アリアとスコット
本の国ルヴィエール、その王都モザニカには世界中の本が集まるという。
「……期待外れだね」
モザニカの世界に誇る中央図書館を後にしたアリアは小さくため息を吐いた。人のごった返す町中を歩きながらも彼女の手には一冊の本が開かれているが、アリアはまるで目がもう一対あるかのように活字を追いながらも人並みを器用に避けていた。
アリアは本の虫だ。生まれ育った学問の町ソリティエで司書として2年過ごした。流石に学問の町と呼ばれるだけありソリティエの図書館にも膨大な蔵書があり、毎日それは増え続けていたが彼女はそれをすべて読みつくしてしまい王都へ足を運んだ次第だ。
小さなアパルトメントの一室にたどり着く前に読み終えてしまった「創世の賢者デオルギス」は、アリアの手によって丁寧にベッドの横に置かれた小さな机へと置かれた。鞣した獣の皮を夜闇で染めたような深い青の表紙の中央には、同じ色をした大きな魔石が爛々と輝いている。
その見た目からしても豪奢な本には、創世の賢者デオルギスの生涯が面白おかしく描かれていた。オルタナ・デオルギスはアリアの生まれるよりずっと前ではあるが実在した人物だ。平均寿命が50そこそこのルヴィエールで、魔術に優れた彼はその倍近い年月を生きたらしい。
その本曰く、デオルギスが生まれた日、彼の魔術素養を恐れた悪の禁術使いが呪いを放ったが生後数時間の赤ん坊はそれを見事無効化しただとか、5歳で火の精霊王から神託を預かり友好を結んだだとか、初めての戦場で見習い魔術師として100万の軍勢をたった一人で打ち滅ぼしただとか、とにかくまあ、すごい人物らしい。
とはいっても、ルヴィエールではここ300年ほど他国との戦争は起きていない。デオルギスの戦果は精々数十人の盗賊を捕縛したといったものが、脚色され誇大描写されているだけなのだろう。
アリアは重い鞄を背中からおろし、中にみっちりと詰まっている本たちを机の上に積み上げた。その本たちは「創世の賢者デオルギス」とは違い大きな魔石こそついていないが、頑丈な革で作られた表紙には金細工だったり小さな宝石で装飾されている。
彼女はその中の一冊、「ルイス・オーコット ~王都のパンを変えた革命家~」という小さなパン屋の息子が主人公の本のページを開いた。
この世界では、生きとし生けるものはいずれ本になる。
体から魂が離れると、その入れ物は灰のように崩れ去りその場に一冊の本が遺される。その本には死者の生涯がドラマチックに描かれている。例えば、犬を追い払った彼は狼の群れから村を救ったことになったり、金持ちの商家へと嫁いだ娘は美しい王子様と恋に落ちたり、卑しいコソ泥は天下の大怪盗と呼ばれたり。
馬鹿馬鹿しいほどに脚色されたそれを、人々は神様の加筆修正と呼んだ。
□
スコットには新しい日課のようなものが出来つつあった。騎士仲間たちにはやし立てられながらも、普段着ているものより数段粗末な服に袖を通してでも、その店に通う価値はあった。
扉を開くと上部に取り付けられている金がカランと鈍い音を立てる。上背のあるスコットはその扉をくぐるには僅かに頭を下げる必要があったが、彼は危なげなく慣れ切った所作でその小さな扉をくぐった。トマトの果実を煮潰したスープの香りと共に、香ばしく焼ける肉の匂いが暴力的なまでに彼の鼻孔へと飛び込んでくる。彼は泣き叫ぶ腹の虫を己の腹筋で抑え込み、目的のものを探した。
――いた。
「もー、アリア! 食事中くらい本は閉じて」
「うん、わかったわかった」
この定食屋の看板娘エミリーにとがめられている黒髪の少女。スコットはその少女に会うために昼食時にはここへ足を運んでいる。
――アリアと言うのか。
彼は初めて知れた意中の少女の名を噛みしめるように心の中で反復した。
スコットが通うようになってから得た情報では、どうやら彼女はエイミーと仲が良いらしい。勤勉なのか、いつも違う本を抱えていて食事中ですらそれを手放すことはない。年頃の少女には珍しく肩口で切りそろえられた髪は薄暗い照明の光を浴びて天使の輪を作っているし、か細い腕はスコットのような大男が掴んだら折れてしまいそうに細い。少し鋭い瞳は本を捕らえて離さず、知的な彼女を彩る小道具のように彼女の傍にはいつも本があった。
名を知れた喜びから緩みそうになる頬を引き締め、スコットはごった返す店内でアリアがよく見える位置に腰を下ろした。見知らぬ少女をこうしてつぶさに見つめるなど、騎士として恥ずかしい行いであるとスコットは自覚している。しかし今、自分の誇れる唯一の騎士という身分を脱ぎ捨てたスコットは、気になる町娘に声をかける勇気を持ち合わせていなかった。
「適当に、任せる」
「はーい、わかりましたー!」
愛想のいいエイミーに声をかけると、彼女は見知った常連の注文に花のような笑みを浮かべ明るい声で注文を通す。そしてやがて運ばれてくる食事に舌鼓を打ちながら、スコットは本に夢中で手が止まっている彼女をこっそりと盗み見るのだ。いつか幸運にも彼女との接点ができる、その日まで。