12
その浮遊島は広大過ぎて、近づくほどにその全容はわからなくなっていく。
イザベルは、外周部に見つけた巨大な門の前に降り立つことにした。
慎重に警戒しつつの着陸だったが、懸念された攻撃の類は一切なかった。
ただ、その門の巨大さのあまりに、その前にある豆粒のような点が、獣人の少女だった事を彼女たちは見落としていた。
あるいは、その少女が気づかれないようにしていたのか。
「ようこそ、バルベロー空中庭園へ」
まだそれなりに距離があるのによく通る声でそう言って、少女は笑いかけてきた。
その様子からは、敵対的な何物も感じ取れなかったが、しかしイザベルは数秒の間、返事を返すことが出来なかった。
対人戦はもとより魔獣や龍とも対決してきた戦士としての本能が、これまで戦ってきたどの敵よりも大きな警鐘を、この獣人の少女に対して鳴らしていた為に。
イザベルが後天的に獲得した技能の中には、相手が修めた職能を大まかにだが感じ取る事ができる〈職能感知〉というものがある。それが告げていた内容は――
――〈ファイター〉とその|上位職能(そんなものの存在を彼女は今まで知らなかったが)を極めている。さらに〈メイジ〉とその上位職能(一体どんな魔法を使うと言うのか?)も同様。加えて軽やかな身のこなしからは彼女が〈レンジャー〉の完成形にあることが伝わってきている。
「随分と物々しい出で立ち。当方に争う意図はございませんが、皆様はいかなるご用向きでこちらへおいでなのでしょう?」
歩み寄ってきた少女にそう言われ、ようやくイザベルは震えそうになる全身に鞭を入れることができた。
「驚かせたようで申し訳ない。我々はカノッサ王国天馬騎士団のものです。王国の領空にこちらの島――バルベロー空中庭園と言われましたが、それが唐突に現れたもので調査に参った次第」
自分たちの長が、一回りは歳の離れていそうな少女に対して丁寧過ぎる言葉を使う事を、団員たちは少々不思議に思ったが、少し考えると、団長がそうするだけの実力を少女に見て取ったのだと理解できた。
イザベルの人物評価には一定の信頼が置かれている。敵対するかもしれない相手に対するものは特にだ。
「なるほど、事情はわかりました」
頷き、ふと視線を上ずらせてまた頷く。
その様子は、宮廷魔導師達が互いに魔法で会話を交わす時のものに酷似していた。
おそらくは、そのものなのだろう。では、魔法によって誰と話しているのか。
「主が皆さんに会いたがっています。お互いに話し合いの場が必要なのではないか、と」
順当に考えれば、この浮遊する島の主であろう。
そしてその申し出は実際、イザベル達の任務上、断るわけにはいかないものだった。
「それはありがたい……申し遅れましたが、私は天馬騎士団の団長イザベル。イザベル・クロス・マルヴィンです」
「あ、こちらも名乗り損ねてましたね。アタシ、門番のクース・トースです」
そう言って、謹厳だった口調が若干柔らかい印象に変化した。
おそらくこちらの方が地に近いのだろう。
「では、トース殿――」
「殿、なんて要りませんよ。アタシはただの門番ですし」
照れたように笑うその様子は、とても熟達した戦士とは見えない。
しかし、油断だけはしないようイザベルは己に言い聞かせた。まだこの少女と、この空中庭園に住まう者達が敵に回らないと決まったわけではないのだ。
「――では、トースさんと呼ばせてもらうが、この空中庭園の御主人のお名前を聞かせてもらえるだろうか?」
「トモエ様、と我々はお呼びしています」
「トモエ殿……ですか。姓名などは?」
「ありません。いえ、あるかもしれませんが、アタシのような下々の者には教えて頂けないでしょう」
「ふむ、そうですか」
なるほど、これは相当な人物のようだ。
イザベルから見れば、過去最強の敵を天秤の片方に乗せても軽すぎる程の質量をクース・トースから感じていたが、それほどの実力者を門衛に据え、さらにはそんなクースをして自ら下々の者と言わせしめる。
王国の魔導師が総出になっても実現不可能としか思えない、これほどの広大で巨大な島を天高く浮かせた庭園を所有しているという事を差し引いたとしても、トモエという人物は只者ではあるまい。
「今、門を開けますので。どうぞお通り下さい」
言われて、団員たちと一緒に門を見上げる。
金庫のように分厚く、天を突く程に高く、〈天吠龍〉のごとく重々しい黒塗りの門を開くには、魔法的な作用にせよどれほどの力が働くものか、装備品を除けば魔法をほとんど使わないイザベルにはまったく検討もつかなかった。
「よっ……と」
クースが無造作に片手で扉を押すと、薄板の門のようにあっけなく開いた。
しかし、同時に鳴っていた地鳴りのごとき重低音が、見掛け倒しのハリボテでない事を証明しているた。
イザベルが絶句して横目に団員たちを見やると、彼らは目をしばたたかせて口をあんぐりと開けたまま、しばらくそれ以上のどんなリアクションも取れずにいた。
「どうかなさいましたか?」
「い、いえ……なんでも」
万一、中へと招き入れたのが罠で、戦闘になった場合。
団員たちを逃がすために、自分は決死の覚悟でこの門番に立ち向かわねばならないだろうなと、彼女はそう覚悟した。
■□■□
中央エリアの屋敷内にある、豪奢な寝室のひとつに、電脳空間上の情報窓にも似た画面が浮かんでいた。
その中には、クース・トースが門を開き、来訪者たちを先導する様子が映し出されている。
「トモエ様、彼女らを招き入れて、どうなさるのですか?」
「さあ、どうしましょうか。考えはいくつもあるのだけれど」
マシュマロのようにふかふかのベッドの上に座っているアヤトの主人は、市井の小娘がヴァーチャル・ウィンドウショッピングをして、どの服がいいかと悩んでいるような調子ではにかんだ。
その足元には、蛸に似たしかし全く違う奇妙な生物がうずくまっていた。
「結構強そうな人たちだけれど、ねえアヤト。この人達を皆殺しにしろと言われたら、お前はできるかしら?」
「ご命令とあらばすぐにでも」
寸分の迷いもなく執事はそう答えた。
眉一つ動かさずに、ゲームのキャラクターなどを逸脱した、明らかな現実に生きている人間を殺せます、と。
主従揃って非人間的な発想と思考を抱えている事は事実だが、さりとて正気を失っているのではない。
彼らの中では、これで平常。
命じれば誰かが動くのが自然であり、命ぜられれば努力することが義務なのである。
彼と彼女はそれぞれに歪だが、それ故にジグソーパズルのピースのようにピタリとハマって、完成していた。
「殺すとしても、今すぐ殺すわけがないでしょう。だったらクース達にやらせています。少しは考えて発言なさい、脳足らず」
「は。考えが足りず、失礼致しました」
主人の悪罵も、この執事にはそよ風であるかのようで、彼は平然と受け流し、深々と一礼して謝意を示した。
「まあいいわ。クースに言った通り、ひとまずはこの人達と話をしてみます。有用なお話が聞けるといいのだけれど」
その裏に退屈を秘めた、いつものあの微笑を浮かべて、トモエは呟いた。
■□■□
「団長、やはり危険では? 一度引き返した方が……」
副長がそう言ったのは、豪奢な館を遠目にする2つ目の門前で、天馬を置くよう言われた後の事だ。
彼らの卓越した技量は天馬に乗っていてこそ最大限発揮される。乗ったまま屋敷に踏み込むなど礼儀知らずを通り越した蛮行であるとはいえ、この後の彼らは羽をもがれた鳥となるのだ。副長がこう言うのも無理はなかった。
無論、クースに会話が聞かれないよう位置取りと声量に注意しながら副長は口火を切っていたし、イザベルが返す言葉もそうした注意を孕んで発された。
「ここの主人の目的も正体も不明のままでは、引き返したところで同じことだよ」
この現代の技術的にあり得ざる空中庭園が、王国の領空内を漂っている限り、早急に探りを入れなければならない。
で、あるならば無論それは早い方が良く、出戻って再度の議会審議を待つのは躊躇われた。
「しかし、団長。あなたは王国の単独戦力としては、あの『乱獅子』と双璧を成す一人なんですよ。団長だけでも今のうちに引き返すべきです。ここは得体が知れない」
「部下たちを、その得体の知れない場所に置いてか。それこそ王国の双璧と呼ばれる者のすることではないな」
皮肉げな笑みを浮かべて、イザベルは副長の意見を退けた。
「我々全員よりも、あなた一人の命の方が王国にとっては重要ですよ」
「そう言ってくれるなら、なおさら引き返せなどと言わないでくれ。任に背いて一人逃げ帰ったという事になれば、どのみち厳重処分は免れん」
それは確かにその通りで、だからこそこんな斥候任務に団長を向かわせた議会の平民派連中に対して、副長は憤懣やるかたなかった。
そもそも、斥候など団長や副長が自らやるような任務ではないのだ。危険が予測される地に忍び寄り、偵察するというのは、重要人物が行うには危険過ぎるものだろう。
「副長、君の心遣いはよくわかっているつもりだ。しかしまだ危険があると決まったわけでもないし、あったとしても我らなら踏み越える事が出来ると私は信じる。君も信じてくれ」
門衛の実力を文字通り肌で感じ取ったイザベルとしては、この発言は気休めもいいところだったが、隊を預かる者としてはこう言う他はなかった。罠が待っていたら絶望的だ、などとは口が裂けても言うべきではない。
「わかりました。団長がそう仰るなら」
おそらくはそれを察していて、なおここで引き下がれるのがこの副長の素晴らしいところだった。
進む以外に道は無い状況で、これ以上の反駁は無意味どころか有害である。
「それにだ、門衛の態度は友好的だったし、案外と王宮の晩餐会並みの歓待を受けるかもしれんぞ」
冗談めかしたその言葉に、副長も同じ調子で応じた。
「そうなればいいですね。自分もまだ1度しか出席しておりませんし、クレール達は、あんなご馳走も酒も未経験ですから」
まだ10代の者も混じる部下達を横目に眺めて、二人は胸中で密かに彼らの身を案じ、互いに頷いた。
最大限の注意を払おう。彼らを無駄死にさせることのないように。