いつかきっと夜逃げする
瞼を開けて最初に目に入る天井の木目にも見慣れてきた。窓にかかる陰気臭い薄汚れた灰色のカーテンの隙間から零れる光は弱々しい。どうやらまた早朝に目が覚めてしまったようだと息を吐く。眠りが浅いのはもう仕方がないと見切りをつけて身を起こす。
毎日洗濯魔道具を使われているらしい衣服を身に着け、ササッと髪を指で梳くと階下へ降りた。
そういえば今朝は開口一番「お目覚めか!」と大きな声で騒ぐ魔蟲が傍にいなかったな。
珍しいこともあるもんだと思いながら扉を開ける。そこには、黒い何かが鎮座していた。
「……」
扉を閉める。もう一度開ける。鎮座している。また閉めた。
「ヴェヒタぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
叫んだわたしは悪くない。絶対に悪くない。
「我を呼んだかー?」とか言いつつのんびり近づいてくるヴェヒターを両手で捕らえる。
「何故我をキュッとするのだ?」
「もしもヴェヒターが関わっていなければ謝罪しますよ、ええ勿論。でもね、他に思いつかないんですよ――――――何ですか、あれ!!」
ガンッと足で扉を開けると「はしたないぞ!」とか叫ばれたけれど両手が塞がっているんだから仕方ないだろう。それよりも問題は扉の向こう。壁に囲まれた小さな部屋。そう。ここは用を足すトイレだ。
昨日までは穴があいているだけだったその場所に、今は黒くてどっしりした丸椅子のようなものが鎮座している。それだけならばまだ良い。いや、良くはない。トイレに椅子なんて置かれたくない。汚いじゃないか。いや、そうじゃなくて、その椅子、良く見れば中央部分は穴のようになっているのだが、その奥で何か蠢いている。怖い。怖すぎる。
思わず逃げ腰で後ずさったが、手の中でヴェヒターが「おお!」と声をあげたのでどうにか踏みとどまった。
「そうそう、我、頑張ったのだ!」
「家を魔改造するのにか」
つい低い声が出てしまった。こほんと咳ばらいをする。
「ルイン。我は思う。巣は清潔であるべし、と」
「それは前にも聞きました」
「そうであろう。巣の清潔さを保つそれ即ち本能!」
「……だから、それとトイレを魔改造してわたしを恐怖に慄かせた関係を納得できるように説明して欲しいんですよ」
きょとんとしたヴェヒターは、「慄いたのか?」と戸惑い、少し考えながら話し始めた。
「ご不浄というのは本来もっとも清潔であるべきだ。病とも縁遠くなる。で、あるからして我が考慮したのはまずは座る場所である。特殊な樹液と我らの匠の技によりて菌を一切寄せ付けぬ一品に仕上げたそれは、椅子型であるから今後ゆったりとした時を過ごせると約束しよう。立ち上がった際に貧血を起こすことも脚が痺れるということもないぞ!奥に見えるはとある特殊軟体生物!数多の種類から選び抜かれた割と害はないものだ!」
胸を張ろうとしたのか、もぞもぞ動いたヴェヒターがくすぐったい。しかしこの手を緩めるわけにはいかない。いや、別にヴェヒターが逃げるとか思っているわけではないが、なんというか、この場での命綱のようなそんな気がしてしまった。
要するに、あれだ、わたしが寝ている間に、我が家のトイレは特殊軟体生物とやらが蠢く恐るべき場所へと変貌を遂げていたのである。そもそも特殊軟体生物ってなんだ。聞いたこともねぇよ。未知の生物と遭遇とかもうお腹いっぱいなんだよ!いや、それよりなにより……!
「自分の排せつ物を喰らう生物の上で用を足せと…!?あんたら、散々ひとに乙女にあるまじきとかどうとか言っておいてなんだこれ!!」
「何を言う。王族のものよりも良いトイレであるぞ」
「嘘つけ――――――!!!」
「我、ルインに嘘は吐かぬもん」
何が、「もん」だ!!あざと可愛さを演出したってごまかされたりしないからな!?
王族のトイレなんて知るはずがないと指摘すれば、ヴェヒター曰く羽虫同然の魔蟲たちから聞いたと答える。
ううむ……。そう言われると否定しにくい。窓の外を通りかかったりすれば確かに…。いや待て、こいつら城とかに近寄ってんの?どんだけ遠くまで行き来してんの?
っていうか、そういう情報得られたら色々怖いよね。いや、魔蟲は人と意思の疎通ができないんだし問題ない、のか?あれ、意思の疎通ができちゃうヴェヒターって情報収集という意味で物凄く危険な―――――いや。わたしは何も気づいていない。考えていない。
己の身の丈以上の知識を得てしまった場合、たいていろくなことにならないと決まっている。己の身を守るためには、最初から聞いてない、気づいていないという選択肢があって良い。うん。むしろそれが正解だ。
「…というように、王族共は単なる木の便座をこしらえさせて使用しておるとか。すぐに腐れ落ちるばかりか雑菌まみれに違いない。上に立つ者としてなんとも嘆かわしい。あるまじきことよ。しかしルイン、我は視点を変えてみたのだ。臨機応変に対応する。素晴らしき我」
脳内で今現在気づきかけたことにしっかり蓋をしたところで、ヴェヒターの長い話が一旦途切れていた。え、なに?なんでいま自分を自分で褒めたんだこの蜂。
その蜂はきらきらした黒い目でわたしを見上げている。
「これでルインは王族よりも上!いや、我が手掛けた至高の作品であるからして、この世で唯一無二最高に座する存在であるぞ!!」
頭を逸らせ、偉そうにしている蜂が手の中にいる。わたしはひどく冷めた目をしてそれを眺めた。
「いや、トイレだろ」
トイレ事情で誰かと競わねばならない必要性など生まれてこの方持ったこと無い。
溜息を吐き、ヴェヒターに「元に戻してください」と頼んだ。
「えー」
「えー、じゃありません。これでは来客があったときに困るじゃないですか」
「便利なのに!」
「便利でもです」
「下肥業者に依頼せずとも良いのだぞ!」
ぐっと言葉が詰まった。
排泄物は、季節ごとに下肥業者に頼んで回収してもらうか自分で運ばなければならない。下肥業者はそれを畑にまく肥料に利用しているらしいが、奴らが親切な顔を見せるのは良い物を食べて良い肥料になる排泄物を出す富裕層だけで、平民は歯牙にもかけない上に足元見やがる。手痛い出費である上に、奴らに支払うことにいら立ちを覚えるのも確かだ。
……いや、ダメだ。このままでは来客があったときにトイレを貸せない家になってしまう。
何より、勝手な魔改造を断固阻止しなければ、第二第三の魔改造の予感がする。
だってわたし、一応管理人という名目でここにいるんだよね!
「そういうわけで、特殊軟体生物も元の場所に返してきてください」
「ううむ…。ちゃんと戻せるかのー」
「…どれだけ遠くから調達してきたんですか…」
この蜂はほぼわたしと一緒にいたのに、いつ調達してきたんだ?そんな遠くから?
「うーむ、失敗したら生態系を崩壊させるかもしれぬが…、……まぁ遠くに捨てれば良いか!」
「ちょっと待て」
いま、聞き捨てならないことを言ったな?言ったよな?
「あっ、なぜ更にキュッとする?微妙に苦しい」
「……まさかさっきの『割と害の無い』の『割と』って、そこにかかっているんじゃないでしょうね…だとしたらわたしはあんたと意思の疎通ができるという前提を覆すからな?同じような言語を扱うけれど実は全然違う意味でした的な落とし穴があったとみなすぞコラ」
「おおう…、ルインの口調が崩れておる…、だが安心召されよ」
ぺしぺしと細い脚で手を叩かれ、正気を取り戻したわたしは力を緩めた。
「ちぃとばかりここらの環境と相性が良すぎたようでの、だが、我が作った特殊樹液製の椅子の中にいる限りは大きくならぬし最低限の活動しかできぬ!元いた場所にちゃんと戻せればなんの問題もないが、ちょっと間違えて世に解き放たれれば空気中の魔素を吸い上げ巨大化し、縦横無尽にすべてを喰らいつくすこと間違いな…イタたたたたたたた!?」
べしべしべしべしとヴェヒターの脚が手を叩くがギリギリと力が入るのが止められない。それは騒ぎを聞きつけたコルトゥラとクフェーナが来るまで続いた。
こうして、我が家に魔改造されたトイレが出来上がった。
……わたしには、勇気がなかった。万が一、生態系が狂うような生物が世に解き放たれたらと思うと夜も眠れないじゃないか。わたしは繊細にできているのだ。
繊細にできているので、最初のうちはトイレで用を足すのが本当に怖かった。しかし、人は成長する。成長……あるいは慣れ。そうして今日もわたしは用を足す。
「……意外と便利だ…」
思わずぽつりと零してしまってからハッと周囲を見回す。……良かった、どうやら聞かれていないようだ。
下肥業者を呼ばなくても良いし、清掃しなくても綺麗なまま。ヴェヒターの魔改造は確かに便利だと認めざるを得ない。
しかし大きな声では言わないし、伝えるつもりもない。トイレを使用するときは、いつでも気難しく、気に喰わないという表情を崩さない。これ以上家を魔改造されないため、そして未確認危険生物を持ち込まれないための布石。
来客があった際、我が家のトイレが使用禁止となる予定は確定だ!と半ばやけくそになって叫んだりもしたが、冷静になった今なら言える。
「……そもそも、家に人を入れる日はきっとこないな……」
室内をわんさか飛び回る蜂たちを見て、遠い目をした。
本来の持ち主が現れる日、きっとわたしは夜逃げする。