六つ時
1年後私達は結婚する。その予定だった。8年前から私達が18歳になったら結婚することが決められていた。
それなのに今になってアランはこの婚約自体の白紙を申し出てきた。あんなに良くわからないタイミングで。
「……」
アランから切り出された言葉にショックを受けてしまって、それ以降の記憶がない。「あぁ」とか「うん」とか声を上げた気もするけど、アランがどんな顔をしていたかとかどうやって家に帰ってきたのかとか、何もかもが思い出せない。私がやっと正気に戻ったのは、自分の部屋のソファに座っていた時だった。
何故今更アランがそんなことを言い出したのか、理由は1つしか無い。アランはブリジット嬢と結ばれるつもりなのだ。アランの我儘はなんでも叶えたいと思っていた。でもこんな願いを告げられることを想像していなかった。
ぼんやりと宙を見て思考を巡らせると、小さい頃から今に至るまでのアランとの思い出が思い返される。基本的に仲が良い私達だが、喧嘩をしたことも数えきれないほどある。
私がアランの作ったお菓子をつまみ食いして口を聞いてもらえなくなる、といった可愛らしいものが殆どなのだが、一番大きい喧嘩をした時はアランが死んでしまうかもしれないというところまで彼を追い詰めてしまった。今でも思い出す程、私はその時の感情の爆発を後悔している。
私は婚約当初、アランを無意識のうちに下に見ていた。私は要領が良い方で、人から教えてもらったら一度でそれなりの形に出来る人間だった。だからアランの鈍くささを見て、「自分が手伝ってあげないといけない」という使命感のようなものを、頼まれてもいないのに感じていた。
自分が優れた人間なのだと思って、少しアランを馬鹿にして、幼いなりに優越感に浸っていたのだと思う。でもそんな時間も長くは続かず、アランは私が遊んでいる時も長い時間努力を重ねて、貴族のマナーや勉強も私よりもずっと出来るようになっていった。
見下していた人に追い去られ、今まで自分をほめていた人が自分よりアランを持ち上げ始めた時の私の焦りといったら尋常じゃなかった。ある時家庭教師が出したテストで酷い点数を取って落ち込んでいた私の元に、心配したアランが来て「俺が教えようか」と言った時、今まで張りつめていたものが爆発した。
アランはテストで酷い点数を取った私を馬鹿にしているわけでもなかったし、ただの好意で言ってくれたのに、その時の私は酷くプライドが刺激されたのだ。
「そんなのいらない。私を手伝う余裕があるなら、未だに出来るようにならないダンスの練習でもしたら。ずっと言っていなかったけど未だにアランが一番簡単なワルツも踊れないから、アランに付き合わされて私は迷惑してるんだから!」
その時の私には明確にアランを傷つけてやろうという悪意があった。相手が自分のコンプレックスを刺激してきたのだから、傷つけても良いだろうと思っていた。
「そうだよね。本当に迷惑かけてごめん」
憤慨していた私は、泣きだしそうなくらい暗い顔をしたアランを見て、鬼の首を取ったように晴れやかな気持ちになった。その時の私はアランのことを見誤っていたのだと思う。
それから3日後、アランの両親のセギュール侯爵夫妻が真っ青な顔をして私のもとに尋ねてきた。曰く私と会って以降、アランは3日間寝ずに飲み食いもロクにせず、ダンスの練習に明け暮れているのだとか。アランが死んでしまうかもしれない、そう言って泣き崩れたセギュール侯爵夫妻の姿を見て、そこで自分がしでかした罪の大きさを知ったのだ。
セギュール家のダンススタジオへ向かい、そこでフラフラとしながら一人ダンスの練習をするアランを見て、狂気的なものを感じずにはいられなかった。彼の足が縺れるのを見て駆け寄り、体を抱きとめるように滑り込むと、やっとその黄緑の瞳が自分の姿を映した。
彼が寝食を忘れてダンスに打ち込んでいた理由は、やはり私に迷惑をこれ以上かけられないからというものだった。私の制止も聞かず、練習を始めようとするアランを見て、私は恐ろしくてたまらなかった。自分の気安く発した言葉が、こんなにもアランを変えてしまえることが怖くなったのだ。
言葉を尽くしても止まってくれないアランに縋りつき、「アランの努力できる才能に嫉妬して心にもないことを言ってしまったのだ」と涙を流しながら懺悔をした時に、やっとアランは止まってくれた。
「俺の存在がジゼルを不快にさせたのなら、やっぱり俺が悪いよ。本当にごめん」
彼は疑いもなくそんな言葉を言うから、私は益々悲しくなって涙が止まらなくなった。責めて欲しかったのに返ってくるのは、アラン自身を否定する言葉ばかりだった。めげずに努力を続けられる彼が、実は脆く儚い存在なのだと私はそこでやっと認識した。
それから私はアランに対して、どれだけ自分がアランを大切に思っているかを伝えてきたつもりだ。
それでもアランの一番そばにいる人間が、一度アランを否定してしまった自分ではダメなのではないかと、心のどこかで思っていた。
すっかり仲直りして普通の状態に戻っているけれど、きっとあの日のことがアランの中に影を落としている。
「私に出来るのは背を押す事だけなのかしら……」
悶々とそんなことを悩みながら、夜が更けていった。
◇
台所は戦場だとはよく言ったもので、私はまさしく戦場に立たされていた。
「あ、あの、アラン!この栗なんだけど――」
レシピを見てもどう調理して良いのかわからず、縋るようにアランに声をかける。私の言葉にアランが振り返り、口を開こうとしたものの、ブリジット嬢の声で動きを止めた。
「アランさん!目を離したら砂糖が玉になっちゃいますよ!」
「ごめん、ジゼル。こっち終わってから相談乗るね」
眉を下げて申し訳無さそうにアランはそう言うから、自分の至らなさを恥じた。
「ご、ごめんなさい、忙しい時に声かけて……」
ブリジット嬢がグラニュー糖を横から注ぐ中、アランはホイッパーでリズム良くボウルをかき混ぜる。
「すっかり蚊帳の外だな」
エリック殿下は真剣な顔で調理する二人を見て、肩を竦めた。
その言葉によって、傷口が深くなったのを感じる。
どうしてこのメンバーで調理をしているのかというと、アランがブリジット嬢とにモンブランを作るという話を聞いて「私もやりたい」と手を上げたのが経緯だ。それで調理室へ足を運ぶ際にエリック殿下に捕まり、彼を一緒に調理室へ連れてきてしまったのである。
私は何も言わずに大量の栗へ向き直ると、包丁を使って渋皮を剥いていく。手元にはまだまだ皮の剥き切られていない、何十個もの栗がある。
「殿下は何故調理なんてする気になられたんですか? 王宮に暮らしていると、包丁を持つことなんて早々ないでしょう」
「そんなのお前がすると言ったからに決まっている。俺はお前に興味があるんだ」
恥ずかしげもなく殿下はそんな事を宣った。私が口に出せない言葉を簡単にエリック殿下は口にする。
私はエリック殿下と話すと、心かき乱されずにいられない。今だっていつまで停滞を選んで、時間を無為に過ごすつもりなのかと責められている気がしてくる。
じわりじわりと焦りが自分を侵食していく。
「お、おい!お前――」
エリック殿下が焦ったように私の腕を掴む。突然腕を掴まれて驚いた私は、包丁を落とした。
「も、申し訳ありませんっ! お怪我はありませんか?」
よたよたとしながら、エリック殿下に駆け寄る。
「いや怪我してるのはお前だ!」
そう言ってエリック殿下は私の手を掴んだ。そこで自分の手を見て血が滴っていることに気がつき、やっと痛みを感じ始めたのだった。
◇
私は保健室で怪我の手当をしてもらった後、調理室へ戻ったものの、手伝うのを禁止されて3人が調理をするのを見ていることになった。3人の邪魔にならないように、教室の端に置かれた椅子に座ってじっと調理する姿を眺める。調理をする手伝いすらできなくなって、先ほどよりもずっと疎外感があった。
調理をすることでアランにもっと近づける気がしていた。実際にブリジット嬢とアランはそれで仲良くなった訳だし。
けれど結果としては、ブリジット嬢との差を思い知らされた挙句、迷惑をかけて終わってしまった。私は指に大袈裟に巻かれた包帯を見て、酷く惨めな気持ちになっていた。
「今月末に学院の懇親会と称して、オペラホールを使ってパーティが開かれますよね。アランさんは参加されるんですか?」
一年に一度別の学年やクラスの人と関わる機会として、この学院ではパーティが開かれる。社交ダンスの時間があり、男女のパートナーと共に参加するのが一般的だった。毎年開催場所が異なっており、今年はオペラホールで懇親会が開かれることになっていた。
「俺も参加するよ」
「え!じゃあ私のエスコートしていただけないですか?私オペラホール行ったこと無いので、どうやって行けば良いのか分からなくて不安なんです」
「え……」
ブリジット嬢が突然そんなことを言い始めても動揺することが無かったのは、当然そうなるだろうと考えていたからだ。だから私はむしろそこでアランが躊躇いを見せたことが意外だった。アランは困ったように私を一瞥する。
いつもなら堂々と婚約者権限をかざして、「ごめんなさい、私達先に約束をしていて」なんて会話に入り込むところだ。でもアランから婚約の破棄を提案されている身で、そんな行動などできる訳がない。あれからアランとは婚約について話し合っていない。親にはまだ話は伝わっていないようだし、親に話を通したところで簡単に話が転ぶとも思えない。私はそこでアランに問いただすこともせずに、曖昧な関係でいることを選んだ。婚約の白紙化を持ち出した本当の理由を聞くのが怖かったからだ。
「お前がブリジット嬢をエスコートするなら、ジゼル嬢は俺がエスコートしよう」
「!」
今だけはブリジット嬢もエリック殿下のことも眩しいと思わずにいられない。婚約者がいる人間に言い寄る女も、男も、倫理的にどうかしているとは思うのだが、自分の欲望を前にして正直に言葉を告げられる強さが羨ましい。
先ほど包丁で切った傷跡がじくじくと痛むのを感じて、そこで私はやっと口を開いた。
「私は――」
参加しない、そう言うつもりだった。ままならない現実から逃げたくてたまらなかった。しかしそんな言葉もアランの言葉に遮られて、言うことは叶わなかった。
「俺は殿下にエスコートしていただく機会なんて中々無いだろうから、ジゼルは殿下とパーティに参加すべきだと思う」
なんでそんなことを言うのかとか、何を考えているのかとか聞きたいことは沢山あった。
「……そうね」
しかし衝撃のあまり口から零れ落ちたのは、そんな了承の言葉だった。
今日以上にアランの残酷さを感じたことはなかった。