5
ベンチに腰をおろし、レイズとティナは並んで空を眺めていた。
相変わらず湿気がひどく、身体が汗ばむが、それでもこうして日陰でぼんやりしている分にはそれほど過ごしにくいということもない。
さすが、旅の中継地点としてよく利用されるだけあり、町のはずれには馬車の停留所が建てられていた。質素な造りだが、広いスペースのなかにはにいくつか石造りのベンチが置かれている。レイズたちの他にもう一人、大きな荷物を抱えた男が、腰をおろして分厚い本を読んでいた。
「リライヴさん、遅いですね」
沈黙に飽きたのか、ティナがぽつりともらす。ええ、とレイズはうなずいた。
どこまでも乱れを好むあの男のことだ──嫌な予感は、ある。とはいえ、こんな小さな町で、こんな時間に、まさか……とは思う。思うのだが、充分に考えられる事態だ。自分の想像に嫌気がさして、レイズは戒めるように首を左右に振った。
レイズは、ベンチの端でずっと本を読んでいる男に、何気なく目をやった。真っ白の法衣に身を包み、どこかで見たことのある紋章を首から提げている。なんだっただろう、と考えていると、男が視線に気づいて顔を上げた。
「あ……、こんにちは」
目が合ってしまったからにはそのまま逸らすこともできず、会釈をする。傍らでティナもぺこりと頭を下げた、
「こんにちは。旅の方ですか? どちらに?」
本を閉じ、男は微笑んだ。一瞬警戒するが、他意はなさそうなので、レイズは正直に答える。
「ええ、デリキアスまで」
「ほう、デリキアス。あそこは大きな町ですからね。でも……良くない噂も聞きます。お気をつけください」
男は首から提げた紋章を手に、祈るようなポーズをとる。十字架の中央に宝石があしらわれた、銀色の紋章だ。
「あの……失礼ですが、その紋章……」
「ああ、これは失礼、私はセント・シードの者です。これから、薬草を持ってセイランに」 レイズは、ああ、と納得した。最近信者が増えている、新興宗教のようなものだ。確か、自然主義、麻薬撲滅をスローガンにしている。
セイランという名に、ティナがぴくりと反応した。「パパ」が死ぬまでは、自分が行くはずだった町だ。
「あの……セイランって、どういうところなんですか」
緊張を露わに、か細い声でそう問うと、法衣をまとった男が優しくティナの頭を撫でた。
「そうだね……お嬢ちゃんは、行かない方がいいかもしれない。たくさんの人が働いている、労働者の町だよ」
レイズは眉をひそめた。
「薬草を持っていかれるというのは……?」
「ああ……ご存じないですか? あの町は、随分前から中毒者の巣窟になっていますから……一年ほど前にセント・シードが教会を建て、中毒者も以前よりは減りましたが。それでも、やはり、まだまだですね」
男が、白い大きな布袋をさすり、自嘲気味に笑う。大変ですね、と当たり障りのない返事をし、レイズは思考をめぐらせた。
ティナはどうしてそのようなところに連れて行かれようとしていたのか。どうして父親はそれを阻止しようとしたのか。わからないことだらけだ。
「それに……」
男は声をひそめ、そっと身を乗り出した。
「セイランに麻薬を流しているのはデリキアスではないか、という噂もあります。場所も近いですし……デリキアスの領主は金に汚いといいますから。あそこに行かれるなら、くれぐれもお気をつけくださいね。薬は恐ろしい。興味で手を出せば、抜け出せなくなりますよ」
レイズは曖昧に笑った。そうこうしているうちに、セイラン方面へ行く馬車が現れ、男は簡単な挨拶を残して、馬車に乗り込んだ。
「……なるほどね。セイランにはセント・シードが入ってるって話は本当らしいな」
一連の話を聞いていたらしいリライヴが、レイズの隣に座った。足を組み、無遠慮に欠伸を漏らす。
「リライヴ……遅かったですね?」
目を細め、低い声を出すと、リライヴは肩をすくめてみせた。
「なんだよ、ゴキゲンななめか? 男のヒステリーはみっともねえぞ」
「どこに行っていたんですか」
「情報収集」
リライヴは、こちらを見上げているティナをちらりと見て、レイズの耳に口を当てた。
「――コイツを追っている奴に会った。デリキアスの領主に雇われてるらしい」
ぴくりと反応し、しかし隣のティナに気取られないよう、レイズはそのまま視線だけをリライヴに向ける。リライヴは満足そうに笑み、肩をすくめてみせた。
「このガキのこと、なんていったと思う。笑えるぜ。ティナは、セイランのセント・シードから送られた刺客だってよ。デリキアスの領主を殺すためによこされたんだってな。要するに、ティナを追っている奴らってのは、それを阻止するために、デリキアスの領主に雇われたってことだ」
「刺客?」
思わず大きな声を出して、レイズは慌てて声をひそめた。
「ティナが、デリキアスの領主を殺すなんて、何を馬鹿な……こんな小さな子が、どうして刺客なんですか」
「知るかよ」
リライヴとレイズは、不思議そうにこちらを見ているティナに目をやる。十一歳という年齢に偽りはないだろう。多少サバを読んでいたとしてもたいした問題ではない。刺客が務まるほど、特殊な訓練を受けてきたようにも見えない。何よりも、自分たちに必死に護衛を願い出たあの姿が、偽りだとは思えなかった。
「あー……」
リライヴは大仰にため息をついた。
「めんどくせえことになりそ」
レイズも否定はできず、ため息をもらす代わりに、ティナの頭をぽんと撫でた。
「ガキは抱かない主義、ですって! あれだけ、あれだけやっておいて、失礼しちゃうっ!」
気配を消して、ティナを監視していたキーア=リリィの努力は、大声で不平をもらしながら現れた妹によって藻屑と消えた。
「……そんな大声では、気づかれるぞ。いいのか?」
「いいのよ。どうせ気づいてンだから。泳がされてんのよ。まったく、バカにしてるわ」 バカにされているとわかっていて、それでも気がついたら、情報を提供してしまっていた。向こうの方が何枚も上手だ。アリスが憤然と髪をかき上げる様子に、キーアは一抹の不安を感じ、妹を凝視した。
「……まさか、いいように情報を吐かされたか?」
ごほっ、とアリスが咳き込む。何故こういうときだけ鋭いのだろう。まさか衣服に乱れがあっただろうか……慌ててチェックして、それから少しだけ頬を赤らめながら、アリスは姉の視線から逃れた。
「ぜ、ぜんぶはいってないわ。あの子が刺客だってことまでしか……」
「刺客? ……刺客か。なるほどな。いっそすべて暴露した方が、向こうも手を引いてくれたかもな」
「…………」
アリスは、その可能性に思いを巡らし、慌てて首を振った。
「だめよ、それだけは。トップシークレットでしょう? それに……癪っ。あのすかした顔に、ぎゃふんといわせたいわ」
はいはい、とキーアはやりすごす。そもそもこの妹のやることに、それほど口出しをするつもりはない。
「それで? アリスに情報を吐かせるほどの奴らを敵にまわしてでも、仕事を続けるのか?」
アリスは、少し考えるような仕草を見せた。
「そうね……姉さんは、このままあいつらの監視を続けて。ミスターガリエンに近づくようなら、何とか阻止してほしいけど……。このままじゃ納得いかないから、アタシはセイランに行ってみる」
「セイラン? どうして」
アリスは苛立ちを隠そうともせず、道を隔てたところにいるリライヴを顎で指した。
「一方的に情報をやったわけじゃないわ。あの、背の高いオトコに聞いたのよ。そしたら全然、ハナシ、食い違ってるじゃない? 契約内容が違う時点で依頼なんてナシよ、ナシ。汚い仕事はしたくないわ」
「だから、確かめに行く、と」
「そうよ、文句ある?」
「いや……」
奔放な妹の姿に、キーアは苦笑した。
「止めはしない。しかし、ガリエン氏との約束の期日まで、あと一日もない。それだけは忘れないようにな。……気をつけて」
「あたりまえよっ」
アリスは風を纏い、恐ろしい速さでそこから走り去る。キーアは、三人が馬車に乗り込むことを確認し、自分も移動を開始した。