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夢はひとりみるものじゃない  作者: 小林汐希・菜須よつ葉
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7話


 最近、よつ葉の顔色が冴えない。

 ここ数日から、なんとなく元気がないように感じている。


 もちろん、点滴や薬を間違えるなどの致命的なことは起こしていないけれど、毎日の検温でアラームがなるまでの少しの時間にどことなく落ち込んでいるように思える。


 他の患者からはそんな声を聞かないから、この部屋の中だけなのかもしれないけれど、それでも気になるものは仕方ない。


「よつ葉、何か困ったことはないのか?」

「ううん、大丈夫」


 そりゃそうだろうな。今は実習服を着ている。

 あの子のなかには、いくつか自分で課した約束がある。

 そのうちのひとつが、病室のなかでは決して弱音を吐かないというものだ。


 もちろん、プロとして仕事をして行く上ではとても大切なことだ。でも、何か心のなかに不安を抱えたままでは、いつかミスをしてしまうかもしれない。


 きっと、実習服を着ている時ではそれを話してくれることはないだろう。

 ただ、私服になればきっと別だ。それは先日、書類に印鑑をもらい忘れて病院に現れたときに感じた。もっと話したそうだった表情だったことを覚えている。


 あのときはこちらも来ることを知らなかったから、談話室で不意を食らってしまったけれど、あのとき自分の個室にいたら、もっと話もできたのではないかと思っていた。


 そこで、今回はそれを逆手にとる作戦を考えることにした。


 この病院は売店や書店も充実しているから、大抵のものは院内で手に入る。そういうものではなくて、一度外に出て買ってきてもらう物でないと。あまり邪魔にならず目立たないものがいい……。


「菜須さん、今日は早帰りですか?」

「はい、そうですよ」


 いつもの談話室から部屋までの帰りに聞いてみる。


「そのあとってどんな感じで過ごす予定?」

 ちょうど部屋に入るときだったので、本当は聞いてはいけないプライベートを聞いてみる。


「そうだなぁ。いつもお夕食の材料を買い出しに……。ほら、駅前の大型モールのスーパーあるでしょ? あそこに行くことが多いかな」

「そうか……」


 このあと家には直行せず買い物なら、逆に好都合だ。


「ちょっと頼まれごとをしてもらってもいいかな? ちょっとした買い物なんだが……」

「下の売店とかでは手に入らないもの?」

「うん、そうだな。ちょっとレターセットがほしいんだけど、下の売店だと、どうしても事務的なものばかりでさ」


 それを聞いたよつ葉が笑った。


「確かに。どうしても購買部的な要素が強いもんね。いいよ。どんな柄がいい?」

「そこはよつ葉のセンスに任せる。夜勤帯になってしまうかもしれないが、おまえだったら普通に入ってこられるだろう?」


 そこが重要なところだ。夜の病棟に私服で入ってきても怪しまれないというのが今の彼女の立場だから。


「わかった。柄はお任せね。お夕食済ませてから戻ってくるから、少し遅くなっちゃうかもしれないけど」

「構わない。そのくらいは待てるから気にしなくていい」

「なるべく急いで戻ってくるようにするね」




 その日、夕食の配膳前に仕事が終わった彼女が戻ってきたのは、消灯時間間際の夜9時頃だった。


「ごめんなさい。遅くなっちゃって」

「ナースステーションに誰か居なかったか?」

「今日は河西看護師長が夜勤で、パパについては不思議に何も言わないから平気だった」


 そりゃそうだ。河西看護師長とはあのあと何度も話して、退院までこの子のバックアップを頼まれているほどなのだから。どうもこの個室の件も、河西さんから事務センターや会計に指定が飛んだようで、これまでの個室の料金が無かったことに精算されていて驚いたほどだ。


 よつ葉は、「頼まれものね」と言って、スーパーの文具屋さんの袋を渡してくれた。


「ありがとうな。これ、代金とお駄賃だ」

「お駄賃はまずいよ。さすがに……」


 財布の中に入っていた5千円札を渡す。


「なかなか新しい服も買えていないんだろう? そのうちに買ってあげられるようになるから、それまで風邪を引かないように、暖かいものを買う足しにでもしなさい」


 そう、今日の彼女の服装は先日の私服姿と変わらなかったからだ。偶然と言うことももちろんあるだろうが、お洒落をしたい年頃の女の子なのだから、これで少しでも足しになればだ。


 彼女が着ている服のブランドについては、困ったときの舞花さんに聞いたらすぐに教えてくれて、インターネットで調べてみたから大体の相場は分かっている。


「これは、担当してくれている看護学生に渡すんじゃない。買い物をしてきてくれた俺の娘に渡すものだ」

「……ありがとう……。大切に使わせてもらうね」


 彼女がそれをお財布の中に、そしてバックの中に仕舞ったのを確認して、声をかけた。


「なぁよつ葉?」

「はい?」


「最近元気がないように思える。この部屋の中だけかもしれない。ここだったら少なくとも他の患者さんに聞かれることもない。何か悩みがあるなら話してもらえないか?」


 カーテンをまだ開けていたので、月明かりに照らされた娘の顔が少し曇ったように見えた。


「本当は、こんなことを絶対に病室で話さないって決めていたのに……」

「今はここを職場の病室だと考えるな。自分の部屋だと思って言えばいい」


「そうね……、パパが入院してくる少し前のことかな。看護師試験の模試を受けたんだけど、その結果があまりよくなくて、それを思い出しちゃってて……」

「そういうことだったのか。変な思い出し方をしちゃったのか?」

「私、昔、実習の途中でいろいろあっって、あまり老年看護が得意じゃないから……。そこを指摘されちゃって、もちろん……、何でも出来なくちゃいけないって分かっているんだけど……」


 そうだ。確か河西さんから言われたことがあった。老年看護や精神病棟実習の時にいろいろとあったこと。


「そういうことだったのか。確かにおまえが病棟の中で「しない」って言っている内容に反してしまうもんな。島さんとか、河西さんは知ってるのか?」

「一応見せなくちゃならないから、知ってはいる。でも、二人ともまだまだ時間あるしって言ってくれたけど……」


 俺はふと、先日の河西さんとの会話を思い出した。老年看護、そうか彼女が不得意としていたものがあったと言っていた。しかし今はそれを完璧に克服していると太鼓判を捺していた。


「よつ葉、その模試はそのとき1回しか受験できないものなのか? それとも何度でも受験できるものなのか?」

「ううん、別に規定はないけど、そのための勉強もしなくちゃならないし、費用もかかるから、何度も出来るってものじゃない」


 俺は顔をゆっくり横に振った。


「隣においで」


 彼女がベッドに腰を下ろした背中に手をそっと置いてやる。


「いいか、次に受けられる直近の模試、今のままでいい。受験しなさい。試験費用は出してやるから」

「パパ……?」


「おまえが苦手なものは俺で練習したんだろう。夏休み前のおまえじゃない。今のおまえなら何も準備しなくても出来る。俺を含めて河西さんもみんな合格点を出している。自信をつけるんだ。そのかわり結果がでるまで誰にも、河西さんや島さんにも受けることを話すんじゃない。これは俺とよつ葉の秘密だ。いいな? みんなをびっくりさせてやれ。みんなを心配させたくなかったら結果を出すしかない。今のおまえなら出来る」


 個人の貴重品ロッカーの中に用意しておいた封筒をよつ葉に握らせる。


「この中に模試の受験費用が入ってる。確か明日までが申込の締切のはずだ。まだ間に合う。これを使いなさい。これは親だから言える話だ。他の人には結果が出るまで内緒だからな」

「うん。分かった。やってみる」


「もう問題も簡単に感じるくらいだろう。老年看護や精神病棟のことが頭の中でよぎったら、俺のことを思い出せ。老年かと言われればまだ微妙かもしれないが、俺だって一種の精神病患者だ。俺なら怖くはないだろう?」

「うん。やってみる。ありがとうパパ……」


 振り返ったよつ葉の顔には、光る筋が2本できていた。




 翌日から、彼女が買ってきてくれたレターセットを使って、落ち込んだり失敗したときの自分の経験を書いてやった。

 実習服を着ている時では、長いこと話しているわけにはいかないし、内容もあまり外に出せることではない。それを手紙という形でそっと渡してやることにした。


『大丈夫だ。堂々と胸を張って行ってこい』


 翌日を模試に控えた金曜日、俺は最後の便せんにそれを書いて最後の封筒に入れて渡した。


「あの、小林さん……」


 夕食の配膳が終わって、食事を始めようとしたときだった。

 扉が開いて、彼女が立っていた。


「どうしたんですか?」


 ドアが全部閉まりきるのを待って、彼女が俺の横に立った。


「ありがとう。明日行ってくるね」

「うん、それでいい。今のおまえに怖いものはないはずだ。ここに一番苦手なジャンルの患者を前にして毎日やってるんだから」

「うん。そう思ったら凄く楽になった。明日、この手紙持って行くね」


 そして、彼女は俺の手を握った。

「菜須よつ葉、行ってきます。本当にありがとうございました」


 ドアの前で振り返る彼女の顔は、この間とは違って自信に満ちていた。きっと急に決まったことではあったけれど勉強もしていたのだろう。


『そうだ、それでいい』

 俺は声には出さずに、彼女に頷いた。

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