がん ガリガリガリ
就業時間を大幅に過ぎて、片手運転で眠い目をこすりながら、居酒屋に立ち寄った。出勤用の小さなイヤリングを小箱の中にしまって、カバンの中に入れる。
もういつから通い始めたか忘れてしまったけれど、この辺りでのお気に入りの和食の店を、この店に決めてしまった。鶴の絵が描かれている暖簾を手のひらで押して、木枠の扉をからりとあける。
「いらっしゃい。」
声をかけてくれる、老齢のおかみさんは手ぬぐいで手を拭きながら私のことを迎えてくれた。私はカウンターに座ると、
「絹子さん、最近だいぶ寒くなりましたね」
と声をかけてくれる。
「そうなのよ。だけど会社がケチだからさあ、カイロを使わないと暖を取れない程度にしかエアコンを入れてくれないのよ」
おかみさんはひじきの煮物を四角い小鉢によそってくれて、熱いおしぼりと一緒にテーブルに置いてくれた。とりあえずビールを頼む。
崩した文字で書かれたメニュー表を見ながら何を頼もうか考えているうちに、別の女性客が入ってきた。目の下にクマを作ってぼんやりと店内を見ている。その女性は首元のネックレスを親指でいじりながら店内を見回す。奥の掘りごたつの席の、男ばかりの席に手招きされたのに気付き、「はふ」と愛想笑いをうかべてその席に駆け寄った。
「いらっしゃいませ」
おかみさんはひじきの煮物と熱いおしぼりを一緒に持って行く。男たちは黄色い歯をむき出しにしながら大きな声で笑い声を立てては、目の下にくまを作った女性の肩に手を回して、最近キャバクラでシャンパンタワーを頼んだことをその女性に自慢していた。
私は一瞥すると、メニュー表に目を戻し、その中からお刺身と揚げ物をふたつ頼んでビールをグラスの半分ほど喉に流し込んだ。
「帰り道にある店じゃないのにいつもありがとうね」
「おかみさんのごはんがうまいから」
「あら嬉しい」
おかみさんの包丁がさくさくと人参を飾って切る。奥の席に聞こえないように声を落としたのを読み取って、おかみさんも耳を近づけた。
「あのお客さん」
「ん?」
「うちの社長そっくり」
「そうなの?市の職員さんらしいけど、あなたを紹介する?」
「やめてよ、ご飯がおいしくなくなっちゃう」
ビールからチューハイに移る頃には、お皿の上のお刺身もなくなっていた。
掘りごたつの方にいる客は、シャンパンタワーの男がクマの女性へしきりにエリンギの天ぷらを食べさせようと交渉に奮闘している。残りの二人の男はニヤニヤしながら揚げ出し豆腐を口に運んでいた。
会社から家までは大谷通りに沿って15分程車を運転させれば到着する。だけど、途中を左に曲がって裏の通りを走らせる癖がついて、赤信号で交差点へ止まっているとき、大きなビルの合間に詰め込まれたかのようなこの店を見つけて以来、常連である。
でも、正確にはもっと前からこの店のことは知っていた。見たのではなく、祖父から聞いていたのだ。祖父もまた、この店の常連だった。
市が管理している公共施設の環境を整える仕事を再雇用され、こなしていた祖父は、毎週金曜日の夜になると、自分の年金からいくらか出してこのお店に通っていた。その帰りを迎えに行くのは私の母の役目だった。その時小学生だった私は、店の名前だけは耳に残っていたのだ。
一度、祖父が仕事をしているのを偶然見たことがある。
「いい子に待ってなさいね」
私の母は土曜日の朝になると大きい公園の駐車場に車をとめて、私を車から出すことなく自分だけ車から降りてどこかへ去っていく。
「はーい!」
母親から駄菓子をもらって上機嫌の私は爪の白いところの綺麗さを気にして、時々ハンカチでこすりながら母親の帰りを待っていた。
今思えばどこに行くのかを聞いておけば良かったのだが、それを聞くのは子供の領分ではないと勝手に思い込んでしまって、母親の帰りを待っていた。
春といえども、太陽の角度が上がってくれば、だんだんと車内の温度も上がってくる。寒がりだった私の額に脂汗が浮かぶ。頭がぼーっとして、だんだんと眠たくなってきた。夜更かしをしたわけでもないけれど、まぶたがだんだん下がってくる。シートベルトをつけたまま、窓の外を見ると、祖父が木の剪定をしていた。無造作に伸びた木の枝を、道にはみ出ないように四角く切っていく。それが済めば、今度は芝生を子供の靴が隠れずに見ることができるような長さに芝刈りをしていた。家に居る時の祖父とは違って、眉に力を入れて働く祖父の、背中の筋肉の隆起を、この力の作用が家を支えているんだなあ、などとぼんやり考えた。
どんどんと音がする。誰かが窓ガラスを叩く音だ。いつの間にか目をつぶっていたらしい。けれどまぶたが重たい。体の下に手を入れて眠っていた時のように薬指の先に力が入らず、そしてほのかに痙攣している。
「おい、絹子、おい!」
大きい声だけれども遠くで聞こえてる気がする。どんどんと窓をたたく音から、ガンガンという音に変わった。手のひらではなくて拳かもしれない。
「ちょっと待っていろ!頑張るんだぞ!」
そう言って、声が遠のいていく。
「おじいちゃん、おじいちゃん」
自分でも呼びかけているのか、ただ呟いているだけなのかがわからず、ただ祖父が来るのを待っている。
車の中は淡々と温度あげて、座席のシートから吸い込んだ湿気を蒸発させる。
がん ガリガリガリ
音がやむと、部屋の中の湿気が飛び出した。か細く外に暖気がにげたのを肌で感じることができるようになると、ようやく目を開けることができた。
「絹子、暑くないか、意識、気持ちはちゃんとしてるか!」
私はゆっくりと体を起こすと、窓の下のハンドルをぐるぐると回して、ようやく涼しい熱気を車中に取り込むことができたのだった。
窓から祖父以外の痩せた細い腕がドアノブを引いて、ドアが開けられると、複数のおばあさんが固く絞ったハンカチを体に押し当てた。
それから先は、複数人の老人たちが口々にしゃべるので、うまく聞き取ることができずに、ただ老人達の腕のなすがままに体を預けていた。
「お母さんと一緒じゃないのか?」
「どっかいった」
「どこかって、どこに?」
「おい、どこに行ってたんだ!」
眉をひそめた母親が帰ってきて、祖父に腕をつかまれて、問いただされている。
「銀行よ、何?意味わかんない」
「あんた、子供が死ぬところだっだのよ」
「え?」
「見てわからんのか!」
そこでようやく、母は汗をかいてぐったりした私に気がついたらしい。しばらく誰も何も言わなかったが、何を娘に言うべきかよく考えて、
「お利口さんに待ってた?」
と聞くのと同時に、輪ゴムで束ねられた駄菓子を差し出すので、私はそれを力なく受け取った。
祖父のドリルはその時に壊れていたらしい。しばらく家に持って帰っていたのを考えると、多分、祖父は会社の備品を買い取ることになったのだろう。それから金曜日にお酒を飲むことは無くなった。
修理をした後そのドリルは、庭にいくつかの穴を開けては何も植えることなく、それから2年後に彼の仏壇へ供えられることとなった。
気がつけばチューハイももう三杯目だ。大分脳と意識に乖離が起きている。さあ、そろそろここらが潮どきだろう。
「ねえ、そろそろお勘定お願い。あと、運転代行も頼める?」
おかみさんはこくりと頷いて、領収書と水を持って来てくれた。しばらく待って、そろそろ運転代行が来ると知らせてくれたので、代金を支払った後にお店の外へ出た。出る前にちらりと店の奥を見たが、クマの女性は男たちにぴったりと体をくっ付けられて、姿は見えなかった。
店の外にでると、晩秋の風が衣服に入り込んで皮膚をすりこぎ、いやになった。
駐車場に行くが、代行らしい人はまだいない。辺りを見回していると、一台の車の中に一点の明かりが灯っていた。あの発色は携帯ゲーム機の画面だと分かる。画面の明かりに照らされて、幼い男の子がその画面をじっと見つめていた。
運転席に大人はいない。ただ、男の子だけが後部座席でシートベルトをしてじっと画面を見つめている。
がん ガリガリガリ
耳の奥でその音が鳴る。記憶から呼び起こされた幻聴が、静かな夜に反響して頭を揺らす。ヒールで走りにくいのをひたすらに耐えて、その車に近づいた。男の子は私が近づいているのに気づいていない。どんどんと窓を平手で叩くと、男の子は眉をひそめて私を見た。私もまた男の子のことを見て、窓の下を指差してくるくると輪を描いた。
「ねえ、ちょっと、大丈夫?君!」
男の子は画面を消して、伝わらないジェスチャーに脳と意識を乖離させながら私を見る。私はカバンの中を漁って、イヤリングをしまってある、小箱の硬さを指の腹で確かめた。
その小箱を振り上げたとき、
「そこで何してるんですか!」
と大きな声がした。
「みてわからないの!あんた、子供が死ぬところだったのよ!」
目の下にクマを作っている女性が眉をひそめて私を見る。暗がりでもわかるほどにファンデーションはベタベタに、口紅もあごの方に伸びて汚れていた。
女性はびっくりして車の後部座席をのぞきこんで、
「別になんともないじゃないですか」
そう言って私を睨んだ。睨んでいながらも、男の子には何も言わない。ただ、待たせ続けている。
「そう、それならいいのよ」
「離れてください、その、車から」
クマの女性は急いで車に乗り込んで、その場から去っていった。最後に見た男の子は、たった今もらった、ハッカの飴玉を口の中で転がしていた。
そう、別になんともないならそれでいいのよ。彼の心の中もなんともないなら。きちんとあるべきものが心に与えられているなら。
「あー、絹子さんですか?」
眠たそうな男の声で、自分の名前を呼ばれた。暖かそうな灰色のフリースを来た、瘦せこけた老人男性がそこにいる。
「あー、私、代行のものです」
爪の先を順番に撫でながら、私の反応を待っている。
「ああ」
車の鍵をカバンの中から出す。イヤリングの小箱は隅に詰めた。
「私です」
車に乗り込んだ私達は、しばらくお互いに黙っていた。運転手は私の言葉を待っているのだと、
「あの、それで、どちらまで?」
と声をかけられるまで思い至らなかった。
「そうね。……とりあえず、ちょっとだけ、寄りたいところがあるの」
「はあ、いいですけど。どちらまで?」
「そこの角を右に曲がってくれる?それで、大谷通りに出て。出たら近くにパチンコ屋があるから、その隣の大きな公園に」
運転手は返事をしないで、車のアクセルを踏んだ。耳の奥で鳴る、ドリルの幻聴はエンジン音に負けず、公園に着くまで反響していた。