八つ時
懇親会当日、私は穏やかな心持だった。エリック殿下にエスコートされてホールへ降り立って、好奇の視線に晒されても、平然としてられるくらいに私は寛容な気持ちになっていた。
「……」
私はそっと隠れるように庭に出る。
「オペラホールから見るながめはすごいらしいの」
「大きくなったら、いっしょに見ようよ」
幼い頃にアランとそんな話をしたことがあった。あの頃は来たる未来を何1つ疑っていなかった。
少し早足歩きで約束の場所へ向かうと、バルコニーに立つ人影を見つける。
「アラン」
人影はゆっくりとこちらを振り返った。
「我が儘言って呼び出してごめんなさい。ブリジット嬢には私からも後で説明させていただくわね。彼女、今は誰かに付き添ってもらっているのかしら?」
「……そのことなんだけどブリジット嬢への説明は必要ないよ。実は俺、彼女を怒らせてしまって、彼女が帰るのを見送ったところなんだ」
息を吐くアランには疲れが滲んでいた。心なしか顔色も悪いように見える。
「アランがブリジット嬢を怒らせることをしたの?」
アランは優しいし、気配りも出来る男だ。女性を怒らせるようなタイプでは絶対にない。それにブリジット嬢も優しい人だから、そんな簡単に人に怒るとも思いにくい。首を傾げると、アランは躊躇いがちに口を開いた。
「ダンスをした時に彼女の足を踏んでしまったんだ。一曲目はなんとか踊りきれたんだけど、二曲目も踊りたいと乞われてしまって」
二曲目を踊らずに強く断わって置くべきだったと、アランは罪悪感に苛まれているようだ。
「それは……大変だったわね。また今度、ブリジット嬢には正式に謝罪の品を贈った方がいいと思うわ」
私は踏まれる覚悟を持って最初からアランとダンスを踊っていたけど、ブリジット嬢はいきなり足を踏まれて、驚いたことだろう。アランはそれ程に欠点を人に見せない完璧な王子様だった。
「ああ、そうするよ」
青い顔のままアランはこくりと素直に頷いた。
(ダンスを嫌いになってしまったかしら)
本当はずっと「貴族の対面なんてどうでもいいじゃない」とアランにそう言いたかった。貴族らしく完璧に自分を装うのではなくて、立場なんて気にせずアランらしく生きてほしかった。
でもそう言ってしまったが最後、貴族の責任の象徴とも言える婚約者である私は、アランに切り捨てられるのではないかと思ってしまった。
8年間私はずっと、アランを応援しているつもりで、本当の彼のことを否定し続けていたのだ。我ながら身勝手で酷い女だ。
「ねえアラン。踊らない?」
私は彼に手を差し出した。エスコートする時は、女から男に手を差し出すことはない。それがしきたりだったから。
でもホールにいない私達には関係のないものだ。
「いや、もうオレは……」
「誰の目も無いところなのだから、好きに踊れるでしょう? 踏んでも文句は言わないから」
必死に言い募る私に、アランは目を丸くして私を見た。長い付き合いだから、アランが本当に踊りたくないと思っていることは伝わってくる。いつもなら無理強いはしない。でも今回だけは譲れなかった。
「これで最後にするから」
私は覚悟を決めた。積み上げてきたものを壊して、前に進む儀式をしようと思うのだ。
「……分かった」
アランが私の差し出した手に手を重ねる。ホールから漏れ聞こえる音を頼りにステップを踏み出す。それもいつも通りの型にハマったような物じゃなくて、適当なステップだ。アランは意図しない私のステップに驚いたようで、私の足を踏まないように下を向いてステップを踏む。
「ねえアラン、上を向いて」
「え、上を向いてって言われても……」
アランは真っ青な顔をして困惑したように私を見る。
「ダンスって苦しみながら踊るものじゃないわ。ただ自分の感情に委ねて身体を揺らせば、それだけでダンスなんだと思うの」
意味がわからないといったように眉を下げるアランを前にして、私はアランを掴む手を離して、一人ステップを踏んだ。一連の動きの中にジャンプを入れたり、手拍子を入れたり、そんな適当な踊りだったが音楽に合わせて踊るだけで楽しくなってしまう。
そんな私を困ったように見ていたアランだったけど、簡単なステップを踏むように誘導すると、その後は夢中になってダンスを踊り始めた。
◇
「ふう、踊りまくったわね」
ひとしきり踊り狂って、疲れて私はバルコニーの柵により掛かる。向こうには暖かなオレンジ色の光を纏う王都の夜景とそれを反転させた運河が見えた。アランも夜景を眺めるように、バルコニーの柵に寄りかかる。
「楽しかった。ダンスってあんまり好きじゃなかったけど、こんなに楽しいものだったんだね」
彼の口元に漸く自然な笑みが浮かんだのを見て、私は口を開いた。
「……私、本当のアランが好きよ」
声が震える。指も息も全てが震える。本当の気持ちを伝えるのが怖かった。8年前から今まで積み上げてきたものを壊すのは、とても勇気のいることだ。でも8年間も積み上げてきたものだからこそ、伝えておくべきだと思った。
「完璧な貴公子のアランも素敵だと思うけど、不器用で慌てん坊な貴方の方がずっと魅力的だと思うの。苦手を克服しようと努力するアランを尊敬するけれど、ダンスが苦手だったり、人前で話すのが苦手だったり、そんなことで貴方の魅力は損なわれないわ。今日は……いえ、ずっと本当はそれを伝えたかったの」
大きく息を吸って、吐き出す。そうすると少し心を落ち着かせることが出来た。アランをじっと見つめるものの、丁度ホールから漏れ出る光が逆光になってその表情をうかがい知ることは出来ない。でも丁度良かったと思った。これなら自分の顔はしっかりとアランに見えているだろう。
「私は本当のアランの優しさにずっと助けられてきたわ。こんな言葉なんかじゃ足りないだろうけれど、本当に感謝してる。ずっと私の傍にいてくれてありがとう」
私は頭を下げる。貴族の礼ではなく一般的な礼をしたのは、貴族令嬢としての私ではなく、自分自身の感謝を伝えるためだ。きっとアランにも伝わっているだろう。
「貴方の幸せを願っているわ」
無理矢理口角を挙げずとも、自然と口元は綻んだ。
「引き止めてごめんなさいね。私からお父様にも婚約の破棄のこと伝えてみるから」
計画通りに彼の前で笑うことが出来、私は満足してその場を後にしようとした。しかしその前にアランが口を開いた。
「ジゼルは殿下と結婚するつもりなの」
「え?」
想像とは別の方向から飛んできた質問に、私は首をひねる。
「……ずっと王子様に憧れていただろう」
アランは絞り出すようにそんな事を言った。
「ああ、お気に入りの本の話かしら?」
確かにアランにお気に入りの本の王子様の事について、昔しつこく語っていた事があった。そんな痛い私の過去のことを何故かアランは覚えていたらしい。
「確かにあの本の王子様にはずっと憧れていたけれど――」
私はそこで言葉を区切った。この先の言葉を言い切ってしまうのは、余りにも気恥ずかしい。ちらりとアランを見ると、小麦色の柔らかい金髪が夜風にそよぐ。
(まあ良いか、何もかも今更なのだ。今更何を隠す必要があるだろう)
私は大きく息を吸い込む。
「あの本の王子様はね、アランと同じように金髪に緑色の瞳をしているの」
「小麦のような金髪」「新緑の緑眼」本の中の王子様はそのように評されていた。アランに出会う前、その本の王子様とアランの色合いが一緒らしいと聞かされて、一気にその本がお気に入りになった。アランと出会った後も、本の王子様を思い浮かべる時に浮かんでくるのはアランの姿だった。結局私はアランに出会う前から魅入られていたらしい。
「私は殿下とは結婚しないわ。だってアランが好きなんだもの」
二度目の告白は、自分でも驚くくらいすんなりと口から出た。『婚約者を好きになるなんて、幼少期の両親の洗脳の賜物だろう』、そう言われたら反論するすべは持たない。でもこの感情だけは、本物だと言い切れる。
「……そんなの、おかしい」
アランは苦しそうに吐き出すように言葉を紡ぐと、頭を抱えるようにしゃがみ込む。
「ジゼルは婚約者が俺じゃないほうが、絶対に幸せな時間を過ごせていたはずだ。足に痣ができることも、悪女と罵られることも無かった。俺は迷惑をかけてばかりいて、君の優しさに報いることなんて1つも出来てない」
ポツリポツリとアランの心中が吐露されていく。その姿を見て、両親や家庭教師に叱られて、部屋の隅で丸まるようにして泣いていたアランを思い出した。
アランが泣くのは、叱られて悲しいからではない。人の望むように動けない自分が、情けなくて泣くのだ。
アランは圧倒的なまでに自責思考をしていた。こんなにも人に優しくて、努力家で良いところが沢山あるアランなのに、アランは自分のことが嫌いなのだ。
「私はアランと過ごすティータイムが、人生で一番幸福な時間だって思っていたのよ」
自分の気持ちが何1つ彼に届いていなかった事実に、寂しさと悲しさを感じる。でもそもそも伝えようとしていなかったのかもしれない。
ずっと同じものを見て育ってきて、ずっと一緒にいたのだから、言わずとも分かってくれるだろうと甘えていた。
そしてなんでも彼のことを分かっている気になっていた。そんな事実に今更気づいて、今更過ぎるこの感情を伝える事を選んだ。
ドレスが汚れることも気にせず、彼と同じように足元にしゃがむ。そして俯く彼の顔を両手で挟んで、無理矢理上を向かせた。
「足を踏まれても、悪女だと罵られても、穏やかな幸せをくれる貴方の傍に居たかったの。迷惑を掛け合うなんてお互い様だし、優しさなんて絶対私の方が貰ってばかりいるわ」
青くも黄みがかっても見える不思議な虹彩の瞳の中に、見知った自分の顔が映る。自分とは全然違う色をした瞳には、どんな世界が映っているのだろうかと小さい頃は疑問に思っていた。
そしてアランにも自分と同じものが見えていると知った時、同じ世界を彼と共有できることが嬉しかった。しかし同じものを見ていても、やっぱり分かり合うことは難しい。だから言葉を尽くさないといけなかったのだ。
「それに損得とか遠慮とか、どうでもいいじゃない。過去とか思考に囚われないで、今目の前にいる私を見て。そんなに不幸そうな顔をしているかしら?」
私がそう言うと、彼は私の顔をまじまじとのぞき込むようにして見た。あまりにも顔に視線が刺さるものだから、私はお化粧が崩れていないか心配になってくる。
「ジゼル、目尻にほくろなんてあったっけ」
「え!?ほくろ?」
そんなものないはずだ。化粧か何かでついてしまったものだと考え、目尻を擦ると、その指を彼に止められる。
「擦ったらお化粧落ちるからダメだ。やっぱり右目の下に小さいほくろができてる」
彼はそのほくろと思われる位置に優しく触れる。
「ちゃんと目の前のジゼルを見ていると思っていたけど、見ていなかった。ジゼルのことを分かった気になって、勝手に解釈してたみたいだ」
彼の指が私の存在を確かめるように輪郭を辿る。くすぐったくて身を捩ると、やっと彼は私の顔から手を離した。
「ごめん、嫌だった?」
「嫌じゃないけどくすぐったい。それに少し、恥ずかしいわ」
私がそう言うと、彼は少しほっとしたように息を吐いた。
「俺はジゼルを不幸にするのが一番怖い。ジゼルは優しいから俺に迷惑をかけられても文句1つ言わなけど、いつか愛想を尽かして俺の目の前からいなくなるんだろうなって思ってた。でもジゼルが幸せならそれでよかったんだ」
雲間から月の光が漏れ始める。彼は空を仰ぎ見て、自分の胸に秘めてきた思いをゆっくりと吐露する。
「ジゼルは俺の幸せを願ってるって言ってくれたけど、俺もジゼルの幸せを願ってる。今までもどうしたらジゼルを幸せにできるか考えて、自分じゃない誰かがジゼルを幸せにして欲しいと思ってた」
その口ぶりから彼が自分との未来を見ていなかったことに気付く。彼は諦念から私との日々をいつか終わるものと考えて、過ごしてきたらしかった。
「オペラホールから見るながめはすごいらしいの」
「大きくなったら、いっしょに見ようよ」
何気ないそんな小さい頃の約束も。
「ねえ、アラン。私達のウェディングケーキはアランが作ってくれる?」
「そ、そうだね。うん、俺が作るよ」
そんなささやかな楽しみも。私は指折り数えて忘れたことは無かったというのに、全て彼はあり得ない夢を語るように返事をしていたと言うのだろうか。
「……アランは薄情者だわ。私はずっと貴方と生きる未来を願っていたのに」
「そうだね。ジゼルはその場限りの思い付きなんかじゃなくて、全部本気で未来を語ってくれていたんだと今なら分かるよ」
ダンスホールは盛り上がりをみせて、歓声とオーケストラの演奏が漏れ聞こえてくる。月の光に照らされて、金色の髪が柔らかい光を帯びた。見知った立ち姿に、見知った顔をした見知った彼ではあるけれど、私の知らない表情をしていて、何を考えているのかなんて分からない。
けれどアランの指先が震えているように見えて、私はその手を温めるように両手で包み込む。驚いたように息をのむ音が聞こえたが、アランは息を吐きだすと、私の手をもう片方の手で握りしめた。
「やっぱり俺は他の誰かにジゼルの語った夢を託したくない。我儘だけど、ジゼルが笑っているのは俺の隣であってほしい。美味しいお菓子が作れたらジゼルに一番に食べてほしいし、もしこれからジゼルがお菓子を作ることがあるなら俺に一番に食べさせてほしいんだ」
真剣な声音で告げられた言葉に、私は胸が熱くなるのを感じた。そして夢を抱いてしまった。アランにお菓子作りを教えてもらって、二人で小さなお菓子屋さんを営むのだ。そんな時間はないかもしれないから、趣味程度に周囲の人に振る舞う程度でも良いけれど。アランとの未来を想像すると自然と笑みが零れ落ちる。
「そんな我儘なら、叶えてあげられるわ」
遠慮しいのアランが我儘を言ったなら、絶対に叶えようと決めていた。それがどんな願いであっても絶対に。
初めて告げられたアランの願いは不器用な彼らしく、不器用で――けれど温かい願いだった。
◇
結局婚約はそのまま続行することになった。まだお互いに両親へ話していなかったこともあって、大事にはならなかった。でも両親は学校での出来事をどこからか聞きつけていたようで、大層心配させていたのだと後から知った。
中でもお母様は「アランが浮気をするような男なら結婚は取りやめる」と実はかなり憤慨していて、今回の一件のせいでお母様の中のアランの株が暴落してしまった。そのためしばらく我が家にアランは連れて来られそうにない。
怒れるお母様を避けるべく、最近私たちはもっぱらアランの家でお茶会を行うようにしていた。
アランが焼いてくれたマカロンを頬張りながら、少し前に美味しいマカロンの焼き方をアランが教えてもらっていたのを思い出す。
私達は婚約を続行するにあたって1つの約束をした。「お互いを分かり合うためにも隠し事はしないで、言いたいことは言い合うようにしよう」というものだ。口に出さないと伝わらないこともあるものだ。
「……実はブリジット嬢に好意を抱いていたでしょう」
あんなに女性と仲良くしているアランを見るのははじめてだったし、私の目からはアランがブリジット嬢に興味を抱いているように見えていた。ブリジット嬢は可愛いから、満更では無かったんじゃないだろうか。
声が小さかったせいで、拗ねているような言い方になってしまった。実際にアランは目を丸くして私を見た。
「ブリジット嬢に?」
「アランが今までにあんなに仲良くしていた女の子、いなかったでしょう」
懇親会以降は一緒にいるところを見ていないけれど。どうやらブリジット嬢は足を踏まれたのが相当ショックだったらしく、アランが謝罪の品を送っても音沙汰1つなかったらしい。でもそこに至るまでは、私なんかよりずっと良い関係だったように見えた。
「ブリジット嬢と俺はそんな関係じゃないよ。俺とジゼルが一緒にいることで、ジゼルの評判が下がってしまうなら、他の女性が傍にいたら悪意が分散されるんじゃないかって思って、それに彼女も協力してくれていただけ」
「……え?」
まるでブリジット嬢に悪意を集めることで隠れ蓑を作ったと言っているようなものだ。
(それはつまりブリジット嬢の好意を利用したということなるのかしら。ブリジット嬢に了承を得ているのならいいんだろうけれど)
アランは『婚約者を独占する女』という評判を取り払う為に、努力してくれていたらしい。
それにしたってもう少し他の方法はないのかと、文句を言いたくなる。しかしその気持ちもアランから告げられた言葉によって、すぐに霧散してしまった。
「俺は出会った時から、他の女性が目に入らないくらい、ずっとジゼルだけが好きだ」
池に落とされる被害にあったのに、駄目な自分を受け入れてくれたことが嬉しかったんだとアランは少し照れくさそうに話した。
その言葉だけであの日ダメにしたワンピースにも、少し濁った池にも、アランの不器用さにもすべて感謝したくなるのだから、人生とは分からないものだ。
「私も――」
たどたどしくて、不格好で不器用な言葉をそのまま口にする。
そのくらいの飾らない言葉のほうが、案外私達にはお似合いなのだ。
これにて完結になります!
お付き合いいただきありがとうございました!