小さなジャンヌダルクの決断
『――なんであの子だけなんですか!? 絶対私の方が頑張ってるのに……!』
アイドル稼業が軌道に乗ってきた頃から、そんな類の言葉を何度か耳にしたことがある。
楽屋の外の廊下から。バラエティ番組のスタジオの裏手から。ライブの打ち上げ会場のどこかから。時にはあたしの目の前で。
初めは……そう、事務所の都合で他の所属の子と組んだ期間限定ユニットが、その期限を待たずして解散させられた時だ。業界内では比較的仲のいい方だったし、本格的に誰かと組むのは初めてだったから、珍しく熱が入ってしまったのを覚えている。
彼女が誰に何を言われたかなんて知る由もない。ただ所詮はこういう結果になり得るものだということも、そもそもが事務所都合であることも忘れて楽しんでいたのはあたしたちで、壁越しにぼやけて聞こえた怒りの声に、あたしはむしろ目が覚めるのを感じた。
世の中そう簡単に折り合えるものじゃない。あたしと彼女がじゃない。あたしと彼女を取り巻く環境が、あたしたちが躍動する世界そのものが、一筋縄ではいかない問題を連れてきてあたしたちを振り回すのだ。例えば……「スケジュール合わなくて、また歌番とロケで分担してもいい? 歌は綺羅めくるに任せて!」とか。
彼女は元々歌が好きで、歌で売り出していこうとしていたというのを、解散したあとで知った。しかし当時のあたしにとっては些末な問題だった。生き残ったのはあたしだ。そんなことも知らない薄っぺらな関係だったなら、ユニットがどうなろうと気にする必要はない。一人のアイドル、綺羅めくるに戻っただけ。これで自分の活動に集中できる。
本気でそう思っていた。あたしがそうしてきたように、いずれ自分自身が蹴落とされる立場であることも知らずに。
◇
「ももこ、大丈夫?」
「えっ」
覗き込んできた新田の顔に思わず声が裏返った。
「なんか難しい顔してたよ。お腹空いた?」
「あー、いや……全然空いてない」
「本当? お弁当食べる?」
「いや楽屋で食べてるの見てたでしょ。ていうか誰が食べるんだよ、そんなところから出した弁当」
そっかぁ……と困った顔で弁当を懐にしまう新田。面倒くさいのでもう何も言わない。何も言わないがなんなんだその懐。
「眉間にシワ寄りまくりでしたよ。サングラス越しでもわかるくらい」
頭上からのいけ好かない声。こっちも反応するだけ付け上がるので何も言わない。
微塵も心配する気のない、緊張感皆無の顔であたしを見下ろすこの男こそ、レインダンスの黒一点(?)、百瀬潤その人である。まあ、行きつけのただのバイトである。
あたしの知る限り、この男も恐らく新田と同じ類の人間だ。新田の下位互換と言ってもいい。いや、新田がこの男の上位互換と言うべきか。うんざりするほど優柔不断な点を除けば、あたしへのこのクソ生意気な態度がまさに瓜二つなのである。どこかのタイミングで一発殴っておいた方がいいかもしれない。
「あんたも偉くなったものね。こんな祭りで気合い入れちゃって」
「いやあ、まあ、僕も今やレインダンスのNo.2ですからね」
「別に褒めてないからね」
満足気な態度がまたいけ好かない。が、レインダンス代表として来ている自覚は強いようで、勤務時と変わらないエプロン姿にそれが表れている。たぶんこういうバイト戦士の中でも特に意識の高い方だ。知らんけど。
聞いていた打ち合わせというのは、どうやらあたしが思っていた、会議室でああだこうだのすったもんだがあるようなものではないらしい。会場の一画、商店街のアーケードに沿って並ぶ屋台の中で、あたしたちはスタッフによるチェックの順番待ちをしていた。
「ねえ、お祭りっていつやるんだっけ」
「二週間後です」
「ふーん……」
アーケードを見渡してみる。夏晴れを遮るアーチ型の屋根の下、明るい色調の小綺麗な木製屋台がざっと十数軒、商店街の中心に集まっている。人通りは少ない。駅から一番離れたここからでも、駅に一番近い一画で担当者と話すスタッフの笑顔がよく見える。
悪い意味で予想通りだ。つまりは二週間もの間、ど真ん中にこうして屋台を置いていても問題ないくらいの状況なのだろう。もとよりシャッター街だったわけだし。むしろこのくらいの規模でも開催にこぎつけたのは素晴らしいと思う。
とはいえ。
「あ、またシワ寄ってますよ」
暇を持て余して屋台の飾りつけを始めた潤が、またにやにやしながら指摘してくる。
「うるせぇ。新田、そろそろ行くわよ」
「え、まだ来たばっかりだよ」
「そんな油売ってる時間ないでしょ。邪魔したわね、潤」
「えぇ〜、急にどうしたの〜」
慌てる新田と呆ける潤を置いて、あたしは踵を返した。
時間ならある。もともとレインダンスに行くために時間を取ったんだから。こんなところに連れ出されていなければ、夜の予定までカフェオレを飲みながら時間を潰すつもりだった。
何が耐えられなかったのかと言われれば、正直上手く言語化できない。だがこういう光景を見るのは久しぶりで、慣れるものではないのだなというのを、震える指先に思い知らされる。灰色の背景に浮かぶあたたかな色の屋台が妙に目を刺激して、いつまでも視界の中に映り込んで離れない。
あたしには関係ない。そう言い聞かせるだけ。
と、その時、
「あれ? アレぇ〜!? もしかして綺羅めくるさんですかぁ!?」
胃もたれしそうなくらい陽気な声に引きとめられた。
立ち止まり、振り向くと、色黒で金髪、なんかよくわからないくらいツンと上を向いたヒゲをたくわえ、Tシャツ短パンに身を包んだチャラ男が、真っ直ぐにあたしを指差していた。
「……ちょっと、あんまり大きい声で――」
「マジっすか、あの超絶怒涛の大人気アイドル、綺羅めくるさんっスかぁ〜!? マジホンモノじゃないっスか! 激ヤバっスね!」
「……」
……ほう。
「よし、準備できたよ……って、あれ? 行かないの? ももこ?」
「……ねぇ潤。アイドル稼業を続けていく上で欠かせないことが三つくらいあるんだけど、何かわかる?」
「くらいって、そんなアバウトなんですか」
「ひとつは練習。ひとつは確定申告。そしてもうひとつは――ファンサよ」
◇
「騙された! やっぱ帰る!」
「ちょっとももこさん! ただの見た目通りミーハーなチャラ男だったからって拗ねないでください! こんな人でもちゃんとももこさんの名前知ってくれてるんですから!」
「ちょ待ー! なんかめっちゃディスられてないっスかぁ〜!? 手厳しいィ〜!」
走り出そうとするあたしを潤が羽交い締めにしてくる。この適度に可愛らしい小さめの身長が今回ばかりは恨めしい。
潤曰く、この男が商店街に新しくオープンしたスイーツ店のオーナーで、行列ができるような店を都心でいくつも運営しているやり手らしい。スイーツじゃなくて海の家の間違いでは? とも思ったのだが、潤の口振りからしてどうやら本当っぽい。……なんか、ムカつくな。
「いやー、ウワサには聞いてたっスけど、まさかマジでレインダンスさんの常連さんだったとは。しかもこんなとこで会えるなんて。驚きっスねぇ〜。やっぱり芸能人はオーラがレベチだわ。なんか変装してても意味ないみたいな? ウケる〜。あ、今日はお手伝いっスか?」
そしてうるせぇ。
何故か勝手に屋台の中に入ってきているし、何故かそれを誰も指摘しないし、それどころか何故かつられて笑っていやがる。どういう状況なんだこれは。
潤の手を振りほどき、「どうにかしろ」と目で訴える。しかしわざとらしく目を逸らしたので、ひとまずサムズダウンしておいた。レインダンス代表として来てるんじゃねえのか。
「いやマジ、生の綺羅めくるさんと会えたってだけでこのフェスやる価値あったっスわ! やっぱオレ持ってるわワ〜」
やばい、面倒くさすぎる。あたしのタレントセンサーが「こいつは関わっちゃいけない」とアラートを鳴らしている。やっぱりさっさと帰ればよかった。
……ん?
「フェス、って……。このお祭り、商店街が主催じゃないの?」
「ファ? あー、まァ商店街っスよ。オレが提案したんで、ほとんどオレが取り仕切ってるっスけど。あっちで屋台をチェックしてるスタッフもウチの従業員だし」
男はただへらへらとおどけて言うだけだった。
「商店街っつっても、開いてる店なんてほとんど無いっスからね。特に調整することもなく、『フェスやりてぇ!』って言ったら『勝手にやれば?』みたいなカンジだったんで、じゃ勝手にするわ〜、みたいな?」
「いや、ノリが過ぎるでしょ……」
「そりゃノリでいくっスよ〜。ここオレの地元っスからね。地元が盛り上がってないのはやっぱサガるじゃないっスか。てことで、天才オーナーのオレが一肌脱いじゃおっかな、的ナ?」
フゥゥゥ! と意味不明な奇声を発しながら語る男の顔には何の迷いもない。言ったことがそのままこの男の意思であると、表情が物語っている。
なんだそりゃ。
見た目によらず、随分お人好しな男なんだなと思った。商店街も名前と場所だけ貸してほとんど関与しないのに、わざわざ外からも出店を募って屋台を出してもらう。しかもレインダンスを含め有名店の看板につられた店ばかり。どいつもこいつもおんぶにだっこだ。どう考えたって一店舗が取り仕切るのでは割に合わない。
それを、この男は「地元のため」と言う。
不満のかけらも感じさせない。そうすることがさも当たり前かのように。それが違和感でしかなかった。
……いや。
どうしてこんなに気にしているのだろう。別にあたしには何の関係もないことなのに。
「てか、レインダンスさんが参加してくれるのマジ助かるっス! 有名なお店に協力してもらえるとマジ集客爆アガりっスからね〜!」
「「いやあ、それほどでも」」
「なんであんたたちが自慢げなのよ……」
「アッ、そうだ。ちょっとモノは相談なんスけど……」
男は期待を込めた目であたしを見た。
「今回のフェス、ご当地アイドルやらバンドやらを呼んでミニライブをやってもらうんスけど、綺羅めくるさんもよかったら出てもらえないっスかね?」
「……は?」
予想の斜め上の提案に、サングラスがずり落ちた。
「もちろん無理にじゃないっスよ、出演料も払いますし。でも、今度あの『歌ウ蟲ケラ』のミオタから楽曲提供してもらうんスよね。ニュースで見ましたワ~、マジヤバすぎ。ノリすぎて海苔になっちゃう、みたいな? そんなノリにノッてる綺羅めくるさんが協力してくれたら、絶対ブチアガると思うんスよねェ〜」
軽い口振りなだけ。冗談に感じない。
業界の偉い人間を相手にしているみたいだ。ただ他の誰かと違うのは、本気さの中に純粋さがあること。きな臭い背景がない。絶対的でただひとつの目的のためにあたしを誘っているのだと、あたしを見る薄いカラコンの瞳から伝わってくる。
だが、
「申し訳ないですが、この場ではすぐに決められないので、持ち帰って検討させていただきます」
あたしが言うより先に、新田が答えた。
「あー、了解っス。ま、そっスよね〜。イケそうなら連絡もらえるっスか。これ、オレの名刺っス」
チャラ男も思いのほかすんなりと受け入れ、そそくさと新田に名刺を渡す。
「じゃ、オレ他にも回らないといけないんで、ここでバイバイさせてもらうっスね。レインダンスさん、当日はよろしくっス。それと――」
男は出ていく間際、またあたしを見て笑った。
「活動頑張ってください。オレも従業員も、綺羅めくるさんのこと結構応援してるっスから」
◇
「――で、出演するかどうか迷ってるわけだ。かわいいねぇー」
大きな体格のせいで余計に小さく見える丸椅子に座った山田美桜――ミオタニアンが、ギターを抱えたままガハハと笑う。
飛ぶ鳥を落とす勢いのロックバンド『歌ウ蟲ケラ』のギターボーカルである彼女とは、贔屓にしてくれているプロデューサー経由の付き合いだったが、性格が似ていることもあって自然と交友を持つようになった。それが高じてなのか、作詞作曲もできる彼女が「曲作ってあげてもいいよ」と言ったのがきっかけとなり、今では週に一回、あわせと無駄話を兼ねてこのレコーディングスタジオに集まっている。
「……」
「……あれ、何? 珍しくガチ悩みって感じ?」
にやにやと顔を覗いてこようとするミオタを無視して、マイクと水を持ち替える。
本来こんなことを相談する相手じゃないのはわかっているが、あのチャラ男から誘いを受けた直後ということもあったのか、何故かするりと口から出てしまった。
「うじうじしてないで、出たいなら出ればいいじゃん。スケジュール空いてるんでしょ?」
「……まあ」
「あ、もしかして『あたしがそんなショボいライブ会場で歌うと思ってんのか?』とか思ってる? そりゃあんた、アレだね、大自惚れだね」
「はあ? そこまでプライド高くないわ! あんたじゃあるまいし!」
「あァ!? んだとゴルァ!?」
「あァん!?」
「……」
「……」
押しつけた額を離して、揃って息を吐く。
「まあ、どっちにしても、やる気があるならやった方がいいと思うけどね。こういうのは特に。あんたが何に悩んでるのか知らないけどさ」
「……ちょっと、心配っていうか」
ずっと考えていた。新田の社交辞令に同調したわけじゃないし、ミオタの指摘が当たっているわけでもない。誘ってくれたことは純粋に嬉しかった。だが嬉しかったからこそ……頭の中でぐるぐると巡る思考と感情を整理すればするほど、その感想に行き着く。
「あの男のあの熱量に応えられるライブを、あの場所でできるかわからない」
見た目なんてただの第一印象に過ぎなかったな、と正直に思う。地元のためというだけで、あの商店街のがらんとした中心で、あそこまで献身できるなんて、手放しで賞賛できることに違いない。
だからこそ、あたしには理解できなかった。
どうしてそこまでするのか。献身した先に何があるのか。そもそもそこまでする必要があるのか。
訥々と湧いてくる疑念を咀嚼して、やっと違和感の正体が見えてきた。――恐いんだ。
あたしは恐い。あの男の姿がまるで昔のあたしを見ているようで。空虚なあの商店街で、やんごとない事情に絡めとられ、強く持っているその芯をするりと呑まれてしまうことが、恐い。
指先が震える。
まずあたしでは思いつかないことを行動に移すこと。それを真っ直ぐ信じて疑わず突き進むこと。このモヤモヤはきっとあの男に対するリスペクトでもあるのだと思う。あたしがあの男の立場だったら、そんな慈善事業のようなことはしないし、できるとも思わない。だからあの男の意気込みに応じられる自信がない。
ああ、ダメだこれは。
あたしは思ったよりも、過去を割り切れていないらしい――
「やっぱ大自惚れだわ。しょーもな」
これ以上ないくらいムカつく顔で、ミオタが吐き捨てた。
「なっ……!」
「あのさ、私らがやってることって結局サービス業だから」
まるで手持ち無沙汰ですよ、とでも言いたげにギターの弦を調整し始める。
「そもそも見る方向が違ってんのよね。あんた、誰に何を提供できなくて悩んでんの?」
ミオタのその刺々しい言葉が少しだけ頭の中を揺らした。
「私たちはサービス業なんだから、私たち自身を観客に売ってご飯食べてるわけよ。応えるだの応えられないだの、そんな内輪のことは観客には関係ない。求められるもの以上を観客に与え続けるのが私たちの仕事なんじゃないの」
「……でも、そんな上手く割り切れないっていうか」
「あんたはもうそういうレベルにはいない。いちゃダメだよ」
調整し終わったギターをいそいそとケースにしまう。
「あんたもプロでしょ。たった一人でも観客の熱が届いてるなら、それ以上のものを返さなきゃ。もうあんたの『自分のために頑張れば売れる』時代は終わったんだから」
「……」
「ま、そういうお子ちゃまな考えをしてる娘にゃ、曲なんか書きたくないわな。じゃ」
求められるもの以上を与え続ける。
何も言えなかった。あたしたちの存在理由なんてそれ以上でも以下でもないのに。そんな簡単なことなのに。
きっと勘違いしていた。頑張れば報われる。やんごとない時期もある。自分の活動に集中する――そんなステージは、もうとっくに通り越していなければならないのに。そういう事情をすべて一緒くたにしても、見るべき方向はただひとつだけなのに。
「……ミオタも頑張ったんだ」
ドアに手をかけたミオタが振り向かずに答える。
「そりゃ頑張ったよ。絶対売れてやると思ってたからね。だから今、売れ続けるために、観客のために頑張ってる途中。――プロだから」
そう、あたしはプロだ。
プロとして観客の前に立つ義務がある。
プロとして『綺羅めくる』という偶像を提供し続ける義務がある。
誰もが思う『綺羅めくる』を、誰もが思う以上の『綺羅めくる』にしていきながら。
――パチィン。
「……ありがとうミオタ。また来週ね」
叩いた頬をさすりながら、あたしは新田に電話をかけた。
「あ、もしもし新田? 今日のチャラ男のことなんだけどさ――…………は?」
「ん?」
あたしの間抜けた声に振り返ったミオタと目が合う。
『――てことだから。とりあえず明日詳しく話すね。じゃあね』
ブツっ。ツー、ツー。
「え、何? クビにでもなった?」
「……決まった」
「えっクビが?」
「…………メテオ、シャワー、フェス」
「……マジで?」
やっぱり、やんごとない事情というのはあるかもしれない。