19
「アヤト、アヤト。こっちへ来なさい」
その呼びかけに、アヤトは不完全な形でしか応じかねた。
大浴場のドアの前で立ち尽くし、どうしたものかと首をひねる。
この向こうにトモエ様はおわし、中へ入れと命じているのだ。
「何をしているの、早く入るのよ」
よく反響する声が、浴場の中から響き渡る。
「それはできかねます」
「あら、何故?」
「何故と言われましても……」
女性の主が入っている風呂場に、男の家令が入っていい状況などというものがあったら見てみたいものだ。
そんな状況はない。社会常識、人間的規範に従えばあっていいわけがない。
たとえ主の命令であってもこれはいかんだろう。おふざけで済む範囲を超えている。
「お前はわたくしの言うことをハイハイ聞いてるしか能のない男でしょう。いいから来なさい、命令です」
「嫁入り前の――いえ、婿を取る前の西園寺家当主ともあろうお方が、従者に裸身を晒すなど……」
「下らないお説教が聞きたいんじゃありません。入らないという選択肢はないのよ」
そんな事を言われましても、やはりそれはいかんでしょう。と綾人は頭を抱えた。
いくら密かな想い人が相手でも、これ幸いと中に突貫できるほどアヤトは若くなく、滾る性欲をみなぎらせてもいなかった。
三十路を過ぎた男が、二十歳にもとどかぬ女性の風呂場に入る。
主従の関係性を度外視したとしても、これはかなり許されないだろう。
「その……何故、私が入らねばならないのでしょうか」
「一人じゃ身体が洗えないわ。お前が洗いなさい」
嘘つけ! とは流石に口に出さなかったが、強烈に思ったことは事実だ。
「クースやリベルあたりに洗わせては如何でしょう」
「それじゃあつまらないでしょう。馬鹿なの?」
じゃあこの状況が面白いのですかトモエ様――!
ああ、きっと面白がっているのだろうな。こんな、異世界に転移したおかげで誰の目を気にすることもない状況を。
だからつまり、彼女はこうして、はしゃいでいるのだ。
「お前の主が身体を洗えなくて良いというの? 何故従者の都合でわたくしが不利益を被らねばならないのかしら」
「…………どうしても、ですか?」
「どうしてもです」
そうか、どうあっても譲らないと。そのぐらいの気構えであるならばもはや致し方ない。
アヤトは据え付けてあった手ぬぐいを一枚手にとって折り畳み、即製の目隠しを作り上げて巻く。
これで主の裸体を見るというアレでソレな事態はひとまず防げる。
確か、スポンジというのもセフィロトの世界では武器になったはずだ。
高清潔度ジェルの存在しない旧世界らしいアイテムだが、武器扱いができるのはありがたい。〈武芸百般Ⅱ〉の恩恵で目隠し状態でも多少はマシに使うことが可能だからだ。
「……では、失礼致します」
興奮よりも恐怖に似た情動に心臓を脈打たせながら、アヤトはドアを開けた。
目隠しをしながらだが、丸一日視覚を封じて生活する程度ならば戦闘訓練の一環として受けたことがある。構造を目にしたことはあっても実際に使うとなると慣れない浴場であるのが不安だが、多分大丈夫だろう。
「まったく、愚図なんだから……って、なんなのその目隠しは」
「最低限の処置です」
「外しなさいよ、邪魔でしょう」
「しかし……」
ここまでくれば仕方ないのか? もはや主の裸体を見る以外に道はないのだろうか。
否、断じて否。年長の男としてここはビシッと言ってやらねばなるまい。
「やはりこのまま……」
「このまま? 目隠しをしていることを言い訳に、身体を洗う以上の事をするつもり?」
「ただいま外させていただきます」
酷い。あまりにも酷い謀略だった。
呼びかけを聞き届けてしまった時点でアヤトに勝ち目はなかったのだ。
目隠しを外し、恐る恐る目を開く。すると湯気に濡れた黒髪の艶めきと、餅のようにきめ細かな白い肌が目に入り――
「ああっ、足と手と全身が滑ったぁっ!」
カーン!
とよく音が反響する浴場内に、金盥を落としたような――というかそのものが人の頭に落ちた音がした。
アヤトは一瞬、トモエの裸身の代わりに星が見えた。
「おい、何してる」
下手人の顔を掴んでアイアンクローをかけながら、低い声で問いかける。
決していいところで邪魔が入ったからというわけではなく、用いられた金盥が上級の即死効果を持つ〈悪魔の金盥〉だったからである。アンデッドであり〈即死完全無効〉を持つトモエには効かないが、アヤトにはわずかながら通じる可能性もあった。
「いっけなーい。また失敗しちゃいました。ごめんなさいアヤト様。次は確実に殺しますね」
「おい」
「あれ、すっ転ばせて頭打たせたほうが良かったですか? でもそうするとすっごく情けない死に様になりますよ」
「そんな事はどうだって良い。いや良くないが。お前はトモエ様が入ってる風呂場に何故勝手に入っているんだ」
「そういうアヤト様はなんで入ってるんです? わたしはアヤト様を追いかけてたらここに行き着いたんですけど……あ、トモエ様ごめんなさい、勝手に入っちゃいましたついうっかり!」
ライヒの遅い謝罪に、トモエは鷹揚に頷いてみせた。
「いいのよ、ちょっと笑えたから。これからも頑張ってアヤトの命を狙いなさいな」
「はいっ!」
「はいじゃない」
ふと、振り向いて改めてトモエの姿を視界に収めると――そこにはバスタオルを巻いた主の姿があった。
ただ、肩周りは当然露出しており、長い髪が微かに濡れて張り付いているのが妙に艶かしい。
スラリと長い足もひざから下が露わであり、湯気に当たって熱を持っていて下手に全身を晒すよりもよほど色っぽかった。
「さて、それじゃあせっかくだし、二人がかりで洗ってもらおうかしら」
「その話はまだ生きているのですか……」
「当然じゃない」
しゅるりと衣擦れめいた音を鳴らしてバスタオルがはだけられ、その後アヤトはライヒの攻撃をことごとくいなしながらの大騒ぎで、結局は大部分をライヒに任せてどうにか下命を果たすこととなった。