45話
あの一件が終わってから、よつ葉たちの空気も変わった。
さすがに、もう遊んでいる場合ではない。
毎日ゼミでの模擬試験をやったあとは、この部屋に寄っては時間まで問題集を解いていくという日課だ。
ここまで来たら、親としては何をすることはない。本人が落ち着いて試験を受けられるようにそっとしておくだけだ。
「ねぇパパ……」
「なんだ?」
この日も、もう時間的にはもう送り出さなければならない頃。
「あのね……、試験の日、ここから出発してもいいかな?」
時間については聞いている。よつ葉のアパートから出て、まだ開いてない病院に来て、それから出るというのであれば、時間に余裕がなくなってしまう。
「つまり、前日にここに泊まるってことだな?」
河西さんにすぐに相談だ。
さすがに、翌日試験の子を椅子に座らせてというわけにはいかない。
つまり、本来の患者ではないよつ葉をベッドに寝かせて、自分が椅子の上などで一夜を明かすという、ある意味病院としては無茶苦茶な話だ。
でも、自分のなかでは大方決めていた。ひとりで部屋を出ていくよりも、場所はともかく、自分のもとから送り出してやりたい。
それで落ち着いて試験を受けられるのならば、1日くらいの無茶は平気だ。
翌朝、河西看護師長にそれを相談した。
「まぁ、小林さんがここにいるのは、菜須さんの試験対策という面が強いですからね。個室ですし、黙っておきます」
おいおい、この人も言っちゃったよ。つまり、本当なら俺はすでに退院できるレベルにある。でも、よつ葉の試験前に変化を起こしたくないから、それまではと決めているそうだ。
すぐに学校のよつ葉にメッセージを飛ばす。許可は出たから、先に家に帰って、明日の試験を万全にしてからこちらに来るようにと。
返事が来て、いつもとは違い、今日はお昼で解散。あとは各自明日の用意に充てるようとのことだ。
そんなことで、よつ葉が病室に来たのは、いつもとは違い、面会時間もまだ終わっていなかった。
「今のうちに、明日どうしても忘れてはいけないものだけを揃えておいてくれ」
「うん」
「受験票と筆記用具。それだけあればいい。あとは会場の寒さとかに備えたものだけは用意しておくこと。変に重い参考書などは持っていくな。かえって不安材料になっちまう。ここまでにやることはやった。もう詰め込む必要はない」
いつもとは逆で、夕食前に最後の勉強時間をとり、そのあとは落ち着かせることに専念する。
「いいかぁ、いつだったか言ってたな。周りは全部小野くんだ。それなら気が楽だろう。直前の最後の最後まで参考書を見ているやつもいるだろう。でも、逆効果だ。不安を煽るだけになってしまう。薄いのを一冊、お守りがわりに持っていく程度でいい。それも使わないに越したことはない」
ここまでやってきたんだ。試験の前日くらい、ゆっくりとさせてやりたい。
着替えのパジャマなどはあとで持って帰れるから、いつもとは逆に、病室のベッドで寝てもらうことにした。
決して広いベッドではないけれど、クリスマスのときは、一緒の布団で寝ていたくらいだ。それを考えれば添い寝しても大丈夫だろう。
あえて、試験のことにはこちらから触れることはしない。なにも言わずとも緊張しているのは本人だ。
「疲れてるだろうから、ゆっくりおやすみ」
「うん……」
なにも言わずとも分かっているのだろう。
枕元の灯りを暗くして、よつ葉にとって、明日が最高の結果になるよう祈りながら、それでもなかなか寝付けずに時計を見ていた。
朝、ブラインドの外が少し明るんだ頃、病室のドアがノックされた。
「誰だろ……」
そっと開けてみると、まだ私服の河西さんだった。
「これ、今日の朝ごはんとお弁当ね。さすがにどっちもコンビニで済ませなんて言えないから。なにも心配せずに行ってらっしゃい。見送りはお父様にお願いすればいいわね」
「看護師長……」
「4月1日に待ってるわよ。どこに配属になるのかしらねぇ……」
そういって、手早くドアを閉めていった。
「借りを作っちゃったな。それは結果で返してやれ」
まだ入院者の朝食配膳までは時間があるから、先に食べさせて送り出すことにした。
「今日は談話室にも行かない。ずっと部屋にいるから、何かあればいつでも連絡してきなさい」
エレベーターでカギが開いたばかりの外来エントランスに向かう。幸いにして日曜日。ほとんど人はいない。
「神頼みは好きじゃないんだが、気休めだ。邪魔にならないなら自分の代わりに連れていってくれないか?」
いちばん小さいサイズのお守りを差し出した。
「これでずっと一緒にいられるね。いってきます」
「おう、いってこい」
駅に向かうよつ葉の影が小さくなって、角を曲がり見えなくなるまで、俺はその場を離れることができなかった。




