第12話 這い出る異形
騒然とした空気が、迷宮の前に広がった空間を包んだ。
「……警備は、何をしていた!」
怒号に似たタケウチの声が響き、彼は腰元の拳銃を素早く手に取ると、セーフラインぎりぎりの位置まで走り寄った。
その声に反応したのは、まだ若い顔立ちの自衛官だった。顔面蒼白で、一歩踏み出すたびに足がもつれそうな様子で駆け寄ってくる。
「も、申し訳ありません! 急に彼が駈け出してしまって……っ!」
その報告に、タケウチは奥歯を噛みしめたまま無言で応答する。
参加者たちは事態を把握しきれず、あたりでざわつき始めた。指示を出そうとする別の隊員たちも、参加者を後ろへ下がらせるには至っていない。誰もが困惑し、目の前で起きた異常を咀嚼しきれずにいた。
数人の参加者がセーフラインのすぐ近くまで歩み寄り、迷宮の奥へと駆けていった男──キノシタの背を目で追っている。
銃口を向けた隊員もいたが、その指先は震えていた。
「発砲」という行為が現実味を持たないこの国で、実際に引き金を引ける者など、そうはいない。
──だが、それが後に彼らの運命を変えてしまう。
キノシタの足が、迷宮内部の安全圏100メートル地点を越えた瞬間だった。
その手が懐から取り出したのは、光沢のある金属に覆われた球体だった。
無造作に──いや、迷いのない手つきで──それを地面へと叩きつける。
「っ……!」
音が先に空気を裂いた。
パキィィィンッ!
甲高い、氷の砕けるような音が響き渡る。
続けて、入口から伸びていた傾斜の先、ちょうど彼らがくぐってきた出入り口部分に、青白い閃光が走った。
次の瞬間──空間そのものが歪むような「揺らぎ」が発生した。
まるで水面の奥に透明な膜を一枚挟んだように、光が屈折し、出入り口に半透明の壁が生成される。
「……なに、今の……?」
誰かのつぶやきが、静寂の中に落ちる。
すると、目の前にふわりと現れる“何か”があった。
半透明のパネルだ。眼前に現れたそれに、日本語でメッセージが浮かび上がる。
それは、誰かが発した言葉ではなかった。だが、全員に届いていた。
【アイテム「神々の試練(最下級)」が使用されました】
【使用者の命を代償に、迷宮のランクが一時的に上昇します】
【使用に伴い、迷宮への新規侵入、および撤退が禁止されました】
【使用に伴い、安全圏が排除されました】
【一定期間経過、あるいは“試練”の討伐により、上記は解除されます】
「ッ……『命を代償に』……? 今の、人が……?」
クスノキが、ぽつりと呟いた声が嫌に耳に残った。
空気が、重くなっていく。
誰もが感じていた。それは単なるシステムの通知などではない。
今、この場にいる全員の命運が変わったという事実が、喉の奥を締めつけていた。
「試練……って、いったい何が……?」
誰かがそうつぶやいた時、迷宮の奥、暗がりの中で、何かが“蠢いた”音がした。
「っ! ──各自、照準ッ!」
鋭く響いたタケウチの号令に、セーフライン付近にいた数名の自衛官が一斉に構えを取った。
銃口の先、暗がりの向こう──そこに、異形の何かがぬるりと姿を現した。
どこから現れたのか。いつ現れたのか。
誰にもわからなかった。ただ確かにそこに、人外の存在があった。
「……あれ、アリ……?」
誰かが、震えるような声でつぶやいた。
闇の中から現れたそれは、アリのような外見をしていた。
だが──大きすぎる。
人の膝ほどもある中型犬サイズ。艶めいた黒い甲殻に包まれた胴体は異様に膨らみ、ギチギチと音を立てながら節足を動かしていた。
ぎょろりとした複眼が、こちらを冷たい無表情で見据えている。
背後の壁──そこには、ぽっかりと新たに穿たれた穴があった。
そこから、這い出てきたのだ。
「馬鹿なッ……! ここはセーフエリア内だぞ!」
銃を握る自衛官の一人が、顔を引きつらせたまま叫んだ。
確かに──奴が現れた場所は、明らかに50メートルラインを越えた内部だった。
そのとき──ふと、頭の奥で先ほどの通知が脳裏をかすめた。
【安全圏が排除されました】
(……まさか、これが“排除”の意味か!)
異様な静けさが、周囲を包み込んだ。
アリは一匹だけ。だがその不気味さが、数の問題ではないと全員に理解させていた。
ごくり、と誰かが喉を鳴らす音が、場の緊張を際立たせる。
そしてその瞬間──
バシュッ!!
黒い影が、地を滑るように動いた。
「ッ──来るぞ!!」
誰かが叫ぶ間もなく、アリは一気に加速していた。
加速? いや、加速すらしていない。
最初の一歩から、トップスピードだった。
疾走するそれは、人間の反応速度では捉えきれない。
轟音のように地面を蹴り、セーフライン前に立っていた隊員へ一直線に突進──
「はっ──」
その小さな声が、悲鳴にも届く前に、衝撃が走った。
ドゴッ!!
跳ね飛ばされた隊員の体が、空中を転がり、入口付近の地面に叩きつけられる。
左足──太ももがありえない方向にひしゃげていた。
吹き飛ばされた衝撃で胸を打ったのか、大きくせき込み、血の混じった吐息が漏れる。
「っがっ……は……っ」
動けない。助けに行く余裕もない。
他の隊員たちは呆然としたまま銃を向けることすらできずにいた。
それを見透かすように、アリは横へ滑るように移動し──
ガブッ!
近くの隊員の右足首に食らいついた。
「ぎ、ぎやああああああああっ!!」
断末魔のような叫びが響き渡る。
その声が、まるで封を解いたかのように、場の空気を動かす。
タケウチの怒声が響いた。
「撃てッ!! 味方に当てるな、慎重に!!」
幸い、アリは噛みついた隊員の足を軽く振り回すと、ゴミでも捨てるように放り投げた。
その瞬間を逃さず──
ダダダダダッ──!!
複数の自動小銃が火を吹いた。
閉鎖空間に炸裂音が響き、金属と肉を打つ衝撃音が混ざり合う。
銃口からの火花が、異形の身体を照らし出すたび、現実とは思えない戦慄が全身を走る。
数秒後──
銃声が止んだ。
──静寂。
わずかに遅れて、甲高い薬莢の転がる音がカランと響いた。
砕けた石壁の粉が、薄く舞う。
その中心に、黒光りする異形の死骸が、ぐちゅりと体液を撒き散らしながら倒れ伏していた。
蒸気のように立ち昇る体液の匂いは、鉄と腐敗臭が混じったような強烈な臭気だった。
「あれだけ撃ち込まれて、原型が……まだ残ってやがる……」
誰かが、震えた声で呟いた。
確かに、小銃の一斉射撃を受けたにもかかわらず、異形のそれは完全にバラバラにはなっていなかった。
歪にねじれた外骨格、潰れた複眼、だが確かに“アリ”だったものはそこにいた。
その異常なまでの頑強さが、モンスターの恐ろしさを事実を静かに物語っていた。
──カチャ。
安全装置を戻す微かな音が、ぽつりぽつりと聞こえてくる。
しばらく照準を外さなかった隊員たちが、ようやく緊張をわずかに解いた証だった。
だがそれでも、銃口を下げる者はいなかった。
「……警戒、継続」
タケウチの低く落ち着いた声が響く。
だがその声音の奥には、ひどく冷えた怒気が宿っていた。
「担当者は、直ちに参加者の安否確認。
1班・2班は警戒を続けながら、負傷隊員の救護と状況把握にあたれ。
残りは──俺のもとに集まれ」
無駄のない号令。
それに応じて、隊員たちは即座に散開した。
バタバタと駆け寄る足音。
医療班が負傷者に駆け寄り、反応を伺いながら応急処置に入り、通信兵が無線に向かって声を上げるが、反応がないようだ。
クスノキは呆然と立ち尽くしたまま、まるで異世界を見たような目でアリの亡骸を見つめていた。
その隣で、俺も──異形の死骸から目を離すことができなかった。
* * *
(……やれやれ。なんとも厄介な状況になった)
胸の奥でそう呟いたタケウチは、苦い思いを表情に出すことなく、鋭い眼差しで前線を見渡していた。
部下たちの前で、不安や苛立ちを見せるわけにはいかない。隊長とは、そういう存在だ。
「──さて。ひとまず、目の前の脅威は排除されたとみる。状況を整理するぞ」
落ち着いた声で言いながら、周囲に目を配る。
集まった自衛官たちは、各々銃を携え、傷ついた仲間に目を配りながらも指揮系統の合図を待っていた。
「まず、報告が出揃うのを待つ前に、いくつか確認事項を出す」
言葉と同時に、タケウチは手を小さく挙げ、指を折っていく。
「入口の封鎖の状態を、まずは二名体制で確認しろ。近づきすぎるな、安全第一だ。
それから──通信。こちらからの呼びかけを継続しているが、依然として応答はない。
引き続き外部とのコンタクトを試みろ」
一呼吸置き、視線を足元に落とす。
「弾薬、食糧、医療資材……各班の装備残数を即時に確認。
可能なら継戦可能期間を算出しろ。
最悪、ここに数日──あるいはそれ以上閉じ込められる可能性もある」
ざわり、と空気が波立つ。
自衛官たちの視線が交差し、緊張が静かに広がっていく。
「最後に──」
そう言って、タケウチは視線をすっと一人の男へと向けた。
先ほど“神々の試練”と呼ばれる謎のアイテムを投じ、命を落とした張本人。
「……キノシタの確認に向かう。数名、同行しろ」
軽く顎をしゃくると、指名された隊員が即座に反応し、無言でタケウチの後に続く。
周囲を警戒しつつ歩み寄り、タケウチは膝をついてキノシタの身体に手を伸ばした。
首筋に指を当てる。脈は、ない。
「……死亡確認。状態安定」
呟く声に、隊員たちの誰もが無言でうなずいた。
(……だが、これは一体なんだ?)
先ほど地面に叩きつけられた“球体”の残骸は、跡形もない。
周囲にはガラス片一つ落ちていないのだ。
慎重にキノシタのポケットを探るが、何も出てこない。
財布も、通信端末も、メモ帳一つすら──完全な空だった。
「……不自然だな」
思わず口から漏れる。
その直後、上からかけられた声に顔を上げる。
「隊長、何か?」
声の主は、キノシタの警護を担当していた若い隊員。
無線機を胸にぶら下げたまま、硬い表情で立っていた。
タケウチは目を細め、問いを投げる。
「不審な行動はなかったか? 突然駆け出したとの報告だったが、それ以前に何か気になる点は?」
「……は。特に目立った言動はありませんでした。
あえて言えば……他の参加者に比べて、口数が極端に少なく、妙に落ち着いていたことくらいでしょうか。
状況が初めてとは思えないような、そんな印象を受けましたが……」
報告は簡潔で、的確だった。
だが、それだけに妙な引っかかりが残る。
(なるほどな……。表向きは日本人、だが妙に整いすぎている)
年齢は30代前後。標準的な体格、量産型のような顔立ち──だからこそ、逆に印象が薄すぎた。
こんな男が、何のチェックもなしにここに紛れ込めたのか?
(もしや……他国の諜報機関?)
脳裏をよぎったその可能性は、今この混乱の渦中で考えるにはあまりに重い。
仮にスパイだとすれば、その行動は自爆テロに等しい。だとすれば目的は──
「……面倒だな」
低く呟き、タケウチは立ち上がる。
隊員に指示を飛ばす。
「キノシタの遺体は後で回収する。ここに目印を。警戒を続けろ」
「了解!」
その返答を聞き届けると、彼は全体へ向き直った。
「よし、各班、報告が揃い次第、俺のもとへ。
一度、小休止を取る。息を整えておけ。……長丁場になるぞ」
静かに、しかしはっきりとしたその言葉に、隊員たちは動き出した。
そしてタケウチは、再び迷宮の奥を見やった。
そこには、静かに広がる闇と──誰にも読めない“試練”の続きが、まだ潜んでいた。