在りし日
ようやく報告書を書き上げ、ジャック・ハモンドはふと時計を見る。
針は既に夜の十時を回っていた。
今夜も泊まってしまう方が良いかもしれない。
欠伸を噛み殺しながら、彼は気分転換にラボを出た。
既に一般の職員達は帰宅し、残っているのは自分くらいだろう。
廊下の暗さも手伝って、たった今やり終えた仕事に空恐ろしさを感じ、彼は思わず身震いする。
肩をすぼめながらロビー兼休憩所へ向かうと、ぼんやりと明かりが漏れているのが目に入った。
まさかこんな時間に。
非科学的な思いが一瞬、彼の脳裏をよぎった。
意を決して角を曲がると、そこには他でもない、彼の同期の姿があった。
「……エド? まだ残っていたのか?」
お前さんは技術方だから、こんなに遅くまで残っていなくても、と言いながら近寄るジャックに、エドワード・ショーンは穏やかに微笑みながら片手を挙げた。
「君たちが苦労しているのに、僕だけプログラムを上げたから失礼しますともいかないよ。ただ、ちょっと気になってね」
今までのデータを見直していたら、この時間になった。
そう言ってエドワードは苦笑した。
こうして笑うと、日頃のどこか近寄り難い雰囲気は影を潜める。
もっとも、その表情をめったに見せることはないのだが。
「気になるって……お前さんでもそんなことがあるのかい?」
「ああ、恥ずかしながらしょっちゅうだよ。情けない限りだけどね」
言うと、エドワードはわずかに眼鏡をずらし、目頭を押さえる。
それからジャックに向き直った。
「……どうしたんだ? 急に改まって」
「申し訳無いけれど、今回のNo.3……サードの件、完全な成功とは言い難いかもしれない」
穏やかな口調だが、厳しい言葉がジャックの背筋を滑り降りていく。
少しの間を置いてから、エドワードは静かに続けた。
「A.I.チップのプログラム自体にはまず問題は無いと思う。けれど、材質と大きさ。それと移植位置の問題だな。最悪、このままでは……」
「彼は、目覚めない?」
ジャックの問いかけに、エドワードはゆっくりと首を横に振った。
「目覚めるとは思う。でも、第一目標の『生前の記憶保存』と言う点では疑問符が付くな。かなりの広範囲に細胞を壊している可能性もあるし……今後彼が長期間生存した場合、何らかの不具合が生じると思う」
「……やっぱり、自分らがやってることは、絵空事に過ぎないのかな」
天井を見上げつぶやくジャックに、エドワードは穏やかに言った。
「いや、誰しも一度は望むことだよ。……ニコライのは少し、度が過ぎているかもしれないけれど」
「ニックか……。やっぱり、お嬢さんの具合、良くないのかな?」
「もし自分が同じ状況に置かれたら、と思えば、解らないことも無いけれどね……それよりも」
ふと、エドワードの顔に悪戯っぽい笑みが浮かぶ。
嫌な予感を感じ、ジャックはわずかに身を引いた。
「君はどうなんだい? ジャック」
さらに続きそうな言葉を、ジャックは両手を挙げて遮った。
「勘弁してくれよ。とてもじゃ無いけれど、今は自分以外の面倒までみられないよ」
心底辟易しているジャックに、エドワードは珍しく声をたてて笑った。
対するジャックは憮然とした表情を浮かべながら答える。
「……いや、冗談で言ってるんじゃなくて、自分にはその資格は無い。それだけさ」
「ごめん。ちょっと悪のりしすぎたかな。じゃあ僕はそろそろ戻るよ」
あまり根をつめないように。そう言い残してエドワードはその場を後にした。
その後ろ姿を、何か言い知れない不安を感じながら、ジャックは完全に見えなくなるまで見送っていた。