3話
翌朝、ナースステーションの出勤担当者をみると、予定通りよつ葉はお休みになっていた。
いくら年中無休の病棟看護師とはいえ、毎日出勤ではなく、担当している患者の状況が安定していれば交代で休みもとる。
逆に、俺にとってこの日は外せない1日となると思った。
代理で来てくれた看護師さんは、先生とお話がしたいとの申し出に、「それならば回診の時にとお伝えしておきますね」と答えてくれた。
午前中の病院は、外来を主に担当してくれる先生方は回診が午後になる。
自分を担当してくれているのは、心療内科が専門の天野先生。
年齢的には自分の親に近いだろうか。
本来は教授という立場であるにも関わらず、とても話しやすくて、俺の状況を検査データと見比べなから、ご自分の診察室ではなく、この病室でゆっくり聞き取ってくれた。
その結果、『極度の消耗で体が悲鳴をあげている。薬だけでは治らない。根本的に体力をつけて生活も見直さないと』と半年休養の診断書を書いてくれたのもこの先生だ。
「小林さん、なにかお話があるとか?」
天野先生がいつもと変わらない笑顔で入ってきてくれた。
「先生、お願いがあります……」
「ほぅ、どうされました?」
「来月12月の、クリスマスに外泊をお願いしたいのです」
「小林さん……」
天野先生の表情が一瞬曇る。
もちろん、それは最初から予想していたことだ。
「小林さんもお分かりなのでしょう? 無理をしてはいけない体調なのだとは……?」
「もちろん分かっています。ですが、今回だけ、本当に一生に一度のお願いなんです」
「なるほど……」
これはただ事ではないと感じてくれた天野先生は、この病室ではなく、重要な話をするときに使う面談室をすぐに予約してくれた。
予後などの面談に使ったり、入り口以外は出入りが不能な部屋で、防音の扉まで備える。このフロアで非常にプライバシーを高く保てる場所だ。そこに内側から鍵をかけてくれた。
「本当に、無理を申し上げて申し訳ありません」
正面ではなく、斜めに座ってくれた天野先生に頭を下げる。ずっと考えていた計画を実行するには、この先生の許可と協力がどうしても必要だからだ。
「小林さんがそこまで言われてくるのは、入院の時にお話を伺ったとき以来です。表情もあのときと同じように悩んでいらっしゃる。私としてはなにかできることがあれば協力したいと思います」
「娘に……、幼い頃に私たち大人の都合で寂しい思いをさせ続けてしまった娘に、クリスマスを父親として経験させてやりたいんです」
「お嬢さんがいらっしゃったんですね。それは初耳でした。お会いできたというのですか?」
天野先生は、頷きながらメモを取ってくれる。
「本当に偶然でした。私がこちらに入院したとき、私はその娘に十数年ぶりに再会したのです…………」
「お続けください。秘密は守ります」
病院のなかでは、患者同士でも複雑な人間関係が交錯することもたくさんあるのだろう。患者の個人情報に対して、医療関係者には守秘義務が設けられているくらいだから。
「他の方には内密にお願いできますか?」
「お約束します。どうしても必要な者には話さなければならないかもしれませんが」
それは仕方ない。天野先生一人だけでは力が及ばないこともある。
「看護学生の菜須よつ葉、あの子は私の娘です。当時の私は親権を認めてもらえず、母方に引き取られていきました。あの子もすぐに気がつきました。しかし、あの子はいま大切な時期です。そんなことで学業の記録に傷を作るわけにはいきません」
「あの、菜須さんのお父様が…小林さん……。確かにどこか同じような空気をお持ちでいらっしゃる。そうでしたか……」
天野先生の表情が和らいだ。
「小林さん、看護師長にだけはこの事をお伝えしても宜しいでしょうか? もちろんこれは大変な極秘事項ですから、それは最初にきちんと伝えます」
「……分かりました」
天野先生は、手元の医療用PHSから電話を掛けた。
すぐにノックがして、看護師長さんが一人で来てくれた。
「河西さん、今から伝えられることは、小林さんの大変重要な個人情報になります。絶対に口外なさらぬようお願いできますか?」
「かしこまりました。お約束します」
河西看護師長さんの顔も緊張で引き締まる。
「小林さん、私からよりも小林さんの言葉で先ほどのお話をしていただけますか?」
「はい。いつも私を看護していただいている、看護学生の菜須よつ葉ですが、本当にお世話になり、いつもありがとうございます。あの子は昔、離れて暮らすことになってしまった私の下の娘です」
「なんてこと……。あの菜須さんのお父様。小さいときにおうちの都合で会えなくなってしまったとは聞いていました。素敵なお嬢さまです。技術も知識も十分に第一線で活躍できます。あとは国家試験だけですが、あの子なら大丈夫でしょう」
看護師長さんも、大きく頷いてくれた。
「今は、籍も離れていますし、法律的に私とあの子の接点はありません。しかし、幼いあの子に父親がいないという辛い思いをさせたのは私の責任です」
「大人の世界は、子供には理解できないこともたくさんあります。そうでしたか、あの菜須さんのお父様としてはどんなお気持ちだったのでしょう。私たちもそこはわかりませんでした。申し訳ありません」
謝られる必要があるか? そうか先生たちには、俺たちが離れた理由を知らないから、再会することで気まずくなってしまったかと思うのかも知れないけど、それは逆だ。
「いえ、私たちは決して表では父娘だと分からないようにしようと決めたのです。そこは他の患者さんや先生、看護師さんや学生さんたちもいらっしゃるし、看護学生で実習に来ている以上、そこの責務はきちんと果たしなさいと。その代わり、私を練習台にして構わないとは言いましたが……。恐らくそのために個室を使わせていただいているのだと思いますが……」
「なるほどね。小林さんが入院されてから、菜須さんの腕が急に上達したのはそういう裏があったんですね。統合看護の延長申請も、確かにこれなら納得が行きます」
「これまで黙っていて、本当に申し訳ありません」
頭を下げる俺に、天野先生も河西看護師長さんも表情は穏やかだった。
「いえ、菜須さんも、お父様が近くにいらっしゃることでどんなに心強かったことでしょう。籍が離れているとはおっしゃっても、血は繋がっているのです。そこの気持ちは私たちよりお父様の方がお分かりになるでしょうから」
「あの子も、春には大人の世界に出ます。そうなれば社会的な責任も出てくるでしょう。その前に、こんな私にですが……、1日だけでも子供の頃にできなかった親への甘えを経験させてやりたいのです。担当患者と看護学生ではなく、父親と娘として。それができるのが今年が最後なのです……」
頭を下げる自分の前で、二人が頷いたように感じた。
「小林さん、菜須さんに素敵なクリスマスを経験させてあげてください。それは菜須さんにとって何事にも代えられない宝物になります。許可は何とかしましょう。河西さんには菜須さんのスケジュール管理もお願いしますよ? そのために呼んだのですから」
「分かりました。ですが、ギリギリまでこの許可のお話は菜須さんには伏せておきませんか? その方が喜ぶと思いますよ」
「河西さんも悪ですなぁ。小林さん、それでもよろしいですか?」
「ありがとうございます……ありがとうございます……」
そんな俺の両手を二人の先生たちはそっと握ってくれた。