14.そして君と巡り合う
「やっぱ鍵は公園なんだな。ってことは何だ、お前の行きたい行き先のバスが今夜発で、俺の家はバスの待合室みたいもんか」
所々街頭の消えた夜道を行きながら、軽口を叩く。
「なかなか快適でした」
その軽口に、並んで歩く美月が乗ってくる。
けれど俺はそこから返す言葉が見つからず、美月もそうなのか会話は途切れた。
しばらく、お互い無言で歩く。
「ね、泉さん?」
「うん?」
公園を目前に、ようやく会話が再開される。
タタッと美月が数歩駆け、俺を振り返る。彼女と正面から向かい合う形になる。
「泉さんが好きです」
両手で握りこぶしを作った美月が、しっかりと俺を見据えて言う。
「泉さんが好きですよ。ラブレターと同じ言葉でボキャブラリー無いですがっ」
「……別に、構わないさ」
俺がそう答えれば美月が微笑み、それから彼女は月を見上げた。
俺も倣って、月を見上げる。
「満月、か」
美月と出会った夜は、新月だった。
何かが始まる予感のような期待は今日で満ちて、
「見つけました。私の還る場所」
そして――後は欠けて行く。
「そうか……」
園内に足を踏み入れる。戻れない一歩を。
「お前は本当、『美月』って感じだな」
言いながら手近なベンチに腰掛ければ、美月が俺の右隣に座る。
「何ですか、いきなり?」
月を背にした美月を見る。
泉《ヽ》に映る姿は幻。本当は遠い遠い場所に在る、そんな美しい月。
美月の頭の後ろに手を回し、彼女を通り過ぎて俺だけを照らす月の光を遮る。
それから俺は、美月の唇に自分のそれを重ねた。
触れられはしない。けれど確かに重ねたといって正しかった。
熱い。
これが錯覚だとしたら、実在の人間でさえ良く出来た錯覚に思えた。
唇を離し、美月を見る。
目を丸くした美月がそこにいて、次いでその目が嬉しそうに細められる。
「今からお前を電撃結婚させてやる」
その微笑さえ今は痛みに感じて、俺はらしくない雰囲気を払拭するように冗談めかして言った。
俺のいきなりな申し出に、「はい?」と美月が再び瞠目――を通り越して目が点になる。
美月が固まっているのをいいことに、俺はズボンのポケットを探った。実家の帰りに街で買ってきた指輪を取り出し、ベンチに置かれた美月の左手薬指の位置に合わせて置く。
「結婚……指輪?」
正気に戻った美月が自分の左手を見下ろして呟く。それから彼女は右手を胸に当て、「嬉しいです」と目を閉じた。
「きっと私はここで泉さんと出会ったのではなく、泉さんと出会うためにここにいたんです、そう思います。だってやっぱり泉さんの傍は切ないけれど楽しくて、そして……とても幸せだから」
目を開けた美月が、俺を見る。
「俺の傍にいることが……幸せ?」
「はい」
俺の問いに、俺を見つめたまま何の迷いもなく美月が答える。そのことに俺は美月とは逆に、決めたはずの覚悟が揺らいだ。
俯き、さらに目を伏せる。せめて顔だけは美月に見せないように。
「……かぐや姫は、どうして月に帰ったんだろうな」
目を伏せても煌々と眩しい満月の光に、昔一度読んで二度と開かなかった本を思い出す。
「月に、何を見つけたんだろうな」
俺が失くすことでしか知ることが出来なかった幸せを、お前は今知っているのに。
「幸せな日々に別れを告げて、それ以上に大切な何を……月に見つけたんだろうな」
矢継ぎ早に問いかけ、再び美月を見る。
「み、づき……?」
そして俺は、そこにあった光景に言葉を失った。
今までも少し透けていた美月の身体が、今はもうほとんど景色と一体化していた。美月の少し困ったような表情が、かろうじてわかるくらいにまで、消えていた。
「時間が……来たみたいです」
穏やかな声がそれに反して激しく俺の頭に響く。
「泉さん」
煩いほどの動悸に、声が出ない。
「どうか忘れないで下さい。泉さんの傍にいることが、私の幸せです」
「美月!」
そしてようやく声が出たときにはもう、満月だけが輝いていた。
かぐや姫を連れ去った、満月だけが。
「……泉は月を映せはしても、決して手には入れられないんだ」
月が滲む。
俺の無能な手は、情けない男の顔を覆うぐらいにしか役に立たない。涙を拭うことも出来ず、ただ覆うことしか。
バサバサッ
「!?」
突如耳元で鳥の羽音が聞こえ、俺は反射的に辺りを見回した。
バサバサッ
それはもう一度聞こえて、見れば何かが俺の周りを大きく円を描くように飛んでいた。
「……鳥?」
羽音の主は、セキセイインコだった。インコが俺を見上げてから、ベンチに置かれた指輪を首輪のように潜って身に付ける。
「あ、鳥だ」
今度は人の声が聞こえた。気付けばやたら間近に少年が立っていて、インコを見下ろしていた。
スポーツバッグを肩にかけ直した少年が、インコを両手で包み込むように持ち上げる。
「待て、その指輪は――……え?」
少年を制しようとした手が空を切る。彼が避けたわけではなく、俺がそこにあるはずの腕に触れられなかった。
「この指輪お前のか? あ、内側に何か彫ってある。えっと、M、I……」
指輪を手に取った少年が、月明かりで照らすように掲げる。
何だ? この場面、どこかで……
「わかった、これローマ字だ。隣の兄ちゃんからこの間教えてもらったぞ。MIDUKI……ミヅキ。そっか、お前はミヅキっていうんだ」
少年が言って、インコに視線を戻す。それを待っていたかのように、インコは少年の腕を上って肩に止まった。
「ん? 何だお前、うちの子になりたいのか?」
まさか……まさか――――
「よし、じゃあ今日からお前は木原ミヅキだ。俺は泉、よろしくな!」
「ミヅキ――美月!!」
俺の声に少年の肩に乗った美《ヽ》月《ヽ》が振り返る。そしてまるで手を振るように一度大きく片翼を広げてみせた。
少年がミヅキに指を差し出すと、ミヅキがそれに移って少年を見上げる。幸せそうな顔をした少年が歩き出すと、彼とともにミヅキの姿は薄れていって……そして消えた。
『かぐや姫は、どうして月に帰ったんだろうな』
『月に、何を見つけたんだろうな』
「幸せな日々に別れを告げて、それ以上に大切な、何を……」
掠れた声が、俺の喉から出る。
俺の最も幸福だった時間に還った美月。そして彼女は飛《ヽ》ば《ヽ》な《ヽ》い《ヽ》で、いつも俺の傍にいた。
「美月、俺は……お前といて幸せだった!」
もう夜の静寂しかない空間に、俺は思い切り叫んだ。
「幸せ……だった」
彼女と出会って、初めて幸せを知った。
雨の中、彼女を失って初めて、幸せだったことを知った……。
「は……ははははっ……」
幸せは失くしてから気付くのだと、物知り顔で言っていた自分がおかしくて、苦しい胸がさらに苦しくなるほど声を上げて笑う。
「全っ然、教訓が生かされてないでやんの」
ミヅキに伝えたかった、一緒にいて幸せだったと。ミヅキに尋ねたかった、君はどうだったのかと。なのにそれが叶ったかと思えば、こんな結末だ。
「美月に……お前に伝えたかった……一緒にいて、幸せだったと」
項垂れて暗い地面を見る。月の光から逃れるように。
けれどその抵抗も空しく、光は俺に容赦なく降り注いでいた。
「じゃあ、今度会ったら伝えないとね」
不意にその光が陰る。
でも俺はそのことにも、頭上から急に降ってきた声にも驚く気力は無く、葵ちゃんの言葉に項垂れたまま苦笑するのが精一杯だった。
「あいつの行き先は十六年前だ。いくら俺でもこの遠距離恋愛は遠すぎってもんだ」
「二度あることは三度あるって、泉はいつもぼやいてる」
「なら、もし今度会えても俺はまた気付けな――痛っ」
突然頭を結構な力で叩かれ、さすがに葵ちゃんを見上げる。するとそこには膨れ顔の葵ちゃんが立っていて、「ようやく顔上げた」とさらに頬を抓られた。
「泉、十五年前の八月十七日は何の日?」
「……ミヅキが死んだ日だ」
「以前の泉なら、私の生まれた日って答えたよね、きっと」
「……え?」
葵ちゃんが俺の頬を解放し、その手で自分を指差す。
「ほらね、また会えた」
そして驚きに動けないでいた俺に、にこりと微笑んでみせた。