橋渡し 3
地面が揺れた。
突然のことに体勢を崩し、地に手をつく。少しの痛みとともにジャリッとした乾いた土を掌に感じた。
でもそんなことはどうでも良い。僅かに続く地鳴りだって気にならない。
それよりも、目を疑う光景が広がっていたからだ。
あちこちで悲鳴が上がる。人々が指さす方向には、巨大なミミズがその巨躯をうねらせながら異様な速度で進んでいた。赤黒いその表面がうねり様子が、差し込む陽光で遠目にもよくわかる。
その巨躯から時折剥がれ落ちる色―――――それが、巨躯のミミズと比べれば細く短いものの、それでも十分に通常よりもずっと大きいミミズだと理解するのに少し時間を要した。
巨躯のミミズから枝分かれするように滑り落ちた先で、それらは身をくねらせて土の中へと潜っていく。
実に、背筋が凍てつくような光景だった。
誰もが呆然としている中、ブーンと飛んできた蜂がわたしの肩に止まった。
「ちょ…、なんですかアレ!?」
小声で素早く問えば、ヴェヒターは胸を張った。
「ルインの手を煩わせぬためにミミズどもを移動させてきたぞ!」
褒めてくれても構わん!と誇らしげに告げる蜂に、半眼となる。
そうか、空気を読むには読んだが、斜め上のところを読んだか。……それは空気を読んだということには絶対にならない。
「下位種共は知能が低いからのぅ、説明してもぐずぐずしておったから、レーゲンが引き連れてやろうと言い出してな。それからは早かった!」
レーゲンは上位種の魔ミミズだ。
今現在、爆走している巨躯の魔蟲でもある。
レーゲンは大きい。初めて会った時、「魔蟲は普通の虫より大きいといっても、これはナイ」というのが偽らざるわたしの感想だった。
ヴェヒターがレーゲンを紹介してくれたものの、別に知り合いになりたくなかったと心の底から思った。
もしもそんなことを思うなんてひどいというヤツがいたら、じゃあお前は蜂に巨大ミミズを紹介されても悲鳴一つ上げずに抱擁ぐらいしてやるんだろうなとドスの効いた声で問う自信がある。
非常に残念なことに、最近何かと精神力が鍛えられたわたしは、気を失うこともなく、「あ、どーも、ルインです」とかなんとか挨拶したのだった。
知り合いになるのは遠慮したい、そんなドン引きな魔生物が、のどかな農村地を支配するために配下を振り分けて爆走している――――――――ようにしか見えない。
ひきつる頬で、しかしどうすることもできずに眺めていたら、ふらつきながらも鍬などを持とうとする男たちが視界の端に入った。
…ちょっとマジか…。
やめろよお前ら。これ以上のごたごたを引き起こすんじゃない。既に十分、わたしの手に負えない感じなんだぞ。
物騒な方向に進んだら困ると、焦って口を開いた。
「あ、あー!ミミズが戻って来た!」
若干裏返ってしまったが構わず胸の前で両手をぱちんと叩いて続けた。
「もしかしてヴェヒターが呼んできてくれたの?なんて良い子なんでしょ!」
うふふと半笑いのまま指先でヴェヒターの頭を撫でてやれば、周囲の人間が少し遠ざかったのを感じた。
どうしよう。とにかくこちらに気を引いたのは良いが、これからどうしたらいい。
断じてこんな事態は望んでいない。魔蟲が斜め上に気を利かせた結果をいったいどうやって方向転換させればいいのかわからない。
顔を向ければ、村人の誰もが強張った表情を浮かべていた。そこにあるのは理解できない何かに対する恐怖か、それとも嫌悪だろうか。
わたしには判別できないが歓迎すべきものではないことに変わりない。ここまで来て、魔蟲VS農村住民とかになったら、やっぱりわたしは魔蟲側とみなされるのか。
その場合、情状酌量の余地はあるのか。その可能性は限りなく低い。むしろわたしが引き起こしたと思われそう。なんて理不尽!
考えろ。考えるんだ。今この場をとりあえず切り抜けたい……!
とりあえず何かごまかそうと口を開いたけれど、そこから言葉が出ることはなかった。
地鳴りが止むのと同時に、強風が起こった。土煙が巻き上がる。思わず瞑った目を恐る恐る開ければ、こちらに向いていた筈の目がわたしを通り越し、見開いた目と口で何かを凝視していた。
先程まで地面に落ちていた己の影が、別の何かにすっぽり覆われていることに気づく。陽の光を遮られ、肌寒い気がした。
そっと振り返れば、ゆらりと佇む巨躯。鎌首もたれる蛇のようなその姿だが、赤黒い皮膚に目や鼻は見当たらない。
魔蟲の上位種。ミミズとは思えない巨躯の持ち主。レーゲンがそこに存在した。
その場に存在する誰もが動けなかった。レーゲンの巨躯がそうさせるのか、魔生物の上位種に対する本能的な恐怖からなのか。
この機を逃す手はないと感じたのは、後から考えればほぼ反射に近かったのだと思う。
密かに息を吸い込み、背を伸ばす。顎を上げる。
手を大きく動かしながら振り返れば、バサリと音を立ててローブの裾が翻った。
「これで」
思ったよりも口から出た声は震えなかった。腹の底では震えていたが。
さっきまで話そうと考えていたことなど吹き飛んでしまっているので、考え考え、なるべく短く口にする。
「皆さんの畑は元通り蘇りますね」
見開いたままの視線が集まった。ちょっと怖い。
視線を伏せ、微笑の形のまま一度口を噤んだのは、単に何を言うべきか頭の中の整理がついていないだけである。
しかし、当然これで間がもつわけがないので、仕方なく、わたしは肩に止まっているヴェヒターに視線を向ける。わたしを見上げるヴェヒターの黒い目に、テメェコノヤロウ的な気持ちを込めた視線を向けながら、そのふわふわの毛が生える首をくすぐってみせた。
時間稼ぎである。
「……後ろ、に…、いる……」
片言だし掠れていたし途中でごくりと唾を飲み込んだ音が入ったが、オーベのそれはまさしく天の助け。合いの手ともいえよう。
ああ、と、まるでなんでもないことのように声を上げる。
「皆さんの畑にミミズを戻すのを手伝ってくれたんですね。優しい子です」
そんな馬鹿な、とか、あれがミミズ?とか小さくざわめく彼らに、わたしは微笑む。
「わたしがなんと呼ばれているか、皆さんご存知ですか?」
ハッと息を呑む気配がした。
誰かが呟く―――――――魔蟲のルイン、と。
微笑みを顔面に張り付けたまま、わたしはただゆっくりと頷いた。
巨躯の魔蟲と遭遇して一歩も動けないでいる中、少ない情報をより集めて己の都合の良い方向へと向けているのであろう村人たちを、じりじりした内心を隠してじっと待つ。
わたしが魔蟲を従えているように見えるのであればそれでいい。
敵対する心づもりなどなく、手助けしただけ。危険はないのかもしれないと思われれば十分だ。
わたしは特に決定的な何かを口にしたりはしない。
元々、わたしのことが噂になっていたため、……ではなく、単に言質をとられて後々問題が起こったら嫌だから。
やがて、力いっぱい握りしめていた鍬などがゆるりと降ろされる。放心したように座り込む者もいた。
……異様な状況を異様な雰囲気でごまかしてみたら、割とうまくいっちゃったぞ。
「お金はいりません。その代わり今回の件は内密にしてください」
「何故ですか?」
最初からは考えられないほど丁重な対応をされ、顔が引きつらないように頑張っているわたしに、敬語になったオーベが不思議そうに尋ねた。
何故って?
魔蟲のルインというおかしな評価にこれ以上加わるものはなくてよろしい。
わたしは面倒事から遠ざかりたいんだよ!
農村地へ害虫駆除と称して薬剤を売った行商人だって、きっと悪気なんてなかっただろう。でも、今回の件が噂になれば、そちらへの影響は確実に出る。どの程度の規模で害虫駆除の仕事をしているのかなんて知らないけれど、仕事がダメになったら、どんな人間だってその原因を恨む。知らない人に知らないところで恨まれるのは嫌だ。
そんな内心を押し隠し、わたしは人が好さそうに微笑んで見せる。
「わたし自身は何もしていませんから」
蜂に引き続きミミズもイケるのか、と思われるのも嫌だ。害虫駆除の依頼とかまた持ってきそうなダリウスの顔が容易に浮かぶ。
「しかし、それではこちらの気持ちが収まりません」
だから後はお互い無かったことにしようじゃないか、と暗に含めたのに引き下がらないので、別の件をお願いしてみる。
「それでは、今後、無暗に魔蟲を駆除しないようにお願いできますか?」
うちの蜂たちが何か仕出かして駆除されるようなことは避けたい。知らない間にギルドに討伐依頼とか出されたら目も当てられない。魔蜂はペットですよ安全ですよな茶番を披露するのはもう嫌だ。
森を挟んで隣人だからね。先手を打って釘をさしておこう。
そんな軽い気持ちだったのに、何故かハッとした表情をされた後、眩しそうに目を細められた。
「なんと謙虚な……」
……なんか誤解されているが、愛想笑いでごまかしておく。
横でヴェヒターが「そうであろう!」と言わんばかりに興奮しているのが微妙にムカついた。
早々に話を切り上げて、わたしは家路につく。早くここから去りたい。背中に受ける熱い視線から逃れるのだ!
急いでいるのがわかったのか、ヴェヒターが「レーゲンに乗っていくか?」と誘ったが、それは丁重にお断りします。