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――長い回想は、実際には一瞬で胸の中を過ぎ去った。
そう、西園寺巴は彼にとって何より重い。彼女の前では自分の命すら塵のごとしだ。
アヤトは現状に対処すべく思考を回し、言葉を紡ぐ。
「アイテムボックスは使えませんが、ギルド倉庫の中にあるGMコール可能なアイテムを直接使用しましょう」
それは実際、理に叶った提案だった。取得コマンドを使ってアイテムを入手すればアイテムボックスに自動的に入り、その中のアイテムはコンソールから呼び出さなければ使用できないが、落ちているアイテムを取得せず『使う』事はできる。
そうすることで、GMを呼び出し運営側から現状を教えてもらうのだ。
「ふうん。いいんじゃないかしら」
おそらくはそれが上手くいきそうな手法だったからだろう。主は露骨につまらなそうに口を尖らせた。
そんな彼女に何かを言おうとして、アヤトはふと背後に気配を感じて振り返った。
そこに居たのは、一人のメイドだった。カートの上にティーポットを載せている。
「なんだ、ただの……」
NPCか、と言いかけて絶句する。
呼びつけない限りこの場にNPCはやってこない――それもある。
ティーポットを運ぶようなNPCはこのギルド内にいない――それもある。
だが、最も彼を驚かせたのは、メイドに気配を感じたことだった。
〈敵感知〉という敵対NPCの気配を知らせるスキルは確かにある。
だが、それは気配という名のゲーム音声による通知であり、現実に「気配を感じて振り向く」という事はありえない。
【敵の気配を感知しました】と、そんな無機質なメッセージで知らされるだけだ。
だというのに、今アヤトは何のシステム作用もなく、NPCの気配を感じ取った。
まるで現実そのもののように。
「トモエ様、お茶を持ってまいりました」
メイドのこの発言には、アヤトのみならず彼の主も驚愕の表情を浮かべた。
そんな発言は、システム上組み込まれていないからだ。
このNPCはただ単に屋敷の中で待機し、入ってきたギルドメンバーに恭しく挨拶する。
あるいは、呼びつけた場所に移動し、そこでギルドメンバーを見かければ同じようにする。それだけの存在だ。
自分から移動したり、挨拶以外の言葉を口にするように設定されてはいない。
「そう。ポットを置いたら下がって構いません。後はアヤトにやらせます」
「かしこまりました」
そう滑らかに返答し、指示通りに紅茶の入ったポットを置いて、一礼して館へと戻っていくのを見送る段に至っては、最早驚きも限界を超えて無反応に等しくなっていた。
NPCが指示通りに動く。プログラミング次第でそれはあり得る。
あり得るが、それはあくまで事前にそのようにプログラミングしている事が大前提だ。
セフィロトではギルドで所有できるNPCもカスタム可能で、それなりの知識があるものが弄れば自由度は高い。
マスターマインドにもそのような技術を持つプレイヤーは確かに居るが、彼らは皆トモエの言いなりであり、彼女に断りもなくNPCのデータを弄るようなことはしない。
では、今起こったことはなんなのか。
「……予定されていたアップデートが、適用された?」
それは一聴して、ありそうな線に思えた。
大胆な革新的内容だが、10周年記念のものとしてはインパクトがある。
一見会話が成立しているような、多大なパターンにおける行動をプログラムされたNPC。
「楽しい、いえ残念なことに、それはなさそうよ」
しかし、アヤトの主は彼の言葉を否定する。
新たにルビー色の、香り高い液体が注がれたカップに口をつけながら。
「飲んでみなさい」
と、自分で口をつけたカップを差し出してくる。
その意図をアヤトは瞬時に理解したが、脳内の常識がかぶりを振っていた。
「頂きます」
その液体を飲み下すと、口中に広がったのは馥郁たる香りと芳醇な味わいだった。
甘みの中にかすかな苦味と渋みがアクセントとなって口福をもたらす。
日頃から最高級のものを、と実家でも西園寺家でも口にし吟味してきたアヤトが認める。素晴らしい紅茶だと。
VRゲームにおける味覚再現が法律で規制されているという事実を思い出さなければ、実によい体験だと思ったことだろう。
法が突如変更された? まさか。
「味覚に関する法規制が解除されるという話は聞いたことがありません。わたくしが聞いたことがないということは、つまりそんな事はあり得ない。そうでしょう?」
そのとおりだ。西園寺家当主たる彼女が見たことも聞いたこともない法案が、国会の審議を通過するわけがない。
「つまり、ねえ、アヤト。これはやっぱり、そういう事だと思わない?」
「……あり得ません。それは、あまりに現実離れしすぎている」
「どうして? 今わたくしたちが体験した事がすなわち現実なのだから、認める他ないでしょう」
楽しそうに、この予想外で、思考の外で、それ故に未知なこの状況を、彼女は言葉にして紡ぎだす。
「――ゲームの世界が現実になった。ああ、なんて素敵な響き」
多くの人間が夢に見た事が、今起こっているのよ、と。
心底喜んでいる彼女を祝福する気持ちが、アヤトの中にはどうしても湧いてこなかった。
■□■□
ギルド倉庫に置いてあるアイテムを通じてGMコールを行ってみたが、やはりと言うべきか、誰に繋がることもなくその行為は無意味に終わった。
また、屋敷内にある食べ物で味を感じるかどうか試してみたが、結果は同じだった。
確かに味覚が存在する。
これはVRゲームの常識としてあり得ないことだ。
そもそも味覚の高度な再現が規制されている理由は、現実に最初期のVRゲームで餓死者が出たからという一点につきる。
排泄物を垂れ流したまま、胃の中をからっぽにした遺体と、その現場写真の流出は世界に衝撃を与えた。
味覚を満足させ続けた結果、満腹中枢が食事を済ませたと勘違いし、結果としてログアウトして休憩と食事を行うという当たり前の行動をしなくなったのだろうと推測された。
一時は各国でVRゲーム廃絶論も巻き起こったという。教科書にも載っているような大事件。
それは巴は勿論、アヤトも生まれる前の出来事ではあったが、一連の流れを常識的な知識として持ってはいた。
故に信じがたく、常識が理解を拒んだ。
だからアヤトはさらに確かめてみることにした。
「ライヒ、こちらへ来てくれ」
屋敷内で手近に見つけたNPCを捕まえ、話を聞く。
会話は成立してしまうものとして行動していた。
とにかく、情報を得なければいけない。これが単なるエラーなのか、それとも本当に――。
「はいっ、なんでしょうアヤトさん」
メイドは元気良く返事をして寄ってきた。
やはり、会話が成立している。機械的な返答、行動とは見えない自然さで。
「この屋敷の体制と人物について、君の理解を試したい。どうなっているのか言ってみてくれ」
「へ? あ、はい」
戸惑いながらも、無視や反抗はしないようだ。
『設定』としては、アヤトはこの屋敷の従者として最上位の家令として位置づけられていた。
ギルドが所有するすべてのNPCに対する人事権――つまりゲーム内通貨での雇用や解雇を自由に行う事もできる。
これはギルドマスターとその補佐として任命されたメンバーのみが持つ特権だ。
ギルドNPCには、元々のプロフィールや外見などの肉付けがされているものから、ほぼ白地の素体に好きなようにパーソナリティを追加していける形式のものもあり、ギルド員たちはマスターであるトモエのお伺いを立てた上でそうしたNPCを何人か作っていた。
アヤトも主の命令で何人か作らされた。ライヒはその内の一人だ。
名前を覚えていたのはそれが理由で、他のプレイヤーが作ったNPCまではさすがにあまり覚えていない。
「当屋敷は主であるトモエ様を頂点としており、アヤトさんは筆頭家令として屋敷全般の管理運営をなさっています」
それは間違いのないところだった。
アヤトはサブマスターのような立ち位置としてギルドを切り盛りしてきたし、執事系統の最上級である筆頭家令も極めている。
「いいだろう、そのまま続けてくれ」
「はい、そしてその下に執事長のチクタクマンさんと女給長のクリスティーナさんが、それぞれ男性と女性の従者を統括しています」
そうか、そんな設定だったか。その二名は別の誰かが、そのような設定をしたのだろう。
その後に続く話を聞いていく内に、一つわかった事がある。
他のギルドメンバー達について、まったく名前が上がってこない。
ギルドへの上納金額トップだった、にゃるらと。
トモエ様萌えーが口癖で、武器職人として腕をふるっていたプライマル。
アップデートの度に、更新点やその有効活用方を誰よりも早く探って来たぐらつー。
自分と主を除く、ギルドメンバー33名。
一人の名前も上がらないまま――
「――以上ですが、いかがなものでしょう」
「ふむ……にゃるらとについてはどうだったかな」
「へ? えっと、すみません。わたし、にゃるらとさんという方は存じ上げないです……」
アヤト自身と、この場にいないトモエの事も知っているように話しているのに、他のギルドメンバーについては全く知らない。現状では、その境目はひとつであるように思われた。
すわなち、メンテナンス時刻までログインを続けていたかどうか。
「いや、いいんだ。知ったかぶりをしないかテストしただけだよ。そんな人物は居ない」
「あーっ、なんだあ。よかった。またやっちゃったかと思いましたよぉ」
また、というのが気になったが、そういえばライヒにはどういう設定を付加したのだったか。
主から「何か面白いNPCを作っておきなさい」という無茶ぶりをされ、苦心惨憺の挙句にヤケ気味に設定を書き上げたので、詳細は覚えていない。
かなりいい加減な事を書いた気もするが、それらの設定は、果たして目の前の彼女に対しても活きているのだろうか。
「すまない、もう行っていいぞ」
「はいっ」
まあ、そんな些細な事を確かめるのは後でいいな、とメイドに背を向けてアヤトは考える。
ここまで来ると、かなりの割合で、主の主張を認めるしかないと思えてくる。
――ゲームが現実になってしまった。
こんなことを、三十路も過ぎた大の大人が真剣に考えねばならない事態に、暗い気持ちを抑えきれない。
そしてその事を認めてしまうと、次には現状で死亡すると、現実にも死んでしまうのではないか、とも思ってしまう。
デスゲーム――21世紀に流行したという、ノベルの定形だ。
「まあ、この屋敷内に居る限りは安全だろうが……」
そこまで考えて、ふと思い至る。
あのお嬢様が、果たして屋敷の中にいつまでも留まっているだろうか。
この困った状況を愉快に思っている彼女には、アヤトが言い含めた通りに大人しくしている理由があるだろうか?
「…………」
しまった、という思いが駆け巡る。
それと同時に、刺すように強烈な気配を背後に感じて振り向く。
瞬間。明確な、VR上ではごくごく弱くしか再現され得ない筈の痛みが、振り向きざまの彼の右腕を鋭く貫いた。
見るとそこには、鋭く磨かれた短剣が突き刺さっている。
刺された、誰に?
突き立った刃が執事服の上に血の地図を広げていく。視線を前に向けると、そこには――