27話
浴室を出て、歯磨きなどの寝る準備を済ませると、本当によつ葉は布団を敷いた中に入っていた。
「よつ葉?」
「あ、パパ、お夕食の後のお薬飲んでいないから、ちゃんと飲んでね」
なんだ、まだ起きていたのか。
それにしても、久々の楽しい食事ですっかり忘れていた服薬のことを知らせてくれるとは、この子が看護師の卵なのだと改めて認識してしまう。
よつ葉の前で薬を飲むと、再び顔が実習中の看護学生から甘えっ子の娘に戻る。
「横に入るよ?」
「うん」
明かりを常夜灯に落として、よつ葉の隣に座ると、体を少し横にずらして、二人で並べるようにしてくれた。
いつも、ここに誰かの温もりはなく、布団が温まるまでは、冬場はじっと我慢していた。
それがよつ葉の体温ですでに温まっている。
「何年ぶりだろうな。よつ葉とこうやって一緒に寝るのは……?」
あの頃は、まだ小学生だったよつ葉。いつの間にこんなに立派な女性になってくれていた。
顔を合わせると、すでに目を赤くして涙を堪えているよつ葉。
「ねぇパパ……。腕枕して?」
「いいよ、おいで?」
右腕の上、肩から肘の間によつ葉の頭が乗る。肘から下で、頭を撫でてやり、左手で背中をぽんぽんとゆっくり叩いてやる。
「パパ、ごめん……ね?」
「うん? どうしたぁ?」
鼻をすすりあげているよつ葉を抱き締める。
「そんなこと……されたら、もうよつ葉……、我慢できなく……なっちゃう」
「何も我慢することない。よつ葉の気持ち、全部吐き出してごらん?」
「ぱぱぁ……!!」
それ以上の言葉はなかった。
最初は必死で声を殺して、でもそのうちにその我慢も外れた。声をあげて俺の胸元で泣きじゃくるよつ葉。
俺はそんな娘をただ何も言わずに抱き締めていた。
同時に、もっと早く手を打てなかったのかと後悔もする。
こんなふうに大きな声をあげて泣くよつ葉の姿など、恐らく今この子の周りにいてくれている誰も知らないのではないか。
病棟では何があっても泣かないと決めていると話してくれたこともある。
「いつも元気な看護学生よつ葉ちゃん」そんな周りのイメージとはかけ離れたよつ葉が、自分の胸元で、幼い子供のように感情をさらけ出している。
きっと、河西看護師長や、天野医師の狙いは最初からここだったのではないか。
それを確信したのは、よつ葉が少しずつ落ち着きはじめてからだ。
恥ずかしそうに、それでもよつ葉は自分の言葉で話してくれた。
両親が別れることは、大きくなってから姉のふた葉と話し合った結果、やむを得なかったと知った。
「パパはよつ葉が自由に進路をとれるように助けてくれようとして……。でも、お姉ちゃんと離してしまうことが出来なくて……。みんなよつ葉が悪いの……」
「そんなことはない。俺の力が足りなかった。そのために、よつ葉たちには本当に苦労をさせてしまった」
首を横に振ったよつ葉は、ついに話してくれた。
どうして看護師を目指し始めたのか。
ただ「教師になれ」という母親に反発するためなどではない。
姉であるふた葉の手術がきっかけとなり、誰かを元気にしたいという、よつ葉自身の決意があった。
我が家は医者家族ではない。そういったベースのない家庭から医療の世界を目指すことは並大抵の覚悟では足りない。
看護師を目指すことは、その後のよつ葉自身の青春時代そのものを全て勉学に費やさねばならないほどの犠牲を強いるとも。
そのことは、よつ葉の部屋を見たときに分かっていた。
高校時代にその道を目指すと決めてから、母親には何度も無理難題を押し付けられ、最初は無謀と言われた大学受験ですら必死で乗り越えた。
よつ葉が自力で掴んだ、看護科への入学。それでも、家からは学費を出してもらうことすら出来なかったという。成績優秀者に適用してもらえる奨学金を借り、必死に勉強を続けながら生活、いや「生きて」きた。
「産むんじゃなかった」とまで暴言を吐くかれ、何度も消えてしまいたいと思ったこともあると語るよつ葉。
それでも諦めずにここまで進んできた。
今回の外泊延長に繋がることになったあの精神科病棟での事故。
首を絞められ、もうこんな辛い人生なら諦めてもいいかと思ったとき、俺のことを思い出して、まだ終わるわけにいかないと、傷だらけの心でも這い上がって来てくれた。駆けつけた俺に、大丈夫って……。とてもそんな状況じゃなかったのに……。
「よつ葉……!!」
俺は声を強く、そして彼女を抱き締める腕にも力を込めた。
「ぱぱぁ……」
幼い頃、あれだけ甘えっ子だったよつ葉。笑うと本当に可愛い女の子だった。思い出さない日などなかった。
病院で再会したことは、奇跡が起きたと思った。
よつ葉のためにも、体と心を治さなくてはならない。だから、今は病室で少しずつパソコンを使って仕事のリハビリを始めている。
「よつ葉、パパも必ず元気になると約束する。だから、よつ葉も必ず看護師になってくれ」
「うん……」
胸元の頭が小さく頷いた。
「パパ……。あの三者面談をしたあとね、佐々木教授から、よつ葉はお父さん似なんだねって言われたの。支えあっていることも、いざというときに頑張っちゃうところも。あのお父さんを看護するために実習延長を出したんだねって笑ってた」
「そうだったか」
きっと、それは病院でも分かっているんだろう。河西看護師長も天野医師も。
「うん、パパはあの日よつ葉に『看護師になりなさい』って言ってくれた。初めて肉親に言ってもらえたの。だからよつ葉、頑張れてる。あのひと言がよつ葉を支えてくれてる」
「よつ葉は強い子になったな……」
「ううん、よつ葉は今でも泣き虫で弱い子。でもね、パパだけでも喜んでくれるなら、よつ葉は看護師になりたい」
「うん、それでいい」
よつ葉が顔をあげた。
涙でぐちゃぐちゃだったけれど、笑ってくれた。それを見せてもらえる関係に俺たちは戻ってきたんだと。
ふたたび、腕枕の体勢になってふたり並んだ。
「よつ葉……」
「なぁに?」
「ふた葉は……元気にしてるのか? さっき手術と言っていたけれど……」
そう、夫婦が別れたとき、よつ葉だけを連れてこられなかったのはそこだ。仲のいい姉妹を引き離すことは俺にはできなかった。
「お姉ちゃんね、元気で学校の先生やってるよ。実習がお休みの日で、今月手術したときも、よつ葉に過去問題解いておきなさいって……。看護師さんに笑われちゃった。塩対応ねって……」
そうだったのか。同じ病院に、俺と姉妹が揃っていたなんて……。
「よつ葉……」
「ぱぱぁ…………ぱぱぁ……」
さっき、思いを解放したこともあったのだろう。
安心しきった顔で、よつ葉は寝息をたて始めていた。
そう、よつ葉に相談したいことがある。
でも、いまここで寝起きにさせてまですることじゃない。
「安心しろ……、もう誰にもよつ葉を傷つけさせはしない」
俺はよつ葉を抱きしめて誓い、娘の温もりを感じながら眠りに落ちていた。
……深夜、ふと気がつくとよつ葉がいない。
「……えっと、お薬飲んだのは……、お昼が1時、夜が8時で……、食欲も……普通に食べてたよね。就寝は……よつ葉が先に寝ちゃったからなぁ……失敗だぁ…」
流しの上の小さな明かりをつけて、よつ葉が呟きながらなにかを書いている。
そうか、病院から渡された自分の看護記録だ。書いてないことを思い出したのか。明日の朝でも書けるのに。
こんな深夜になっても、きちんと与えられた課題に向き合っている姿。これも俺の前だから見せてくれているのだろう。声をかけようと思ったけれどやめておいた。この姿を見ただけでもよつ葉の仕事への姿勢というのは十分にわかる。
よつ葉……。お前は立派な看護師になるぞ。その努力は必ず報われる。それを応援して、背中を後押しするのが自分の役目だ……。
明日からは早い時間に記入する時間を作ってやろう。
俺はよつ葉に気づかれないように、そしてまたあの子が腕枕で寝られらように、寝返りを打つふりをして目をつぶった。




