19話
「舞花さん、クリスマスって、女の子はどういうところ行きたいもんですかねぇ?」
「なぁに? どういう風のふきまわし??」
「いや、こういう雑誌が目に入ったもんですからね」
談話室には、患者の家族が持ってきた雑誌などが共用にと置いてあったりする。
12月にもなると、クリスマスの特集などで、写真入りで特集が組まれている。
「そうねぇ、あたしは今さらどこってこより、家で料理作ってるかなぁ。若い頃はどこ行ったかなんて自慢しあいもあったけどね」
「なるほど」
「汐希だって、そういう思い出あるんでしょ?」
「まぁ、ないと言えば嘘になりますね……」
午後の談話室で、いつもの会話を楽しんだあと、その雑誌をもって部屋に戻ってきた。
外はもう夕暮れだ。
よつ葉が教えてくれたとおり、この部屋からでも小児病棟前のイルミネーションが見える。
もうすぐ点灯だな…。
手元の照明をつけて雑誌に目を落とす。
そう、今日は12月21日。
あの約束の日までもうすぐになっている。
河西看護師長や天野先生はまだよつ葉に話をしていないようだ。
予定されている時間は1泊2日。やってやりたいことはいくらでもあるのだが、それしか時間がないのであれば、選択するしかないよな……。
さて、それをどうして選ぼうかと、ページをめくっていると、外でナースサンダルで走ってくる音がした。
あれだけ音がしないようにできているのが音をたてるということは、よほどのことだろう。
まずい、何か嫌な予感がする。
その音が自分の部屋の前で止まり、ガラッと扉が開いた。
「小林さん、すみません。一緒に来てください!」
河西看護師長だ。あのいつも冷静な人が血相を変えて飛び込んできた。
その迫力で緊急事態を確信し、ガウンを引っかけて部屋を飛び出した。
自分もこんなスピードで歩いたのは久しぶりだ。河西さんのあとについていったのは、普段は立ち入らない精神科病棟。
前と同じように、病室ではなく処置室に連れてこられた。
「先生、小林さんをお連れしました」
「よつ葉、どうしたっ!?」
どうせここには誰もいない。そんな場合じゃない。よつ葉がベッドに寝かされて、点滴を受けている。それどころか、酸素マスクの準備すらしてあるじゃないか。
「パパ……」
「よつ葉、いい。いまはしゃべるな……」
掠れ声だけでも、よほどの異常事態が起こったのだと瞬時に理解した。
ことの顛末を簡単に聞くと、統合看護実習の実績ということで、一応精神科の患者に付き添って、部屋で薬を飲むのを見届けるというのがあったらしい。
その患者さんはご病気でご主人を亡くされているのだけれど、ご本人のなかでは、だれかに盗られたとずっと思い込んでしまっている妄想癖があるとのこと。普段は薬で押さえ込んでいるというのだか……。
「突然でした。菜須さんの首を手で絞め始めてしまったのです」
最初からそういうことが頻発する患者であれば、病院もそれなりの前処置をしてからだったのが、あまりに突然のことだった。
すぐに引き離されたのだが、記憶の混乱と、一時的とは言え首を絞められたことで、過呼吸が起こってしまったため、今はよつ葉にも軽い鎮静剤を投与して寝かせているとのことだった。
「そうでしたか…」
首もとにかけてあった布をそっととって見せてくれると、やはり相当の力で押さえつけられたのだろう。何ヵ所かに指の力が加わった痕が残っている。
「申し訳ありません。完全な病院側の医療事故です。大学には連絡しました。事象としては傷害事件でもあります。この先の判断は小林さんのご意向も伺わねばと思いまして」
「そうですか……。よつ葉はこのままでも大丈夫なんでしょうか?」
「いまは、少し朦朧としていますが、薬が切れれば話せるようになります」
「そうですか……」
俺は少し考えた。
俺の職場でこんなことになれば、警察を呼んで傷害事件として捜査してもらうのが普通だ。
しかし、ここは病院であり、よつ葉が春から勤めるところでもある。波風をたてるのも得策ではない。また、被害届を出して、そのあとの手続きを経ていったとしても、相手は精神疾患者だ。裁判ではそこも争われてしまうと、徒労に終わってしまうことも容易にに考えられる。
「ここは、よつ葉と話させてください」
「わかりました。私たちは一度離れます。菜須さんとお話ができるようになったらまた呼んでいただけますか?」
天野先生と河西さんが席をはずしてくれて、よつ葉と二人だけになる。
「よつ葉、俺がこんなに近くにいながら……」
「パパ……。仕方ないことだよ……」
弱々しく、それでも健気に笑顔を見せようとするよつ葉の手を握った。
「さっきの聞こえてたんだろ? お前はどうしたい?」
「ここは病院だもん、こういうことはどこかで起きる。あの患者さんには今度から正看護師でも二人体制で行くって話してた……」
「そうか……。その首の痕がしばらく残っちゃうな……」
「今は冬だし、タートルネックとか、お化粧品で誤魔化せるから大丈夫だよ。もう痛みもない」
「よかった……。とにかくおまえが無事で……」
点滴が落ち終わったので、ナースコールを押して、処置をお願いする。
河西さんだけかと思ったら、天野先生もきてくれた。
「菜須さん、大丈夫ですか?」
「はい……。ご心配おかけしてすみません」
「いや、これは完全に医療事故です。菜須さんに非は一切ありません。必要であれば心療内科を受診しても構いませんから」
そのあと、天野先生は俺に振り向いた。
「小林さん、私と河西さんで相談をしたのですが、菜須さんをここで一度休ませてあげたいと思います。先日の怪我の件もあります。我々としても、来年から来ていただく方にこれ以上の負担は考えられない。当初は1泊予定でしたが、3泊4日にしても構いませんか?」
「大丈夫なんですか?」
「小林さんの看護は菜須さんでも十分にできます。どちらかと言えば、菜須さんを、『お父様』の力で癒してあげてほしいのです。お願いできませんでしょうか? 学校の方にはすでに報告も送ってありますし、許可もいただいています」
「分かりました。娘のことですからそこはお任せいただければ。明日の朝からということでしょうか? 」
「はい。今夜は様子見ということで、病院にてお休みいただいて、明日からと考えています。河西さん、小林さんのお部屋にベットもう1つ入りますよね?」
「かなり狭くなりますが、大丈夫です」
「では、それでいきましょう。部屋の準備をお願いします」
残された俺とよつ葉は、ゆっくりと暗くなった廊下を歩いて戻る。
「突然だけど、明日から二人で外泊だってさ。本当はクリスマスの1泊と頼んでいたんだけどさ」
「もう。そんなこと考えていたのね……。ごめんね、よつ葉のために……」
「おまえに辛い思いをさせた罪滅ぼしのほんの一部だ。時間も増えたし、考えていたことを絞る必要がなくなった」
病室に戻ると、ベッドが並べてあり、よつ葉の私服もロッカーから出していてくれた。
「今夜は、湿布だけはシャワーのあとに貼って寝てくださいね。そのくらいなら、お父様に貼ってもらっても構わないから」
「はい。ありがとうございます」
「明日から、甘えていらっしゃい。菜須さんが元気になってくれればそれでいいわ」
河西さんが食事を二人分持ってきてくれた。
「喉、食べられる? 痛くない?」
「はい。もう落ち着きました」
「明日、どうしますか? 周りのみなさんが起きてからだと行きにくいというなら、早朝にお声がけしますよ?」
河西さんの気遣いもわかる。よつ葉とて、どういう顔をしていけばいいか困ってしまうだろう。
「どうしよう?」
「一度、うちか……よつ葉の部屋で整えてから出かけるか。それなら早い方がいい」
「分かりました。では当直の時間中にお声がけします」
来客用の椅子やテーブルは片付けてしまったので、ベッドのサイドテーブルで並んで座りながら食事をとる。
言われていたとおりにナースコールを押すと、河西さんが引き上げに来てくれた。
「もう、実習服は脱いでしまっていいわよ。あとはゆっくりしていて。今日の実習報告は私の方で書いておきますから、気を抜いてリラックスしていいからね」
患者と同じリネンのパジャマでごめんねとよつ葉のために持ってきてくれた。
二人きりになって、外がもう真っ暗になっていたことに今さら気づく。
「パパ、イルミネーションついてるよ」
「ほんとだ。よつ葉に教わってから毎晩楽しみにしてたよ」
窓際に二人並んでそれを見下ろしているうちに、よつ葉が部屋のなかをキョロキョロ見回している。
「どうした?」
「このお部屋って、ベッド周りのカーテンなかったんだね」
「個室だもんなぁ。確かに見たことないな。どうした?」
よつ葉が恥ずかしそうに、小さな声で……
「あのね、お着替えするときにみんなパパに見られちゃうよ……?」
「あぁ、そうか! 布団被って反対向いてるから、その間にでもいいか?」
「ごめんね」
布団を頭まで被って、ベッドに横になった。
窓際のカーテンを閉める音がして、なんとなくの気配は感じるけれど、よつ葉も無言で着替えているようだ。
そうだよな。小さかった頃に、よく着替えをしてあげたけれど、もう年頃なんだもんな。さっきの赤い顔も考えてみれば当然のこと。
それだけ時間が経ってしまったんだと。
「終わったよ。ありがとう」
声がして、よつ葉の方に顔を向けると、同じ病院用の室内着に着替えた姿があった。
「えへ、お揃い?」
「なかなかない体験だろ? 患者体験とか、実習でやってると思うけど」
時計を見ると、もうすぐ消灯時間になる。
さすがに、病室のベッドには転落防止柵もあるので一緒に寝ることはできないから、それぞれの場所に横になって、明かりを消す。
「パパ……。きょう、来てくれてありがとう……」
「ん? 河西さんが教えてくれたんだよ」
「もう、何が起きたのか分からなくて、動転しちゃって……。でもね、パパが『よつ葉!』って呼んでくれたときに、それだけは分かったの。来てくれたんだって……。あとは安心できた」
手を横に伸ばして、よつ葉の手を握ってやる。
「もう安心しろ。このまま握っている。疲れてるだろうから休むんだよ」
「はい。おやすみパパ」
「おやすみ、よつ葉」
名残惜しそうな声だったけれど、明日から数日間はもっと近くにいてやれる。
やはり我慢していた疲れもあったんだろう。
よつ葉からは数分もたたずに小さな寝息が聞こえてきた。




