現れる脅威
「――この辺りは元々、魔物が多い地域でして」
馬車が王都を離れて数時間後、俺は少しずつ虚無のような感情から脱し始め、御者の話を耳に入れることができるようになった。彼は無言のままでいた俺に対し、延々と喋り続けている。
「左手に森で覆われた山が見えるでしょう? この山の中腹には魔物と戦うためにアスディア王国が建てた砦があるんです。街道なんかも整備されていない時代の話なので、現在ではまったく使われずただの廃墟になっているんですが……何十年も前に、どこかの魔術師が砦に住み着いていたらしいですよ」
「……住み着いた?」
思わず聞き返した俺。すると御者の男性はどこか嬉しそうに、
「ええ、たぶん研究機関の権力争いとかに負けて都落ちした人でしょうね。ずいぶん前の話なので既にその人は死んでいるでしょうけど、もしかしたら砦には魔術師が残した道具とかがあるかもしれませんね」
「お宝ってこと?」
「さあどうでしょう。本来なら国が責任もって調査し取り壊すべきでしょうが、壊すにもお金が掛かりますからね、悲しいかな放置されているというわけです」
……そういった話を耳に入れて、俺はようやく落ち着きを取り戻した。そんな精神状態を御者の男性は感じ取ったのだろう、さらに続けた。
「私は今日、あなたと初めて会った人間なので助言なんてものはできませんが……こうやって馬車に揺られる間くらいは、楽しんでください」
「……ああ、ありがとう」
礼を述べた時、俺は鞘に収められた剣を抱えていることに気付いた。小さく息をついて剣を膝に置き、窓の外を見る。
御者の言うとおり、森が広がっているのが見えた。その山から川も流れており、耳を澄ませば鳥のさえずりが聞こえてくる。
「……目的地までずっとあなたが?」
御者へ問い掛けると彼は頭をかき、
「残念ながら途中までです。運河くらいまでで別の方と交代する手はずになっています」
「そうか……」
「今日は街道を進んだ先にある宿場町で休みましょう」
俺は彼に「ああ」と返事をして、窓の外から目を離す――改めて、考える。なぜ兄はここまでしたのか。
家督争いなんてものは生まれた時点で兄の勝利だった。扱いが豹変して以降、カーヴェイル家の当主はセオだ、と直接言ったこともあった。けれど兄は態度を一切変えなかった……なぜそこまでさせたのか。
確実なのはどういう動機であれ、俺を家から追い出そうとしていただろう、ということ。例えば俺が学園内で喧嘩でもして誰かに怪我をさせたら、それを名目に学園を辞めさせられていただろう……誰とも話さず、ただひたすらおとなしくしていた結果、隙を見せることがなくここまでやってこれた。
でも、別荘の件で兄は……もう、俺に残されたものは何もない。勉強も剣術も、魔法も全てが落ちこぼれレベルの半端者。例え別荘で自由時間がたくさんあって勉強や鍛錬ができたとしても、一人ではどうにもならない。俺に残された道は、西の果てにある別荘の主となることだけ。
正直、こんな仕打ちをされたなら怒り狂ってもおかしくなかった。でも俺は違った。兄に復讐してやるとも思わなかった。胸に渦巻いていた感情は――
心の内で兄への思いを言葉にしようとした時だった。ドドドド……そんな地鳴りのような音が、耳に入ってきた。
「ん……?」
俺は窓から外を見る。方角が分からないけれど、山からのものではないようだ。すると、
「お、おいおい……!」
御者が慌て始めた。どうした、と問い掛けようとした時、彼の口から答えが紡がれた。
「何でこんなところに魔物が……!?」
魔物――それを聞いて全身が強ばった。
魔力によって形作られる異形の総称。自然に発生し魔力の体を維持するために獣を食い、時に人間を襲う存在。場合によっては魔族――過去、世界を支配しようと戦乱をもたらした存在の眷属であるケースもある。
今回のは自然発生したもののはずだが……俺は御者台が見える窓で外を見た。慌てふためく御者と、馬車を引く二頭の馬。そして――街道を二本の足で爆走し、戦斧を握る人型の魔物。
「っ……!?」
その姿を見て俺は言葉を失う。人の数倍はある身長と横幅から巨体と形容していい。体躯は漆黒で覆われ、なおかつ鎧のような物を身につけているように見える。そして、頭部は……言い表すならば、獅子。獣の王を冠する獅子の頭を持っている。
そんな魔物が、逃げ惑う旅人や商人には目もくれず、俺達がいる場所へ向かっている……その姿は、まるでこの馬車が狙っているかのようだった。
御者は手綱を操作してどうにか逃げようとする。だが、
――オオオオオオオォォォォ!
魔物の咆哮だった。それにより馬の操作が効かなくなり、馬車がグラグラと揺れ始める。
もう逃げることもできない。俺は声を発することさえできないまま……ただ魔物を凝視するしかできない。
そして間近まで近づいてきた魔物は、俺が乗る馬車へ目がけ戦斧を振りかぶり――全てを破壊するべく、一閃。魔物が放った斬撃――それを見た瞬間、俺の記憶は飛んだ。
――次に意識を取り戻した時、地面に倒れ込んでいた。
「う……」
全身が痛い。だが五体が無事であることはすぐにわかったので、むしろ痛みだけで済んだ、と言えるだろう。
周囲を見回す。魔物による攻撃によって馬車は横倒しとなっていた……いや、それどころではなく上半分が吹き飛んでいた。
正直、助かったのは奇跡だ。魔物が馬車へ攻撃しようとする間に、俺は倒れ込み斬撃を回避。けれど衝撃で車外に投げ出されて地面に激突した……そして魔物は、破壊した馬車など目もくれず、俺へ視線を向けていた。
御者は――馬車を引いていた二頭の馬の内、一頭は平原を駆け逃げている。そしてもう一頭は街道を走り、馬上には御者がいた。
「……どうにか、逃げたのか」
俺を置いて逃げた、とは思わなかった。ただただ逃げてくれて良かったと思いつつ、俺は地面に剣が落ちていることに気付いた。
それを拾い上げ、抜いて構える。切っ先を魔物へ向けるが……威嚇にすらならないだろう。あの戦斧を剣で防ごうとしたら、剣ごと体が真っ二つになって終わりだ。
魔物が吠え、俺へ走る。あまりの迫力に恐怖を通り越して笑いがこみ上げてくる――それと共に、感じるものが一つあった。なぜ魔物は俺を狙うのか?
魔物の殺意は明確に俺を対象としているのが本能的にわかってしまった。ではなぜ俺を……答えは、一つしかない。
戦斧が放たれる。俺は必死の形相と共に体を動かして……姿勢を崩し尻餅をつきながらどうにか避けることに成功。けれど手に持った剣が戦斧を掠め――ギィン! と一つ音が鳴った。
腕にすさまじい痺れ。当たればどうなるのか改めて理解しつつ、俺は魔物を見た。その瞬間、
――オオオオオオォォォ!
再び雄叫び。身を竦ませるその威嚇行動に対し、俺の選択肢は一つしかなかった。
「っ……!」
立ち上がり、踵を返し逃げた。その背に戦斧が振り下ろされれば終わりだったが、魔物が攻撃するよりも早く、奇跡的に間合いから脱することができた。
逃げ込んだ先は森の中。必死に草むらをかき分けなだらかな坂を登っていく。その時後方で再び魔物の雄叫びが上がった。そして重い足音が鳴り響き、少しずつ近づいてくるのがわかる。
怖くて振り返ることはできなかったが、全力で走ると少しずつ音が遠くなった気がした。あの巨体では山を登るのも大変だろう……けれど、追いつかれるのは時間の問題だとも思った。
それでも俺は、必死に逃げる。再び魔物の咆哮が聞こえ、耳を塞ぎたい誘惑に駆られながら、足だけはひたすら動き続けた。