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――魔竜大空洞。
ファーブニルが座す第四エリアは、そんな別称を持っている。
そこは『バルベロー空中庭園』の広大な7つのエリアの中では最小の面積しかない。
それでも、100人ほどは難なく入って、かの守護龍と戦える程度には広い。
が、攻略目的でこのエリアに侵入した人々なら言うだろう。「あんな狭い場所にアレを配置するとか悪魔か」と。
かつて800人のプレイヤーによる攻略隊が乗り込んできた時には、その面積の狭さが最大限に仕事をしたのだ。
大空洞の中に入れる100人程度で、ボスエネミーとしての耐久力と反則的な攻撃範囲、DEF特化のディフェンダーでなければ支えきれないほどの火力を兼ね備え、一切の状態異常を無効化するファーブニルと戦うことは並大抵の事ではない。
最も狭いエリアをかの守護龍が任されている理由は単純な二つのものしかない。
ひとつは、他のエリアのように罠を配置するなどの小細工が必要ない事。
もうひとつは、前述の理由で、狭いほうがかえって攻略に苦慮するからである。
事実、カンスト者を含む高レベルで固められていたはずの800人の攻略隊は、その半数近くをこのエリアだけで失った。
その後の結果は言わずとも知れよう。全てのエリアを見ることすらなく、彼らは全滅したのだ。
だが、それでも彼らを褒め称えるべきだろう。
この空中庭園への挑戦者は数あれど、他にファブニールを突破したのは、6つの内5つまでの宝珠を手にしながらも、その人数故に統制を欠いた結果撤退した、2000人からなる大攻略隊だけだったのだから。
乾いた洞窟内に、二人分の足音だけが木霊する。
そう遠くない場所に、龍はその身を横たえている筈だ。
その巨大な爪や牙の犠牲となる侵入者を、今か今かと待ち構えながら。
「お嬢様。念のため調教の鞭を」
「ええ、そろそろね」
トモエは暗い中空に手を差し出した。彼女はヴァンパイアの暗視スキルによって、アヤトは装備品の効果によって、それぞれ暗闇を見通せるが、そうでなければこの場所では歩くのにも難儀したことだろう。
彼女の手が空間のひずみのようなものに触れると、引き戸のようにして透明な棚が開く。
各種スキルと同じように、アイテムボックスもコンソールなしで使用可能だと気づいたのはトモエが先だ。
アヤトと離れていた間に、色々と試していたらしい。
透明な棚を引っ掻き回すこと数秒。目的の鞭を取り出すと、彼女は開いた時と同じようにそれを閉じた。
「そういえば、ねえアヤト。課金アイテムって、今後補充できるのかしら」
「それは……なんとも言えませんね」
エネミーを調教して自らの下僕とするこのアイテムは、イベントなどの期間と個数限定な入手機会を除けばもっぱら課金によって手に入れるものだ。
効果を発揮するのは1つにつき1度きり。強敵を倒れるギリギリまで弱らせて成功率を上げても、確率判定に失敗すれば何も起こらず消滅するという世知辛い仕様だが、上首尾にも高レベルエネミーをテイム出来た時の恩恵は絶大だ。
その一例が正に今、二人が訪ねようとしているファーブニルである。
調教に成功した場合に限って、調教の鞭は一種のコントローラーとなるので、今トモエが取り出したのは当然、かつてファーブニルを調教したものだ。
銀色の持ち手の“fevnir”という刻名がその証である。
さて、ゲームが現実になってしまったのなら、課金アイテムもこのダアト世界内の貨幣で購入できるとも思える。
しかし、実際のところは街にでも出向いて店を回ってみなくてはわかるまい。
貨幣については、身につけている財布とギルド内金庫に数えきれないほどある事は確認できた。
視界を埋め尽くしてなお足りないほどの金貨。それに倍する量の銀貨。それらに比べれば申し訳程度の銅貨。
ゲームであった頃は電子的なデータのやりとりのみで買い物ができたものだが、実物になると持ち運びに不便である。
アイテムボックスに入れられるか試してみたところ、入ることは入った。
だが一見物理法則を超越しているようだった透明な棚にも量的制限があったので、空中庭園の外に出るにあたっては、持ち運ぶアイテムを改めて吟味せねばなるまい。
「まあ、なくなったらその時考えましょう」
「ファーブニルが友好的なままであれば、それが一番よいのですが」
そうでなかった場合、アヤトは主を連れて撤退するために、死力を振り絞らねばならないだろう。
二人のみでもファーブニルを倒すこと自体は可能だ。少なくとも、ゲーム中では可能だった。
しかし、ゲーム的な処理そのままに戦闘を行えるかと問われれば、いくらなんでも否だ。
今は、攻撃を受ければ強烈な痛みがある。
毒霧のブレスを受ければ――アヤト達は毒を無効化する装備を身につけているが、そうでなければ――呼吸器や皮膚に明白な異常が起こるだろう。
それらは全て、十全な動きを阻害する要因になる。
ゲームが現実になったと言っても良い状況だが、何もかもをゲームと同じに考えるわけにもいかないのだ。
数々の装備品によってダメージの大部分を抑えることができるとしても、痛みや生理反応に関してはおそらくどうしようもない。
結局のところ、現在のファーブニルが敵対的でないことを祈るばかりだ。
と、先導していたアヤトの足が止まる。合わせて主の足も止まった。
〈光球〉が照らしだしたのは赤黒く濡れ、光を照り返す龍鱗の群れと、それらが纏わりついた巨大な後足だった。
アヤトの身長を倍にしても、その足ひとつの長さに足りていない。
名剣の刃すら弾くその鱗に覆われていないのは、紅に光りこちらを睥睨する眼球と獲物を引き裂く爪ぐらいのものだ。
邪龍ファーブニル。エネミーレベル150を誇る、バルベロー空中庭園最強のNPCである。
「ファーブニル、お前の主がやってきたぞ。挨拶はどうした」
アヤトは問いかける。このファーブニルは、かつて人語を解し無数のセリフを話すボスエネミーだった。
これまでの事例に照らせば、会話は可能なはずである。
……しかし。
「オ、オオォ……」
ゆっくりと、その前足が振り上げられ、瞬間に長大な爪が振り下ろされた。
主の腰を掴み、跳躍することでアヤトは身をかわした。
「お嬢様、鞭の効果がないようですので一時撤退します。よろしいですね?」
「まったくよろしくありません」
従者にとっては当然の提案を、しかし彼の主は無碍に却下した。
その間に、弦のようにしなる、大木のように太い鋼鉄の尻尾が迫って来た。
片手でその尻尾の上を撫でるようにして飛び越える。
執事系統のクラススキルの中には、〈主従の誓い〉という条件付きのステータス強化能力が存在する。
主と認めた相手に承認を得ることで、そのプレイヤーから一定距離内にいる限り常時発動、全ステータスをかなりの高数値上昇させるが、条件を満たしていない間は逆にステータスが下がるという諸刃の剣。
アヤトが主従の誓いを交わしたのは、当然ながらトモエである。
よって現在はスキルの発動条件を満たしており、高水準のステータスによる回避率を発揮しているのだ。
「戦いなさい、追い詰めなさい。再びあの子をわたくしの配下に加えるのです」
死んでしまえば、ゲームのように復活できるかどうかわからないというこの状況で、その判断はまともとは言えなかった。
しかし、こう言われてしまえば、従者としてアヤトの返答は決まっていた。
「御意に、お嬢様」
どこまで戦えるものかはわからない。
しかし力の使い方を、アヤトはこれまでのわずかな経験でつかみ始めていた。
ゲームを超えて、生身のそれと全く同じように。
指を鳴らして合図とし、扉を開く。
無数のカードが格納された、彼にとっての武器庫。
〈道具切札化〉のスキルが適用された魔剣・宝槍・神弓の類――が描かれた札の数々――が空間のひずみの中から飛び出す。
〈デック・ボックス〉というカード化されたアイテム限定の所持数拡張キットに詰め込まれたそれらは、〈切札投射〉《カード・シュート》とその補助強化スキルによって目にも留まらぬ速度で次々と撃ちだされ、ドラゴンの頑強な鱗を貫き突き刺さっていく。
龍は悲鳴のように咆哮を上げた。
今カードの形で射出したのは、その全てが〈対龍特効〉性能を持つ高威力の武器だ。流石によく効いたと見える。
主に「貴方、トランプとか使って戦いそうな顔してるから、そうしなさい」と言われるままに、キャラクターを成長させていった結果がこれである。
一言で言えば、トランプのようにカード化した武器を投げつける。ただそれだけだが、そんな事を専門にするクラスをご丁寧に用意してくれていたセフィロトの開発陣には脱帽するやら呆れるやら、アヤトとしても複雑だ。
この攻撃方法は瞬間火力に優れているが、必要スキル数の多さや金銭効率の悪さから敬遠されがちである。
なにせ武器に対する〈熟練〉《マスタリー》を必要とせずどんな種類の武器でもカード化すれば使える代わりに、投げた武器は高確率で壊れてしまうのだから。
その確率を低下させるスキルや、回数限定で破壊判定自体をキャンセルするカード強化アイテムもあるが、そこまでしても壊れるときは容赦なく壊れる。
「〈切札回収〉」
事実今も、32枚ほど射出した内、カード保護をつけていない4枚のカードの中身が壊れて〈空白札〉に戻った。スキルを用いてそれらのカードを瞬時にデックへと回収する。
その隙を縫って、ファブニールが一呼吸に繰り出した爪、牙、尻尾の三連撃もトモエを抱えたままいなし、そしてかわし切った瞬間にすかさず〈対龍特効〉武器のカードによる射撃を加える。
ふとファーブニルの頭上に目をやる。そこには何も映しだされていないが、かつてはその膨大なHPがゲージとして表示されていたものだ。
一見、アヤトが圧倒しているようだが内情は異なる。
まず、こちらは一撃でも攻撃を貰えば瀕死。二発貰えばほぼ確実に死ぬ。戦闘型スキルが少ないトモエに至っては一撃で即死確定だ。
マスクデータ視覚化スキルを持つトモエになら、今も敵の残り体力が見えているかもしれないが、数値で見えていたとしたら1000分の1も、下手をすればそのさらに100分の1も削れてはいまい。
その膨大なHPは、純粋なエネミーであった時よりは大きく低下している――テイムを受け付けていない今、かつての領域に戻っている可能性大である――ものの、それでも|Player Character《PC》など及びもつかない域にある。
PCに許されたカンストレベル99を51も上回る、ボスエネミーならではの規格外な耐久力だ。
だが、アヤトは努めて冷静に攻撃と回避を繰り返す。
今はまだ、楽な方なのだ。極めて作業的に削っていける。
奴のHPが一定まで削れた時――その攻撃パターンは変化し、より多彩で強力になり――そこからが本番と言えよう。
いわゆる発狂モードというやつだ。
ファーブニルのような龍型のエネミーのそれを指す場合、慣用句を引用して逆鱗モードなどと言ったりもするが、その際には攻撃回数の増加はもとより広範囲攻撃魔法やブレスが加わり、そしてさらに凶悪なことにHPが半分以下になってからは自動回復までし始めるオマケ付きである。
「トモエ様。武器の補充をお願いします。瀕死に追い込むにはとても足りません」
「あらそう、しょうがないわね」
ギルド内の商人NPCから武器を購入し、それを即座に仲間に受け渡す事もできる〈影の調停者〉クラスのスキルをトモエは使用した。
アイテムボックスに投げ込まれたそれらをアヤトは感覚の目で見て取り、片っ端からカード化して〈デック・ボックス〉に放り込む。肉体ではなく精神と、第六感のような魔法的感覚を用いた行動だった。
スキルを使用する、という感覚に二人共もう慣れきっていて、まるで生まれた時からそれを知っていたかのように使いこなしている。
「てーいっ!」
と、果ての遠い死闘を続けていたアヤトの背後から間の抜けた声がした。
体ごと突進してきた短剣が、背中に直撃する。鋭い痛みと流れ出す血の湿り気を感じて振り返ると、そこにはライヒが居た。
アヤトの命を狙うメイドが、機会を逃さずやってきたというわけだ。
「ぐっ……」
しまった、まずい。
あの館から動かないものと無意識に決めつけていたが、そんな事はない。
一個の人間として意志を持って動き始めた彼女が、勝手な行動を取ることは十分に考えられる事だった。
彼女の攻撃力はそれなりの数値に設定されていた記憶があるが、アヤトの方がレベルで遥かに上回っている。刺されたところで死にはしない。現に今も、内蔵に達するほど深く刺さったりはしていないようだ。
だが、タイミングが最悪だった。もちろんメイドはその最悪の時を狙ってこの突撃を決行したのだろうが、爪、尻尾、毒霧ブレス、火炎ブレス、〈火球〉というフルコースが一瞬硬直したところに降り注いだ。
「トモエお嬢様っ!」
己が主に覆いかぶさるように、その身で全ての攻撃を受け止める。
とっさにカード化された鎧などの防具を盾にしたが、果たしてどこまで効果があるか。
大空洞内部を、爆炎が広がった。