アンジェラ
華奢で素朴で官能的。
まやかしのフェロモンを漂わせる誘惑はあまりに凶暴で、豊満で、セックスアピール欠落している。
そこにあるのは、恐怖と優しさ、そして、圧倒的な魅力である。
「お……おう」
ぎこちない呼び掛けはいつものことだ。問題ない。
だが、ここからは大いに問題となるであろう。
「おうよ!」
元気でカラッとした声。相変わらずの理想のヒトだ。
しかしながら、
「あ……あのさ、アンジェラ」
僕らは新たな関係を築いていかねばならない。もはや彼女は僕の妄想ではなくなる。それは確かに僕が望んだことでもある。
恐らくは人生始まって以来の大胆な我侭を押し付けることになるのだ。ここは、男らしく、ガツンと、愛情を盾に斬り込もう。
「ねー、お腹すいた」
ガツンと、
「何が良い?」
言ってやったさ。
「食べにいこ? こじゃれたトコ」
投げやりで、軽妙で、爽やかな脅迫。
「僕にお洒落さを求めるのか?」
そんなまさか。
「頑張って!! ほらっ!!」
上着を手に取り、財布をポケットに押し込む。
「頑張ります」
ビシッと敬礼。納得の顰め面。
「行くよ」
男の3倍準備の早い彼女はもう玄関に向かっている。
僕は服飾を整えつつ、小走りであとを追う。
不思議なことに、何故だか一瞬、後姿に衰えが感じられた。
心臓が不規則に大きく振動し、不安を隅々まで循環させる。
それに応じる拒否感や不快感は皆無で、厳かな儀式が持つような浄化が少しずつ侵食する。
多分、この一時はとても大切にして上げるべきなのだろう。普段は気にしていない些細な言動やら風景やら感情なんかを一つ一つ体のどっかしらに焼付け、丁寧に包装し、見知らぬ土地に置いてこよう。大事な大事な忘れ物をせねばなるまい。襟を正し、呼吸を整え、遊び心を鼻歌に込めて、スキップする。
「お待たせしました」
参りましょう。
「期待してるから」
僕が苦手なことを良く分かっていらっしゃる。嬉しいことに。
「おうよ!」
任せてください。
さて、何処へ向かおうか。こじゃれた所で空腹を満たせるのが要望ではあるが、尚且つ、僕が彼女に真剣な話が出来る場所でなくてはならない。これは我侭だ。僕は我侭な方ではあると思うのだが、当の本人は我侭に苦手意識がある。ここぞと言うときに押し通す傲慢さが決定的に足りていない。そして、恐らくその身勝手さが無ければアンジェラは納得してくれない。だからこそ、この時、この瞬間は、全力の我侭をやんわりと押し通そう。
それはアンジェラに認めてもらうもの。
それはアンジェラを満足させるもの。
それはアンジェラが望んでいるもの。
しかしながら、その結末が望まれているかは分からない。ただ、それが自然なことだと思える制御力の元にあるのだと思われた。そんな歩みが不器用に僕を後押しする。
辺りはすっかり暗くなっていた。僕とアンジェラの企みが交差する中で折り合いをつけてくれそうな場所を探すとしよう。子供っぽい夜の町は寂れた賑やかさに彩られ、良い感じの男女を誘いこんでは効率的な幸せで心を温めていた。そこは、あまりに甘く、優しく、居心地が良すぎるために真面目な顔を維持できる自信がない。訪れるべきは、何か食べれて、雰囲気お洒落で、意外に普通な憩いの場だ。
「ふーん」
少し不満気な表情ではあるが、機嫌が悪いわけではなさそうだ。
上手くいったのかどうか曖昧なあたりは僕らしさと言えよう。
尤も、僕自身は大真面目に選んだ場所ではあるけれども。
「……駄目……かな?」
恐る恐る聞いてみる。怖がっているわけではないが、恐れ敬い下手に出るくらいが丁度良い。
僕が望んだ格差であり、身分の差であり、上下関係だ。
「良いわ……とても」
何と、まさか、そんなはずは。
否、とても良いことなのだが、何とも現実味を帯びないその言葉は僕の真心を通り抜ける。
「だろ!?」
どんなもんだい。自信をもって浮き足立った返事をしよう。
「……似合ってないけど」
すいません。
訪れたのは子供があこがれる大人をイメージした何だかアダルトっぽいノンアルコールカクテルバーだ。お洒落な雰囲気がプンプンする空間は一度はこんな所で格好つけて飲んでみたいと思わせるものである。一応アルコールも飲めるのであるが、メニューの半分以上はノンアルコールのカクテルになっている。
「よしっ! 何か頼んで!」
やけにテンションが高い。
「お……おう」
さて、何を選ぼうか。お腹がすいていると言っていたので、それなりに空腹を満たしてくれるものが良い。ただ、それ以上は何を選べばいいのかサッパリだ。飲み物も食べ物もメニューが豊富で何を選べばよいやらサッパリだ。
「すいません」
とりあえず、マスターを呼んでみる。
「はい」
とりあえず、オススメを聞いてみると言うのはどうだろうか。「1万円で」と値段だけ指定してお任せしても良いかもしれない。否待て、それではあまりに投げやりで、適当にすましている感がでてしまう。恐らくアンジェラも今から僕が何を言おうとしているのか気づいているのだ、この時間は大事にしてやらねばならない。
「どういたしましょうか」
とりあえずで呼んだのは間違いだったかもしれない。ちゃんと考えておくべきだった。尤も、考えて導かれるものはアンジェラの望みに応えられることは稀である。どちらかと言うと、勢いで当たって砕けろ精神が望ましい。
「何か、良い感じのを2万円で。あ、お腹すいてるから食べるものもそれなりに。あとはお任せします」
雑な要望。
「かしこまりました」
余裕の表情。頼もしいね。
「何その適当な注文。ちゃんと頼んでよー」
いやいや、
「僕には無理です」
なんでもない会話が何だかカウントダウンらしきものに聞こえてくる。待ち望んでいるのか、名残惜しんでいるのか、不自然に淡々と時が費やされる。
言わなければならない。
例え、相手が全てを承知していたとしても。
言わなければならない。
結婚してください!
は、少し違うが、完全な間違いとも言い切れない。
そう、僕はアンジェラと妄想としての結婚を見出したい。
妄想同士の関係性を創発したい。
静的ではない。
制的ではない。
性的ではない。
否定の言葉で形容されるそれを僕は手にしたいんだ。
そう、僕は、えーっと、何だ……。
その辺にしときな。
そう、その辺に……。
「恥ずかしいから」
あれ、もしかして……、と言わんばかりの表情をしていたと思う。
アンジェラは無言で微笑みながら首を揺らす。
全力の心の声は心の壁を越えて羽ばたいていたようだ。
「あの、まあ、そういうことです」
しかしながら、ここで踏みとどまるわけには行かない。それを言うために僕はここにいるのだ。むしろ、今の勢いで走りきってしまえば良いのではないか。
「そう、そうなんだ」
身を乗り出し、真正面から、全力全開。
「……」
一瞬驚いた表情を見せるが、それは本当に一瞬で、もしかしたら、僕が勝手に彼女の表情を想像したのかもしれない。次の瞬間には無表情、その次には含みのある笑みを見せ、
「分かった、分かった。
分かったから、今日は飲むよ」
一気にカクテルを飲み干した。
喉越しは爽やかだった。
朝までやったるぜなノリがあったのではあるが、3時間程度、飲んで、食べて、喋って、そして、家路に着いた。お洒落とは言いがたいはしゃぎっぷりではあったが、それなりに楽しんでもらえたようでよかったと思う。これでもう、問題ない。否、問題は山済みであるが、留まることはない。何せ、既に覚悟は決まっているのだから。