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西暦2055年に勃発した第三次世界大戦を生き残った人類は、驚くべき早さで戦災復興を果たした。
人類は二度の世界大戦からの教訓を学ばず、三度それを起こすほどに愚かだったが、それでもなお核兵器の不使用をすべての国が徹底する程度には賢明だった。そのお蔭でもあったろう。
ともあれ、戦時に発達したナノテクノロジーや、戦術演算とその神経単位での高速伝達を始めとした無人兵器利用の技術は、大戦が決着を見ると少しづつ、民間の技術としても定着していった。
そうした背景もあって、西暦2125年現在、大戦以前は架空の技術とされていたVRMMO・RPG――〈Virtual Reality Massivery Multiplayer Online Roll Playing Game〉は実現している。
ニューロリンカーによるネットワーク網と脳内伝達神経の接続により、仮想現実の中が現実そのもののように感じることができるようになった人々が、それをゲームに応用しようとしたのは至極当然の成り行きだった。
そうしたVRMMO・RPGの中でも最大の規模と知名度を誇るゲームがある。
SEPHIROT
それは今からちょうど10年前にサービスが開始され、数年で日本ゲーム史上に名を刻む事になる大作だった。
セフィロトは当時から現在に至るまで一貫して、他のVRMMO・RPGと比べれば異様なほどに自由度と刺激性を持っており、それが大ヒットの理由だ。
最上級までも含めたクラス総数は開始期に1000種類だったものが現在では3000種類を超えており、その中には女性キャラクター限定のメイドや男性キャラクター限定の執事なんてものから、両性具有キャラクター限定の自称・天使などというものまであって、それら全てにクラス固有のスキルが用意されている。
その上で、一定レベルに到達することで誰でも獲得できるキャラクターごとの〈固有能力〉。これがウケた。
それまでのエネミーとの戦闘や資源採掘、アイテム生産などのプレイスタイルからボイスチャットでの発言内容、噂によれば脳波パターンまであらゆる要素を絡めて生成されるスキルの総数は、理論上2億個を優に超える。
理想のユニークスキルを求めてキャラクターを作り直し続ける者もいたが、狙っても他者と同じものはまず作り出せない正に固有の能力だった。
それを今後のキャラクタービルドの中心に据える者、あくまで便利なスキルのひとつとしてのみ使う者、他のキャラクターの固有能力を警戒する者、納得がいかず作り直す者……誰もがユニークスキルを意識してプレイすることになった。
さらにはダメージを受けたり与えたりした際の流血表現が、設定によっては内蔵や骨などまで克明に描き出されるシステムになっており、そのためにR-15指定――つまり15歳未満プレイ禁止となっている。
R-15指定を受けているのはグロテスクな表現だけが理由ではなく、直接的なものはないが性的描写も行われる事も大きな原因だ。
なぜなら前述の多種多様なクラスの中には娼婦や男娼といったモロにそういった行為を生業とするものが含まれているからで、スキルなどを用いて『仕事』をする際にはゲーム的な表現手法として、視界暗転から性交を匂わせる着衣やベッドの乱れ程度で終わるのだが、それがVR技術をふんだんに駆使して描かれるため、とにかく生々しくエロティックなのだ。
中には15歳未満にもかかわらず電子的な年齢認証をくぐり抜けてプレイした少年少女も居たことだろうが、それはともかくとしてR-15指定というユーザーを絞ってしまう事になるレッテルを張られてでも、刺激的な表現を盛り込もうとした開発陣の意図は明白だ。
セフィロトを魅力的なゲームにしたい。
少なくとも、ユーザーの大多数はそう受け取っていたし、その認識通りにセフィロトというゲームにのめり込んでいった。
サービス開始から10年が経過した現在でもその人気が衰えないのは、たゆまぬ大規模アップデート。つまりシステムの大幅な変遷のお陰であり、最初期と今どころか、1年ごとにほぼ別のゲームと言えるほどの進化を繰り返している。
そして正に今日。
サービス開始10周年を記念した、公式曰く『超規模アップデート』の時が迫っていた。
■□■□
「トランポンタさんがギルドを辞めたようね、アヤト」
「辞めるように追い込んだ、の間違いではありませんか。トモエお嬢様」
姿勢正しく起立したまま、秀麗な眉目を毛ほども動かさずに、執事は主の言葉を訂正した。
彼が主との会話に皮肉を交えるのはこれが初めてではない。
故にトモエも気分を害した様子もなく、くすくすと上品な笑いを漏らす。
「あら酷い。わたくしはあの人に『辞めろ』なんて一言も言っていなくってよ」
端正な唇を軽く持ち上げて、彼女は言った。
うっすらとした唇の下からはごく小さく八重歯が覗く。吸血鬼種族に特有の牙だ。
風光明媚な西洋風庭園、その中を清涼な風が吹き抜けて噴水の水や草花を揺らし、主の黒く艶めいた長い髪をたなびかせる。
テラスの椅子に腰掛け、自然な所作でティーカップを口に運ぶ彼女こそ誰よりこの場所の主に相応しく、またその傍らに従者として控える男こそが、その立場に最も相応しい、芸術品のような青年だった。
「でしょうね。ネットストーカーにでもなられては面倒ですから、周りを使ったのでしょう?」
「さあ、どうかしらね」
周り、とは彼女を主とするゲーム内ギルド『マスターマインド』のメンバーの事だ。
彼ら自身もそれがトモエに操られた結果とは気づかぬ内に、事は運んでいったに違いない。
その経過で何があったのか、それはアヤトには知り得ないが、結果としてこの主の気に食わないプレイヤーが一人、ギルドから追い出されたというだけの事だ。
それもきっと、トランポンタ氏が『マスターマインド』そのものや、ギルドマスターたるトモエを恨むような形ではなかっただろう。そういった手回し、根回しができるのが西園寺巴という女だった。
もちろん、この会話はゲーム内部のものであり、だから二人は令嬢とその執事という役割を演じているに過ぎないとも見える。
しかし、この関係性は現実においてもそう変わってはいない。
女は日本有数の財閥、西園寺家の当主であり、男は西園寺家の筆頭家令である。いわゆる現実の友人とは違うが、現実の相手を知っているという点では同じことだ。
故に、これはロールプレイングというよりは現実の延長的振る舞いで、一言で言うとゲームらしくない。
それでは何故、ゲームの中でまで二人はそんなふうに振舞っているのか。
「アヤト、ねえアヤト。ここはゲームの中よね」
「はい、お嬢様」
「ではどうして、お前はわたくしに逆らわないの? ゲームの中でまで」
「それがお嬢様の望みですので」
執事の返答に、吸血鬼の令嬢は満足そうに笑みを浮かべる。
言ってしまえばこれが答で、ゲームの中という、アヤトが逆らおうと思えば逆らえる状況にあることが、彼女には嬉しいのだ。
アヤトの反応に限った話ではなく、ネットワークゲームというのは基本的に、家格や財産で何もかも思い通りに、とはいかない。
大量の課金アイテムはゲームを有利に運ぶだろう。しかしシステム上の限界はある。
キャラクターレベルを、あるいはプレイヤースキルを上げなければ強敵には勝てない。ゲームなら当たり前だ。
ゲーム・システムは彼女の家柄や財産、顔形の良さなど頓着せず、決まった結果をはじき出す。
言ってみれば、彼女はゲームという不自由の中でこそ、自由に振る舞うのを楽しんでいた。
現実は、彼女にとって都合が良すぎるのだ。
100円で買えるようになったダイヤモンドに人々が価値を見出さないのと同じように。
ひとつ微笑んでみせるだけで容易く籠絡される男達に、彼女は価値を見出さない。
だが、VRMMOの中では彼女がどれほど美しかろうと大した意味はない。
所詮はグラフィックであり、作り物であり、現実でどんな顔形をしている人間であっても美形になれるし、キャラクターと中の人の性別が違うことすら珍しくないのだから。
美形の女性キャラクターなら多少はチヤホヤされる、いわゆる『姫プレイ』をトモエ自身しているが、それも現実ほどなんでも思い通りとはいかないものだ。
何故ならゲームの中では、美女であることに現実ほどには希少価値がない。
だからその扱いもほどほどだ。
レアアイテムを貢がせるには相応の下準備が必要だし、ただ命令するだけでなんでもしてくれるプレイヤーなど居ない。
ただそれだけ、やることは現実とそう変わらず、他者を支配して思い通りにする事。
しかし彼女にとっては道中に多少の障害があることが楽しいのだろう。
やり方がまずければ容易く人は離れていくオンラインゲームの中で、他者の心を掴んで維持する。
そういった意味で『マスターマインド』というギルドは彼女が楽しみ、また実験するために作られたギルドだと言って良い。
今や最初期に集めたギルドメンバーのほとんどは離脱している。
それは始めのうち彼女が人を操るのが下手だったからだ。
何度かの失敗を経て、みるみるうちに巧みになっていった。
言葉で人を操る方法、利益をちらつかせて動かすやり方、言外に不利益を予感させて狙いの行動を起こさせる手順。
そうした努力をしなければ他人が思い通りにならないなど、現実の西園寺巴には考えられないことだった。
家の持つ権力と財力によって政治家や官僚を顎で使え、男はその美貌に心蕩かし、女は嫉妬よりも先に心酔してしまう。
「……そろそろ、会食の時間が迫っています。メンテナンスも近いことですし、ログアウトを」
「野党総裁との会食なんて、多少遅れたところで構わないでしょう」
誰が聞いてもとんでもない発言だが、これが総理大臣相手の会食でも彼女は同じように言っただろう。
メンテナンス時間になれば当然強制ログアウトさせられるが、その時間までゲームをしていようという、要はただの我儘だった。
少し逡巡した後、まあいいかとアヤトは嘆息する。
流石に溜息の起こす微細な風までは再現されない事実が、今いるのがゲームの中の世界だと想い出させた。
確かに、西園寺家と好んで喧嘩をしようという政治家はこの国に皆無だ。儀礼的に一度、自分が頭を下げれば遅刻程度で波風は起きまい。
そしてそんな事は主だって百も承知だ。
分かっていながらそれを命じるのだから、彼女のそんな部分を言いあらわすのに難しい言葉はいらない。
「トモエお嬢様は、本当に性格がお悪くていらっしゃる」
「あら、口の悪い従者だこと」
楽しそうに、成年の近づいた女性に不釣り合いなほど無垢な笑みを彼女は浮かべた。
それがゲームでも現実でも、男の心を揺り動かす魔性を秘めていると、当然本人も承知だろう。
執事は再び嘆息して、問うた。
「強制ログアウトまで居残って、何をなさるのですか?」
「そうねえ……」
主従は同時に、自らのコンソールを操作して現在時刻を表示させた。
『19:52:11』
会食は20時から、メンテナンスも同じ時刻から始まり72時間かけて行われる予定だ。
データ量のかさみがちなVRMMO、その中でも超規模と称するアップデートなら、そのぐらいの時間がかかるのも無理の無いことだろう。
ユーザーたちは(アヤトも、そしておそらくはトモエも含めて)皆、具体的内容のほとんどが秘密のまま実行されようとしている超規模アップデートの内容をあれこれと夢想し、心待ちにしていた。
そんな気持ちが、もしかしたら主にこんな可愛げのある我儘を言わせたのかもしれない。
そう思うと内心で微かに微笑ましいものをアヤトは感じた。
「他のメンバーもログアウト済みのようだし、今更ここまで来るプレイヤーが居るわけもないわね」
思案するように人差し指を立てて動かし、呟く。
確かにその通り、メンテナンス直前のこの時間、この場所までギルドメンバー以外がやってくる筈はなかった。
ここは『バルベロー空中庭園』と名付けられた『マスターマインド』がギルドとして所有する領地である。
その名の通り、空中高く築かれた広大な庭園は大きく7つのエリアからなり、侵入には飛行や空間転移などの能力が必須となる。
中央に位置する豪奢な館とその中庭、つまり今二人がいる場所に敵対者が侵略しようとするならば、他の6つのエリアに1つづつ隠された宝珠を全て集めなければ入ることが出来ず、その他のあらゆる解錠や結界破壊能力が無効となっている。
なお、それらの宝珠は最高レベルに設定された|Non Player Character《NPC》や、レベルドレインに別エリアへのテレポートといった嫌らしいトラップの数々をくぐり抜けた先にある時間制限付きの謎解きなどによって守られており、6つの宝珠を集めて中央エリアに侵入できた者は現在までに0人。
全ての挑戦者を無情にも跳ね返し、最深部を守り通してきた、広大なセフィロト内でも数少ない場所の一つだ。
曰く、難攻不落の空中城塞。曰く、セフィロトで最も高き館。曰く、ラストダンジョン。曰く、裏ボスの住処。
おそらくはギルドマスターの意図通りに、悪役としての名声をこの空中庭園はほしいままにしてきた。
「では、アヤト。時間までわたくしの足を舐めなさい」
つっと右足の靴を脱いで、差し出してくる。
他のプレイヤーがこの場に居れば即座にツッコミを入れてくれたかもしれないが、残念なことに前述のような理由でこの場にいるのはアヤトと主の二人だけだ。
メイドや執事の姿をしたNPCなら呼べばやってくるが、それは何の解決にもならない行為だ。彼らに自由意志はないのだから。静止はもちろん、言葉によるツッコミすら期待できまい。
「かしこまりました。お嬢様」
そして何より問題なのは、アヤト自身が拒否する気を起こしていないことだった。
このようなおふざけは、言ってしまえばいつもの事だ。
彼女の前に――否、彼女のすらりと伸びストッキングに覆われた足の前に跪き、逡巡もせずに舌を這わせる。
セフィロトの世界には飲食物もアイテムとして存在するが、味覚は感じないようになっている。
これは現実を忘れゲームの中にのみ入り込んでしまう人間を少しでも減らそうとした法規的制限だ。
人間、文字通り味気ない生活には、長期間耐えられるようになっていない。味覚が満足してしまうと現実の空腹を忘れる可能性があるが、長いこと味覚に刺激がなければ、現実の空腹を嫌でも意識するだろう。
だからアヤトはどんな味も感じなかったが、この行為に背徳的で淫らな印象をまったく感じないのは常識ある人間として無理な相談だ。
しかし、無邪気に笑うトモエの姿からは、そうした一種性的なものすら含む足を舐めるという行為の意味合いを理解しているようには感じられない。
勿論のこと、完全に理解してやっているのだろうが。
そうアヤトは思いながらも、別段逆らう気もなかった。
いつものように彼女は自分を嫐っているのであり、つまりこれは常日頃の我儘勝手な振る舞いの延長線に過ぎない。
たとえそれが無意味であったとしても、西園寺巴に忠誠を尽くそうと彼は心に決めている。
忠誠と言いなりは別物だと彼自身理解しているが、だからこそ、この程度の事なら言われるままに実行してやろうではないか。
生まれながらに支配者であったから、それ以外に人との接し方を知らない我が主。
彼女はこういう方法でしか、他者との関わりに充実感を感じられないのだ。
あるいは、どんな方法でも、彼女はそれを得られないのかもしれないが。
『19:58:34』
視界の端に置かれたままの時計が音もなく時間を刻んでいた。
無邪気に笑ってはいても、トモエはこの時間をつまらないと思っている。
少しは逆らってくれてもいいのにと、そう思っているのだが、アヤトは彼女に逆らわない。
それが、面白くない。
今、面白くないと、内心で自分がそう思っていることを、この男は知っているはずなのに。
一体いつになったら、この使えない執事は期待に応えてくれるのだろう。
そんな事を彼女は考えていた。
あるいは、そこまで察することができる男ではないのだと、かけらも考えないままに。
『19:59:52』
ああそれでも、現実よりは少しだけ、ここは面白くて退屈しないのかもしれない。
ままならない事があるのだから。
いくら自分でも、メンテナンス時の強制ログアウトは免れない。
いや、現実に持っている権力と財力を行使すればあるいは可能だが、それに意味はまったく無い。
ままならない中で立ちまわり、頭を捻る事に意味があるのだ。
『19:59:58』
もうすぐこの虚しくて少しだけ面白い世界から切り離される。
『19:59:59』
目をつぶって、小さな寂寥感を押しつぶす。
退屈な、誰がやっても同じようになる『西園寺巴』の劇が始まる。
「そろそろ時間で――」
アヤトが足から口を離して、顔を上げた。
『20:00:00』
……。
…………。
………………。
「……これは」
ゲームの時間の終わりを告げようとしていたアヤトが、訝しげに呟いた。
トモエも目を開けた。
「どうなってるの、アヤト?」
「私に訊かれましても……わかりません」
メンテナンス開始時刻を、明らかに過ぎている。
にも関わらず、強制ログアウトの気配がない。
二人揃ってメンテナンス時刻を勘違いしていたということもあるまい。
現在時刻を確認しようと時計に視線を合わせようとして、二人は同時に硬直した。
時計が、消えている。それどころか、呼び出したまま待機させていたコンソールも消えている。
「……お嬢様。コンソールを呼び出せますか?」
「その様子では、貴方も同じ状態のようね」
このやりとりで、不味い事態が起きているということがハッキリした。
コンソールが呼び出せないのでは、ログアウトができない。
GMコールも行えないし、公式のメッセージも受け取れない。
まず考えられるのは、メンテナンス時刻まで居残った事によるシステムエラーだ。
公式はメンテナンス開始時刻の5分前にはログアウトしているようにと毎回全プレイヤーに勧告している。
それは予定通りメンテナンスを進めるためであり、予期せぬエラーを防ぐためだ。
勧告に逆らった結果がこれならば自業自得とも言えるが、この後に起こる問題は深刻だ。
日本の政財界にその名を轟かせる西園寺家の当主とその筆頭家令がVRMMOからログアウト不能。つまり現実世界では意識不明のまま肉体が取り残される事になる。
問題は、それがどのぐらいの時間続くかである。
数時間で済めば、運営企業が風聞によるダメージを受けるかもしれないが、後で笑い話にできるレベルだろう。
丸一日以上となると、その間に西園寺家の人間がどんな措置を取るかわからない。下手をすれば、二人が目覚めた時には運営企業そのものが消えているかもしれない。
もし、二日以上、一週間、あるいはそれ以上の長期に渡って解決不能なエラーだった場合は……。
「あら、あら、まあ」
事態が深刻なものとなる可能性にアヤトは頭を抱えそうになっているというのに、彼の主は心底楽しげに声を上げるのだった。
「アヤト、アヤト。これはどうしましょうか。まるで前世紀に流行ったノベルみたいね」
「VRMMOでログアウト不能になった挙句、ゲームで死んだら現実でも死亡する、というやつですか。笑えませんね」
そう、笑えない冗談だった。
現状で死んでも所詮はゲーム。経験値マイナスのペナルティを受けてリスタート地点に戻されるだけだろうが、問題はログアウト不能という目の前に立ちはだかった現実の方だった。
こうして二人が会話し、思考している最中にも時間は過ぎているにもかかわらず、その間公式なメッセージらしきものは何も受け取れていない。
これがどのような類のエラーなのか、復旧の目処はいつ頃かなど、まるでわからないままだ。
「ギルド内掲示板を……いや、コンソールが使えなければ無意味か……トモエ様、何がそんなに可笑しいのですか?」
真剣に思案するアヤトを見つめながら、彼女はのんきに笑っていた。
「だって、可笑しいじゃないの。貴方がそんなに焦るなんて、そうそう見られる光景じゃないもの」
「そんな事を言っている場合ですか。可能性はかなり低いでしょうが、数ヶ月単位でこの状態が継続すれば、生命維持に支障が出てもおかしくはないというのに」
自分だけの事ならここまで焦りはしない。
だが事はトモエ――否、巴の命がかかっているのだ。
アヤトは心中の焦りを抑えきれなかった。
「あら、そんな事」
そんな彼とは対照的に、彼女は平静だ。
それどころか、この状況に興奮を抑えきれずにいる様子を見せている。
「どうせ、大した未練もありませんし。いっそゲームの中で一生を過ごすのも悪くはないと思わない?」
「思いません」
ふざけたことを言うなと怒鳴りつけたくなるのをこらえて、キッパリとそう言った。
怒鳴りつけておくべきだったとは、ついぞ思わないままに。
「ホント、つまらない男ね」
「ええ、自覚しております」
確かに自分はつまらない男だ。
家の定めるままに生き、家同士の古い定めに従って西園寺家に執事として仕えた。
そこに楽しいも悲しいもない。ただ、器用貧乏に育ててられて、またそうした資質しか持って生まれなかっただけの事。
「ひとまず、なんらかの手段で情報を得ましょう」
仮にここで死んでしまったとしても、現実にさほどの未練はない。
父も母も死んでいる。兄弟はいるが疎遠で、さほど思い入れはない。
ただ、決して死んで欲しくない人物が、今目の前に居るだけだ。
そう、父も母も死んでいて、既にこの世に居ない。
――目の前の人物に、殺されたから。