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――その男の顔は、異形だった。
時折着用する無表情な顔の皮肉を今は被っておらず、歯車やワイヤーといった機械仕掛けがむき出しになっており、二つの小さな時計の文字盤が彼の目だった。
白いスーツの肘から袖先にあるカフスボタンにかけて、小さめのモニターやキーボードが突き出ており、その恐ろしく精緻だが指紋のない指先で触れることなく、ひとりでにタイプされている。
目にすることすら恐ろしい、狂気に満ちた悪夢の計画書がそのモニターには映っているのであろう。
「チク、タク、チク、タク……やはり私が最後か。皆も気が早い事だ」
感情というものを寸分足りとも感じさせない言葉を吐き出す地獄の機械。
第6エリア、機械迷宮の管理者。『執事長』チクタクマンだ。
ニャルラトホテプの化身として知られるその名を与え、そのようにイメージして作成したのは誰あろう、にゃるらと氏である。
彼が20世紀に生まれたかの神話を愛好していた事はギルド内部では周知の事実だ。ハンドルネームからもそれは明らかだった。
「とか言って、アンタだって5分前行動じゃない」
「チク、タク……別に急いで来たわけではないが」
そう言いながらチクタクマンは最後に残った席へと着いた。
「照れるな照れるな、ツンデレは一人で十分じゃわい」
「チク、タク、チク、タク……私はツンデレではない」
「あ、アタシだってツンデレとかいうのは名前だけで、全然そんな事ないんだからねっ!」
「ツンデレ乙なのじゃ」
テンプレ台詞を返すクースをからかうリベル。
そんな彼女らを横目に、ティーセットを乗せたカートを押しながら、ライヒが部屋に姿を見せる。
「お話も盛り上がっているところで、紅茶をどうぞ」
ライヒは、そつのない動きで紅茶を淹れつつ、ひとりひとりの前にソーサーとカップを置いていく。
各エリアの主達は、それぞれに仕草や言葉で感謝の意を示した。
「アヤトさんもどうですか?」
「結構だ」
露骨に色の違う液体がなみなみと満ちているティーカップの受け取りを、当然アヤトは拒否した。
と、そこで主からの通信がアヤトの脳内にテレパシーのように入ってくる。
『アヤト、その場に全員揃っていますね?』
『はい、お嬢様』
『では今から向かいます』
言葉を発する必要のない念話を終えて、アヤトはきびきびとした歩調で玉座の背後まで回った。
そして、円卓に着いた管理者達に向けて端的に語りかける。
「皆、トモエ様がおいでになる。座ったままで構わないが、傾注するように」
その一言で、場の空気が一気に張り詰めたものへと変わった。
表情を引き締めて玉座へと視線を向けた彼らが目にしたものは、指向性をもって突き進む薄桃色の霧だった。
その霧は玉座を包み込んだかと思うと、瞬きをする間にトモエの姿へと変じた。
「ごきげんよう、皆さん」
ヴァンパイアの種族スキル〈霧状化〉によって主が出現した瞬間、執事の存在感は薄まり背景の一部と化した。
トモエの影のように、その付属物として見事に溶け込んだのだ。
必要以上にしゃしゃり出ないという従者の心得だった。
「ご機嫌麗しく。我らが至高天、トモエ様」
アヤトを含めた7名の使用人は、一様に指を揃えた手を胸に当てる事で恭順の意を示した。
地下の広間に、見る見る内に甘く切ない香気が充満する。
トモエのみが得た独自能力である〈傾城香〉のエフェクトだ。
その効能は自身へのヘイト値の強制下限化というもので、これを使えば狩場でターゲッティングされることは無くなる。
だが、この場でそのスキルを使用した意図は安全確保というよりも、むしろ逆。効果が目に見えて現れる者、あるいはこれをレジストしようと試みる者がいないかのチェックであり、もし居ればその者の敵対意思を白日のもとに晒すという宣言になる。
忠誠を試み、弄ぶのと同義。彼らの忠誠の度合いとその理由が不明な状況では、反感や造反を招きかねない危険な行為だ。
そんな〈傾城香〉の芳しい霞を吸い込み、あるいはまとわりつかれた彼らの反応は――不動。
陶然とするその香気を、あるがまま受け入れ、自然と口角を持ち上げている。
彼らは恍惚としていながらしかし、それは劇的な変化ではなく、チクタクマンにおいては表情がなくうかがい知れないが、時計の文字盤がいくぶん早くチク、タクと時を刻んでいるように見える。
抵抗の意図など露ほども感じさせない。主上であるトモエのなすがままに――といった態度だった。
そんな彼らを見て、トモエはつまらなそうに目を細めて言った。
「リベル、チクタクマン。バルベローの迷彩と防空網を強化したいのだけれど、最大限それを行うのにどれほど時間がかかって?」
声をかけられた二名は、互いに視線を交わしてから、すぐさまチクタクマンが立ち上がった。
彼の目である文字盤には、その精緻さからは対極と思える震えすら走っており、リベルはといえば子供の外見そのままに目をキラキラと輝かせている。歓喜と恐懼、崇拝にも等しい情動がそこにはあった。
「チク、タク……現状の防衛システムを全て維持したままであれば72時間。一度全てをシャットダウンしてから作業に移るのであれば、24時間かかります。これは機械と魔法両面において、同様です」
「では24時間で済ませなさい、早さが優先です。話が全て終わったらとりかかるように」
「御意に……チク、タク、チク、タク」
トモエは指一本動かさず、視線だけで彼を着席させる。
「クース・トース、エリザベート。菜園や牧場を始めとした食料生産施設の稼働状況は?」
この問いかけにはエリザベートが立ち上がり答えた。
「はい、いずれも問題なく。トモエ様はもちろん、防衛用のモンスターたちにも滞り無く食料が行き渡るようになっております」
飲食料品アイテムは、セフィロトでは定期的に消費して空腹ペナルティを防ぎ、あるいは大量消費することでギルド防衛用モンスターの生産を行えるものだった。
そうした目的でこの空中庭園に配された設備は問題なく稼働しているようだ。
流石に食料の継続的な確保ができていなければ、今後何をするにもおぼつかないので、アヤトとしては一安心だった。
この場にいる全ての使用人達の主人は、エリザベートを目の力で以って着席させると、改めて言葉を発した。
「さて、せっかくこうして直接話ができる機会を得たから、訊きたいのだけれど」
玉座の上から自らの配下達を睥睨して、女王は魂までも揺さぶり蕩かす魔性の声を放つ。
「貴方達、わたくしのことをどう思っているのか、自分の語意を最大限活用して表現してみてくださる?」
どういった答が返ってくるか、先ほどのチクタクマンとのやりとりで大方察しては居た。
それでも、一縷の望みを、予想外の答が返ってくる事に賭けて問うた。
言葉を発しながら浮かんでいたのは意地悪な微笑みだったが。
「我が君は、アルファにしてオメガ。最高の契約者にして我が全てです」
リベルは迷いなくそう答えた。
クラウディウスはむむ、と眉根を寄せて考え込んでいたが、やがて重々しく口を開いた。
「その深謀遠慮には並ぶ者無く、美貌においては絶世独立。我らが唯一絶対の主君に相応しいお方でござる」
屋敷に仕える剣闘士は、熱量を持った言葉でそう表現した。
「チク、タク、チク、タク……至高天たる、ただ一人のお方に他なりません。この世の全てが至極無意味であっても、トモエ様だけは例外となりましょう」
時計の針を回し続けていたチクタクマンがそれに続き、歯車とワイヤの口を滑らかに動かした。
「えっと……やっぱり、命を賭しても守るべき、ご主人様です」
難しい顔をして言葉を探していた門番たるクースは、自らの知識にない言葉を探すのを諦めそう言う。
「我々の造物主、究極無比の頂点かと」
ここまで瞑目していたエリザベートが、艶めいて濡れた声が陶酔と共に謳い上げた。
「すっごく偉い、一番のお方です!」
満面の笑みと共に、最後にそう言ったのはライヒだ。
ふ……と。
花の微笑から退屈の溜息が漏れたのを、アヤトだけが聞いていた。
背後に控える背景である彼に、その問いは投げかけられていなかったが、しかし、自分に投げかけられたところで主が満足する答を返すことは出来まい――そう思った。
「……で、貴方はどうなのアヤト」
「は……私ですか?」
そう思っていたら、不意にその問いは投げかけられてしまった。
言葉を探すも、上手い表現は中々見つからない。
「まったく。使用人たちの筆頭が、なぜ一番時間がかかっているのかしらね」
言葉のナイフもこの時ばかりは、焦る心に突き刺さった。
やむなく、降参するように言葉を吐き出す。
「――私にとって、最も重大なお方です。地球と比してもなお重い、私の……」
続く言葉だけは、吐き出しかねた。
それを言ったら、全てが終わる。そんな予感がしていて。
そして多分、その予感は正しいのだ。
口を閉ざした執事をしばし眺めて、トモエは立ち上がった。
「よくわかりました」
彼女が玉座から立ち上がると、アヤトを除く配下たちは椅子から立ち上がり、代わりに床に跪いてそれを見送る。
異形の者共が傅く光景は壮観ではあったが、トモエの心には響かなかった。
彼女にとって跪かれるのは当然であり、崇敬をもって接されるのは常態である。
水が低い方に流れていくのを見て、感動を覚える者がいるだろうか。
この光景は西園寺巴にとってはまさにそうした当たり前のものであって、心動くような珍しいものではまったくなかった。
「――我ら皆、黒き幕の下に!」
跪き胸に手を当てた管理者達は、そう唱和した。
それは、マスターマインドというギルドの合言葉であり、決まり文句だ。
黒幕たるトモエの下に、我ら集う。と。
「我ら皆、黒き幕の下に」
アヤトもまた、彼らが思い出させたその言葉を呟いた。
■□■□
カノッサ王国領ククルス村。
そこは閑散とした農村で、つまりどこにでもある村のひとつだった。
村の田園を通り抜けて森の中に分け入り、燃料として手頃な木の枝を拾いに来たジョージもまた、どこにでも居る普通の少年だった。
よく開けた空から差し込む木漏れ日の中を妹のリリアナと一緒に進んで、よく燃えるトネリコの枝を中心に拾い集めて妹が広げた前掛けに放り込む。
即製のその袋が一杯になってきたら家に戻って燃料置き場に放り込み、また森に入っていく。妹はまだ6歳なので古着の前掛けは小さかったが、それでも4回か5回も往復すれば、しばらく家で使う分には事足りた。
いつも変わらない、日常の何気ない作業が様相を一変させるのは2度目の往路からだった。
「おにいちゃん、あれなんだろー?」
妹が指さした先、天高く流れる雲の間から、眩いばかりの光が垂直に差している。
それは見る間に数を増し、その光の道を辿るように一対の白い羽根を持った人型が降りてくる。
「あ、あ……」
それは、父親から聞いたことがあった。海を隔てた向こうの大陸、合衆国からやって来るという天使。
降り立った大地で虐殺を行うから、翼が生えた男か女か分からない見た目のヤツを見たらすぐ逃げろと父は言っていた――
「天使だ……逃げるぞリリアナ!」
「きゃっ」
――妹の手をとって、駆け足で村まで引き返す。
「おにいちゃん、枝が落ちちゃったよ」
「いいから、急いで村まで戻るんだ」
父さんと母さんは無事か?
見つからずに村まで戻れるだろうか。
妹をおぶって走るのと、こうして手を引いて走るのとどっちが早いんだ――そんな様々な思考が少年の頭と胸の内を駆け巡る。
だが、今まさに天使たちの一体が、木の枝を踏み鳴らして走る兄妹を見定め標的にしようとしていた――