わぁ力持ち―
「ふぅ…」
摘み取った薬草を入れた袋の口を手早く紐で縛り、顔を上げる。
「帰りましょうか」
「む?もう良いのか?」
「はい」
今から歩けば完全に陽が暮れる前に森を出られるはず。本当はもっと隅々まで森を散策してみたいが、初回でうろつくのはいただけない。また次の機会に持ち越そう。
「相分かった――――む?イルメルダがおらぬ」
「そうなんですか?」
さっきまでヴェヒターの傍にいたと思ったのに……気づきにくいんだよなぁ。
「まったく仕方のない奴よ。ルインから片時も離れぬ我を見習ってほしいものだな!大方魔素豊かな森につられてフラフラしておるのであろう。イルメルダならば置いて行っても危険は少なかろうぞ」
フンフンと語気荒いヴェヒターはイルメルダを置いていく気満々だ。あんたが落ち込んでいるときにイルメルダは気にかけてくれていたんだからな。知らないというのは罪なことだ。
しかしこのまま夜が来るまで待っていられないというのも確かだ。
「どうしましょうか……」
半透明の姿を求めてぐるりと周囲を見回したとき、ガサリと音がした。
「イルメルダか?」
ヴェヒターが呼びかけたのはわたしが落ちた辺りの草むら。そこにぬっと黒い影が現れる。
黒く堅そうな毛。くわっと開いた口から覗く獰猛そうな白い牙とだらだら零れ落ちる涎。バシバシと伝わってくるのはいっそ攻撃的なほど強い魔素。
「ま、じゅう……!?」
勝手に零れ落ちた言葉を己の耳が認識するのと同時に、薬草が入った袋鷲掴みにして駆けだしていた。
目の前には焦った様子の縞々模様の尻。それを追いかける。
背後からザザザザザザザと聞こえてくるのは風の音なんかじゃない。もっと大きくて、もっと重たいものが草を掻き分ける音だ。
「ちょ、こんな時のための護衛どこ!」
「まったくである!」
「ヴェヒター、何かないの!?」
「我は愛らしい蟲である!」
「誰がそんな事聞いたぁ!?」
半狂乱だからこその会話。息継ぎどこ行った。心臓が煩い。汗が噴き出る。足元が覚束ない。こんなのすぐに追いつかれるに決まっている。そして蜂が役立たずだっ……!
大木の陰に身を隠す。逃げ切れるわけがないのだ。覚悟を決めるしかない。
手には毒草袋。威力確認したいとは言ったが、もっと小さな対象でのんびりやりたかった。相手は、草むらに隠れて頭から上しか見えなかったが、熊…のように思えた。魔獣であるならば、普通の熊よりもずっと大きい。
じっとり汗ばんだ手の中にある毒草袋。
想定したのは、せいぜいが狼程度まで。果たして効くだろうか。いや、効くとは思う。ただ、即効性の点ではなんとも言えない。けれど。
―――――やるしかない。
視線を険しくすると、息を整える。
ザザザザ、ザザザザザザ……、先ほどよりもゆっくりと近づいてくる音に、探されているのだと思えばヒヤリとする。どくどくと耳の奥で脈打つのが煩い。できれば、あの涎を垂らした口の中に毒草袋を突っ込む―――――――!!
「ルイン!」
それは、今まさに飛び出そうとした瞬間だった。
え、何コイツ、なんでこの極限まで高まった緊張感に水を差しやがったの?という目で宙に浮かぶヴェヒターを凝視した。
「ルイン。案ずるな。……見よ」
何が見よ、だ。こちとら生命がかかってんだぞ。飛んで逃げれるお前と一緒にすんなよ!?と思いつつも前脚が指し示す方向へと視線を移す。そこにはやはり巨躯な黒い塊が――――――ん?
四つん這いになっても巨躯な魔獣。その顔の向きがちょっと傾いている。相変わらず口からだらだら涎がこぼれているけれど舌もベロンと伸びている。何より、目に光が無い。
もっと良く見ようと目を凝らすと、魔獣の頭がグラッと動いてビビった。だがそれは、下から持ち上げられたから起きた現象だった。
魔獣の頭の下――――胸の辺り。その細い脚で魔獣の巨躯を支えていた姿に驚きを禁じ得ない。
「イ、イルメルダ……!?」
あ、思わず口から突いて出てしまっただけなんで、熊ごとこっちに近寄らなくっていいです。
口にせずとも手で制したらわかってくれたのか、熊の巨躯が止まる。
ほっと安堵するのと同時に、なぜこんなことにという当然の疑問が浮かんだわたしの目の前で、平静を取り戻したヴェヒターが聞き取り調査を行っていた。
薬草採りの邪魔になってはいけないと、周辺を警戒するイルメルダは、大きな魔素が動くのを感じ取る。念のために見に行けばそこには巨躯の魔獣がいた。危険なので排除しよう。プスッと眠らせてみたところ、クフェーナがよく使う洗濯魔道具に付いている魔石と似たようなものを身体にくっつけている。あれはなんだか希少で高価なんだと言っていた気がする。そうだ、持って行こう!と思ったが、魔石を取り外すことなどできないから全部持っていくことにした。
「――――と、申しておる」
「うあああああ………、どこから何をどう突っ込めばいいんだ……。とりあえず前半部分は仕事熱心でありがたくてどうもありがとう?」
「ルインは少々混乱しているようである」
お前は生命の危機が遠ざかったら途端に強気だな!?
喉まで出かかった言葉を飲み込む。今はそこじゃない。突っ込むとこ違う。
ちらっと見やれば、半透明のイルメルダがそわそわしていた。つやつやとした身体に潤んだ瞳は儚げにも見える。熊さえ持ちあげていなければ。
熊の魔獣は眠っているだけだという。突然起きたりしないよねと確認し、恐々と近づいてみれば、身体のあちこちに大小の魔石をちりばめていた。
「なにこれ……」
これまで魔獣は何度か見たことがあるが、こんなのは始めて見る。ふと、ダリウスとの会話が脳裏に蘇った。かつて魔石が掘られていた山――――その廃坑から、稀に魔石を抱く魔獣が現れるのを狩ることがある、そう言ってはいなかったか。
「…これが、魔石を抱く魔獣……?」
”抱く”なんて可愛い感じじゃねぇぞ、これ。がっつり生えてるじゃん!
それからどうなったのかと言えば。
力持ちなイルメルダにより運ばれた熊。その姿に恐れをなしたのか動物はおろか魔獣も近づかない現状に気づいたわたしたちは、悠々と森を出た。村でちょっと騒がれたような気がしたので速攻で村を後にする。夜通し歩く羽目になったが、気にせず帰途に着いた。徹夜とかそういう問題じゃないんだよ。大丈夫だと言われてもね、いつ目覚めるかわからん熊の横で野営できるほど精神強くできてない。
熊の仕留め方なんて知らないが、そのまま放置するには惜しい。そんな理由で強行。
コルトゥラやクフェーナなら仕留めそうだなというヴェヒターの言に頷きかけたが、そんな姿を見たくない。わたしの中で、彼女らの言う乙女らしさがきっと死ぬ。
そうなると取れる道はただ一つ。
早朝のギルドの前。イルメルダがそっと熊を地面に置いてその姿を景色に溶け込ませる。
「すみませ――――――ん」
熊が起きる前に、誰かに殺ってもらおう。
他力本願?違う。適材適所というのだ。
出てきたのは茶色い髪の受付嬢。わたしを見て眉を寄せるが、おそらくはまだ他の職員がいないのだろう。不愛想に「なんの用ですか」と聞いてきたので、手短に説明する。
「シュタネイルの森で、熊の魔獣が出たから眠らせました。昼頃まで眠ると思います。仕留める技量が無いので、ギルドの方に依頼したいんです」
「はあ?」
何言ってんの、こいつ。という顔をしていた受付嬢は、外に横たわる魔獣を見て悲鳴を上げた。
悲鳴を聞いて集まって来たギルド職員の中にダリウスの姿を発見。依頼を受けた薬の調合があるから後は頼むと押し付けて帰ってきた。
丸投げできるおっさんって便利だ。