細かい起毛がびっしりと生えているのが遠目にもわかる。
しかも、その羽ばたきのたびに、淡く光る鱗粉が煙のように舞い散っていた。
──異様。
その一語に尽きる姿だった。
「各自、迎撃!!」
タケウチの指揮が響いた刹那、銃撃音が空気を裂く。
タタタタタッ──!
銃口から連続して吐き出される閃光と音。
けれど、それとは裏腹に、蛾たちは予測不能な軌道で舞いながら迫ってくる。
幾つかの個体が弾丸に撃ち落されていくものの、数匹はその網をすり抜け、するりとこちらへ滑空してくる。
「っぐ、こいつら……鱗粉が……! ごほっ、ごほっ!」
すれ違った隊員が咳き込む。
その直後、彼の足がもつれ、膝から崩れ落ちる。
──毒か?
頭にその推論が浮かんだが、考えを完遂する前に“ソレ”が目の前まで迫っていた。
(速い……!)
羽ばたきの振動が空気を震わせ、目の前の空間を蛾が埋め尽くすような錯覚に陥る。
その異常な存在感に、護衛の隊員が反射的に躊躇した。
──発砲すれば、自分ごと撃ちかねない。
迷いが生まれるのも無理はない。
だが──こちらは違った。
(“速い”が──追える)
思考が研ぎ澄まされ、景色がゆっくりと流れ出す。
迷宮に入ってから自分の感覚は、どこか現実の枠を超えていた。
今この瞬間も、目の前に迫る蛾の軌道がまるでスローモーションのように見える。
(やれる、だが……やりすぎるのはまずい)
この状況で、常人ではありえない動きをすれば、目立つ。
下手をすれば“人間ではない”と見なされかねない。
この力の存在は、極力伏せておくべきだ。
──ならば、“偶然”を装え。
迫りくる蛾に向けて、意図的に計算された軌道で、しかし“咄嗟の反応”に見せかけて腕を振り上げた。
バチンッ!!
乾いた破裂音。
思った以上の反動と音と共に、蛾の一体が吹き飛んだ。
壁に叩きつけられたそれは、鈍くズルリと滑り落ち、そのまま痙攣しながら動かなくなる。
(……やりすぎたか)
少しばかり眉をひそめたが、周囲はそれどころではなかった。
次から次へと現れる蛾への応戦に追われ、こちらに視線を向ける者はいない。
不自然さはなかった、はずだ。
「こっちにも来るぞ! 構えろ! 弾は惜しむな!」
タケウチの怒鳴り声が飛ぶ。
続くように、再び銃撃音が迷宮の闇へと響き渡る。
* * *
戦いが終わったのは、唐突だった。
どれほどの時間が経ったかも曖昧になるほどの緊張の連続。
けれど、再び蛾の群れが空を舞うことはなく、銃声も、悲鳴も、ようやく途切れた。
重たい静寂が、迷宮の広間を覆う。
そしてその空気の中に滲むのは、安堵とはほど遠い、重苦しい疲労と焦燥。
結果は──惨憺たるものだった。
幸いにも、致命的な負傷者はいなかった。
だが、蛾の撒き散らした鱗粉が猛毒だったのか、隊員の半数以上、約十五名が、次々と症状を訴え始めた。
めまい、嘔吐、息苦しさ。
中には立っていられず、その場に蹲ってしまう者もいた。
「げ、現状報告……!」
タケウチの掠れた声が、空気を割った。
指揮官たるその男までもが、毒の影響を受けていた。
額には汗が滲み、呼吸は浅く速い。
それでもなお、彼は自らの任を放り出すことはなかった。
「っ! はっ、現状──隊員の約半数、十五名が毒の症状を発症。うち、一般参加者も……二名、影響を受けています!」
そう報告した声は、どこか震えていた。
その理由は、報告された内容そのものだった。
──一般参加者。
その中には、クスノキの名も含まれていた。
「あ……」
思わず彼女の姿を探す。
少し離れた場所、医療班の脇で横たわる彼女が目に入る。
顔色は青白く、呼吸も浅い。
苦しげに胸を上下させながら、かすれた呼吸音を漏らしていた。
(……クスノキさん)
怒りと無力感、焦燥と悔しさが入り混じる。
「くそっ……! 時間がないってのにッ!」
タケウチが、地面を拳で叩いた。
その姿に、いつも冷静だった男の焦りと怒りが滲む。
どうすることもできない。
医療班も、ここではただ励ますことしかできない。
──抗毒剤も、解毒キットも、持ち出し用には限りがあった。
現場での即応にはとても足りない。
そのときだった。
ふと視線の先、蛾の死骸の傍で──何かがキラリと光を反射しているのが目に入った。
(……あれは)
近づいてみれば、それは──見覚えのある、小瓶だった。
わずかに赤みがかった、半透明の液体。
以前、検証で手に入れた「状態異常回復薬」と、まったく同じ姿。
(まさか、こんなところで……!)
小瓶に手を伸ばすと──その瞬間、視界に浮かび上がる、例のパネル。
だが、今回は少し様子が違った。
【アイテム『状態異常回復薬(最下級)』を手に入れました】
【迷宮侵入前にスキルシステムが作動してます。そのため、初回経験値入手アナウンスは省略されました】
(スキルシステム……、あの「ゴミをポイントに変える能力」のことか? あれは迷宮と関係していたのか?)
そしてもう一文。
「初回経験値入手アナウンスは省略」──これはつまり、既に自分は何かを得ているということ。
(あの蛾を倒したときか……?)
思いつつ、パネルを軽く指先でスライドする。
上に画面が切り替わると、そこには次の表示があった。
【モンスターを倒しました : 経験点 3点】
なるほど、いままで経験値は“変換球”で得るものだとばかり思っていたが、考えてみればこれが「普通」なのだ。
敵を倒せば経験が得られる──RPGなら王道中の王道。
(でも待てよ……さっきの表示、「初回経験値入手アナウンスは省略された」ってことは──)
彼らに経験点は入っていないのか?
そう思った時だった。
「た、隊長! 自分の前に、変なものが……!」
迷宮の一角から、数名の隊員が駆けてくる。表情は驚愕と戸惑いが入り混じっていた。
「先ほどの蛾……倒した直後です。突然、頭の中に声のようなものが響いて……っ」
焦った様子で報告する青年に続いて、別の女性隊員がやや怯えた声で言葉を継ぐ。
「わ、私もです。『迷宮に認められた』とか、『経験値が入った』とか……意味はわかりませんが……それに」
彼女は胸元のポーチから、そっと取り出した小瓶を手のひらに載せて見せた。
「こんなものが、足元に転がっていました。……拾ったんです」
光沢のある赤い液体が、小瓶の中で揺れる。
「状態異常回復薬……そう、パネルに表示されてました」
その言葉に、場の空気がさらにざわつく。
タケウチも眉をひそめ、小瓶に目を凝らした。
「……これは」
彼の声が静かに漏れる。
隊長としての直感か、それともただの勘か──何かを感じ取ったようだった。
「……怪しい。だが、可能性があるなら、試す価値はあるかもしれん」
言葉と共に、タケウチは小瓶を手に取り、ふたを外す。
迷いのない仕草で、それをぐいと煽った。
「隊長っ!?」
隊員のひとりが叫ぶが、タケウチは意に介さず飲み干す。
直後、彼の身体から淡い光がふわりと立ち上った。
見る見るうちに顔色が戻っていく。
肩で息をしていた姿はすっかり消え、しっかりとした眼差しが戻っていた。
「……これは……!」
自分の手を見つめ、拳を握りしめて確認するタケウチ。
信じがたいという表情のまま、しかしそれが現実であることを受け入れるように、ゆっくりと頷いた。
「……効いた。完璧に、効いている」
ざわり、と周囲の空気が動く。
希望。
それが一気に広がっていくのが、空気から伝わってくる。
「……まだ確かめたいことは山ほどあるが、まずはこれだ」
タケウチは立ち上がり、全体に向かって声を上げる。
「この薬──『状態異常回復薬』とやらが本物であるなら、使わない手はない! 今すぐ、同様のものがないか探せ!」
勢いに押され、隊員たちが動き出す。
それはまるで、停滞していた現場に風が吹き抜けたようだった。
「探索の判断は、頭に“パネル”が出たという4名に一任する! 集まった物の内容を即時報告!」
そう告げたタケウチの声に力が戻っている。
自分も、その流れに自然と加わるように手を上げた。
「こっちにも落ちてました。……これ、使えそうですか?」
拾った薬瓶を差し出すと、タケウチが振り返る。
「おお、助かる! 確認させよう。……ありがとう」
状況が変わる兆しが、彼の表情にも現れていた。
口元に、ほんのわずかだが、微笑が浮かんでいる。
その後、隊員たちが必死に広間を探索した結果──見つかったアイテムは以下の通りだった。
・状態異常回復薬(最下級)×2
・回復薬(最下級)×4
・ステータスチェッカー ×1
集められたそれらを前に、彼らは新たな選択肢を迫られることになる。
先遣隊に続き先に進み、アイテムを手に入れるという。
だが、今はまだ──それが“希望”となるのか、“絶望”の入口となるのかは、
誰にも分かっていなかった。




