第11話 まるでそれは破裂寸前の風船のように
時間になると、重たい空気を背負うようにして建物の自動ドアが開いた。
冷たい外気が一斉に流れ込み、集まった一行は促されるように足を踏み出していく。
目指すのは──三鷹迷宮の裏手。
正面側には、柵の隙間から迷宮の入口を一目見ようと集まる人々の姿があった。
子どもを肩車する父親、スマートフォンを構える大学生、遠巻きに張る報道クルー。
まるで“観光地”を眺めるような緩い熱気がそこにあったが、一転、裏側の空気は張りつめている。
数棟のプレハブが等間隔に並び、警察と政府関係者が詰めているのが見える。
黄色と黒の立ち入り禁止テープが簡素に張られ、歩行者の通行は厳しく制限されていた。
そのせいか、こちら側に人通りはなく、静けさのなかに妙な緊張感が漂っている。
参加者たちはぞろぞろと、その裏手へと向かって歩を進める。
一般公開予定の迷宮といえど、安全管理は徹底されている。
俺の両脇には、先ほど説明に立ち会ったのとは別の、自衛隊所属と紹介された護衛の男女がそれぞれついていた。
一定の距離を保ちつつも、鋭い視線は周囲を絶えず走らせ、他の参加者の動きにも気を配っている。
迷彩服に小型の無線機。
外見上、目立った武装は見られないが、訓練された軍人独特の動きには隙がなかった。
肩越しに視線を感じるだけで、自然と背筋が伸びる。
そんなときだった。
前を歩いていた若い女性が、ふいにこちらを振り返って言った。
「なんだか……ドキドキしますね」
声は張っているようで、どこか揺れていた。
タイトなジーンズに薄手のセーター、上に羽織ったコート。
華奢な体格と整った顔立ちが、迷彩服や無骨な男たちのなかでひときわ目立っている。
言葉をかけられたことに驚いて一瞬言葉を失うと、彼女は慌てて手を振った。
「あ、急にごめんなさい! 緊張しちゃって……。
ほら、自衛隊の人に話しかけていいのかわからなくて……でも黙ってると余計、そわそわしちゃって」
軽く笑いながら、けれどその目元には不安の色があった。
慌てて言葉を返す。
「いえ、大丈夫ですよ。こっちも緊張してたんで、声かけてもらえて助かります」
俺の返答に、彼女の顔が少しだけほころぶ。
凍てついていた表情が、ほんのりと緩んだ。
「……ですよね。
警備の人も真面目そうだし、歩き方までそろってるし。
すごくちゃんとしてるんですけど、なんていうか、仰々しくて……。
でもまあ、考えてみれば当然か。これから“迷宮”に入るんですもんね」
「そりゃ、普通の散歩とはわけが違いますからね」
「ですよね」
そう言って彼女は小さく笑い、つづけた。
「私、友達と一緒に応募したんです。
でも、当選したのは私だけで。
今日は井の頭公園までは一緒に来てくれたんですけど、建物の入口でお別れして……
今はカフェで時間つぶして待っててくれてるんです」
少し照れたように頬をかきながら語る姿に、肩の力が抜ける。
「そっか……じゃあ、そのぶん、しっかりお土産話を持ち帰らないとですね。ええっと……」
名前を聞こうとしたその瞬間、彼女の方が先に名乗った。
「あ! すみません、名乗ってませんでした。クスノキって言います。
よろしくお願いします!」
どこか気の強そうな名前と、やわらかな笑顔のギャップが印象的だった。
「イトウです。クスノキさん、よろしくお願いします」
「はいっ、イトウさん! こちらこそ!」
* * *
クスノキとの会話がひと段落ついたころ、列の先頭が立ち止まった。
目の前に現れたのは、他のプレハブとは明らかに異なる、二回りほど大きな建物だった。
外壁には簡素な文字で「第1検査所」とだけ記されているが、その無機質な書体が却って緊張感を煽る。
誘導に従い、参加者たちは一人ずつ中へと吸い込まれていく。
中に入ると、蛍光灯の白い光がどこか病院のように冷たく、机や棚が整然と並ぶ無機質な空間が広がっていた。
荷物のチェックや金属探知機による検査が、黙々と進められている。
自衛隊員や係官の表情は一様に硬く、形式的な動作のなかに隙は見当たらない。
「次の方、こちらへどうぞ」
声がかかり、俺は一歩、ブースの中へと足を踏み入れた。
机の向かい側には、若い自衛官が一人、無表情で立っていた。
彼の手元には浅い金属製のかご。そこに、事前に指示されていたスマートフォンや財布などを順番に置いていく。
「お預かりします。では、ポケットの中も確認させていただきますね」
促されるままに、上着のポケットを探り、手のひらに収まる小物を次々と取り出していく。
鍵、小銭、ミントのタブレット──そして、例の“カード”も。
その瞬間、自衛官の手が止まった。
「……? すみません、こちらのカードは……?」
その声はごく冷静だったが、目の奥にわずかな警戒の色が浮かぶのが分かった。
手にしているのは、ステータスチェッカー。
見た目はただの無地のカードだが、もし不用意な説明をすれば、何らかの管理下に置かれる可能性もある。
だが、その瞬間にはすでに、言い訳のフレーズが口をついていた。
「ああ、それですか。ちょっと変わってるでしょ。近所のバーのポイントカードなんですよ」
笑顔を作りながら、自然に肩をすくめてみせる。
「何の印字もないカードなんて珍しいって言われるんですけど、マスターがちょっと変わり者で。
グラフィック関係の仕事してたらしくて、あえて何も書かない“無骨さ”がかっこいいって」
言葉に詰まりもなければ、目も泳がせない。
声のトーンも少し崩して、親しみやすさを演出する。
いわば、サラリーマンの営業トークの延長線上だ。
「はあ、なるほど……バーのポイントカードですか。洒落てますね」
自衛官は一拍の間を置いた後、納得したように頷き、カードをかごへと戻した。
そのまま金属探知機のチェックに移るが、こちらも問題なく通過。
「はい、検査終了です。お預かりした電子機器はこちらでお返しします。
他のものはそのままお持ちください」
そう言ってかごを手渡され、ステータスチェッカーも含めた私物が戻ってくる。
「ああ、ありがとうございます」
努めて自然に振る舞いながら、件のカードをさっと他のカード類とまとめてケースに収める。
表情を変えずにそれをポケットへと滑り込ませると、ようやく肩の力を抜いた。
* * *
クスノキさんも無事に検査を終えたようで、胸に手を当てながら安堵の表情を浮かべ、こちらへと歩み寄ってきた。
「……悪いことしてないのに、なんだかこういうのって緊張しちゃいますよね」
そう言って、気恥ずかしそうに笑う彼女の声には、ほんの少しだけ震えが混じっていた。
やがて全員のチェックが完了し、再び列が整えられる。いよいよ、迷宮へと踏み出すときが来た。
正面に立ったタケウチ三佐が、静かに、しかし凛とした声で呼びかける。
「改めてお伝えします。決して、50メートル地点のラインから奥に踏み込まないでください。命令に背いた場合、最悪、武力による拘束も辞しません」
その言葉が放つ重みは、風のように列全体を撫でていった。誰一人として声を上げる者はいない。いや、上げられない、という方が近いだろう。
タケウチがちらりと振り返り、確認を終えると、近くに控えていた先導の自衛官へと短く命じた。
「進め」
敬礼で応じた隊員が歩みを始める。それに続いて列も動き出した。
迷宮の入口は地面にぽっかりと空いた、大きな穴のような形状をしている。
傾斜のついたスロープを緩やかに降りていくと、やがて地面が平坦になる地点が見えてくる。
そこが迷宮の“内部”──異界への入り口だった。
「前方に見える地点が、地形の変わり目になっており、そこから半径100メートルが安全圏とされております。
50メートル地点には赤いラインが引かれていますので、くれぐれも越えぬようお願いします」
先頭の自衛官が手を挙げ、全体へと注意を促す。
空気が、変わった。
境界をくぐる、その瞬間──
グンッ!
言葉にならない衝撃が、身体の内側から湧きあがった。
まるで、内なる力が唐突に膨張し、世界に“自分”という存在が圧し出されたような錯覚。
皮膚が焼けるでもなく、骨が軋むでもなく、ただ……自分自身が、急激に“重く”なった。
思わず立ち止まって、呼吸を整える。
「……っ……今の、なんだ……?」
視線を横にやると、クスノキさんが不安そうに辺りを見回していた。瞳には戸惑いと微かな恐れ。
「ど、どうしたんでしょう、急に空気が……重くなったような気が……」
自分だけが感じたわけではないらしい。だが──
周囲の視線が集まっていることに気づく。
参加者たちではない。護衛の自衛官たちだ。
数名がこちらへとわずかに重心を傾け、眼差しに警戒の色を灯していた。
一人の隊員が走り寄り、タケウチに耳打ちする。その表情は鋭く、緊迫していた。
「隊長、おかしいです。普段はこんなこと、起こりません」
しばしの沈黙。空気が張りつめる。
タケウチは腕を組み、軽く唇を噛んでから、短く答えた。
「……現時点で明確な危険は確認できない。現場判断として通常通り進行。警戒は維持せよ」
それは、彼自身の決断ではあるが──同時に、“止める理由”を見つけられない者の言葉でもあった。
今の世論は非常に危ういところでバランスをとっている。
イレギュラーな対応は、避けたいところだった。
しばらくざわついていた空気が、徐々に静まっていく。
それぞれが己の不安を飲み込み、散策を始める者も現れはじめた。
広々とした迷宮の入口広場には人工的な明かりが設置されており、かすかな湿気を孕んだ空気のなか、足音がコツ、コツと響く。
何人かの自衛官は依然としてこちらを意識しているようだった。
だが、目に見える異常が確認できない以上、彼らの警戒も次第に散開し、全体の監視へと移行していく。
その隙を縫うように、クスノキさんも警護の隊員に付き添われながら、慎重に足を踏み出して周囲を見て回っていた。
その様子はまるで、初めての異国に降り立った旅人のようで、好奇心と不安の入り混じった表情が印象的だった。
その姿を横目に、俺は表面上は平然を装いながらも、内心では激しく動揺していた。
(……なんだ、これは。体の奥から、力が……エネルギーが溢れてくる……!)
たった一歩を踏み出すたびに、地面との摩擦を意識してしまう。
ほんの少しでも力を入れれば、壁を突き破ってしまいそうな──そんな錯覚すら覚えるほどだった。
(ちょっと駆け出しただけで……跳び上がるんじゃないか?)
これまでのレベルアップで、身体能力の向上は確かに実感していた。
レベル14に達したあたりでは1.5倍~2倍程度、今のレベル28に到達した時点ではおよそ2~3倍ぐらいが体感として確認している。
だが、今その比ではない。
例えるなら、身体のひとつひとつの細胞が覚醒し、意志を持って自らを“強化”しているような感覚。
その暴力的なまでの膨張感は、もはや“力がみなぎる”という表現では足りなかった。
(……これが、本来のステータスってやつなのか)
ステータスチェッカーでの数値を、頭の中で思い浮かべてみる。
【種族 :人間】
【レベル:28 】
【経験点:154,000】
【体力 :197 】
【魔力 :052 】
【筋力 :121 】
【精神力:182 】
【回避力:213 】
【運 :015 】
レベル0時点からすれば、すべての数値が20倍から30倍にまで跳ね上がっている状態の数値。
もしも、この数値通りの肉体性能が引き出されているとしたら……。
(……全能感がヤバい……! 思わず、叫びたくなる……!)
理性が、かろうじてブレーキをかけている──そう感じていた。
たぶん、「精神力」の数値が180を超えているおかげなのだろう。
だが、それが逆に恐ろしかった。
ほんの少し、きっかけさえあれば、この理性のタガは外れる。
そうなったとき、自分がどこまで“人間”でいられるのか、まったく見当もつかなかった。
(今は……冷静になれ。何かがおかしい、確かに。迷宮と何か関係が──)
そのときだった。
迷宮の奥──ラインの向こう側から、怒号と足音が響いた。
「止まってください! キノシタさん、危険です!」
怒鳴り声とともに、自衛官が慌てて走る。
そちらへ視線を向けた瞬間、白っぽいジャンパーを羽織った男性が、自衛官の制止を振り切って駆け出す姿が見えた。
「おい、あれ……!」
周囲にいた参加者たちが騒然とし始める。
男の名前は、確かキノシタ。
さっき、待機室でちらりと名簿で見た気がする。
彼は、すでに──セーフラインを越えていた。
(バカな……あそこから先は……!)
即座に複数の自衛官が動き出す。自動小銃を構え、追いかける姿に、場の空気が一気に凍りついた。
(まずい……あれじゃ──!)
迷宮の静寂が、破られようとしていた。