極私的俳句論 その28 どんな俳句が入選するのか?
いわゆる伝統俳句
まあ極く一般的な俳句ですね。
その現状の一端を俯瞰してみたいと思いますね。
ということはどんな俳句が良いとされているか
という目安でもあるわけですが、
というわけで
実際の句について具体的に見たほうが
良いのですが
それだとネタワレ?してしまうので
実際の俳句大会で入選した実作の
選者の講評から
見れば
どういう句を取っているか一目瞭然ですので
そういう方法で
今の俳句の実態を見てみましょうか。
で
今私のところに
一冊の、、とある、、俳句大会の
入選作品集があります。
その入選作の講評から見えてくる
入選のための?
「傾向と対策}?を
俯瞰してみましょう。
その俳句大会最高賞の大賞句への選者の講評です。
この大賞句がまた蜘蛛が巣を張って雨にぬれていたというまことに
写生句ですという以外何の能もない句なんですが
選者曰く
「蜘蛛の巣の美しさが描かれている句」だそうです。
蜘蛛の巣?そんなものどうでもいいでしょ?
もっと他にないのか?
さて次は、、
知事賞句
選者曰く
「よく言い当てた句」だそうです。
逆に言うと、、巧妙に?言い当てただけのほかになんのとりえもない句?ということです。
次が市長賞句
選者曰く
「空に向かっている、、と、とらえた若々しい句、」だそうです。
空に向かっている?そんなのあまりにも平凡すぎる表現でしかないでしょ?
次は議会議長賞
選者曰く
「コメの一粒に照らす月が効果的」:だそうです。
そんなの、微細な表現過ぎて、、意味ないでしょ?
と、、、
まあことほど左様に
こんなくだらない駄作ばかりが
最高賞です。
怒る気も失せて
情けなくて?
そうしてむなしくなるだけですね?
こんな句が
はたして
歴史に残りうる句なのか?
100年後にも
愛唱される大和心のスピリット句たりうるのか?
と、問われれば、、それは100パーセント、ノーです。
蜘蛛の巣も
米粒も
そんなものどうでも良いでしょ?
もっとあなた自身の心の叫びや
苦悩
沈思
余情
風雅
三昧
遊行
を歌わないで、どうするんだよ、
と、思うのは私だけでしょうか?
蜘蛛の巣が雨にぬれていて光った、、だの
米粒に月光が照っていた、、だの
そんな句って?
バカバカしいにもほどがある?
と、思いませんか?
でもこんな句が
最高賞であり
市長賞なんですよ、
それがまあ
ほとんどの俳句大会の、現状でしょうね?
実際、こんな俳句大会の入賞句すべてが今すぐ
消えうせたとしても、
誰も困らないというか
むしろ、サッパリしていいくらいですよね?
それほどつまらない
無意味な
インパクトゼロの
ただの、写生句ばかりなんですよ。
まあ要するに、
そこらの俳句大会の
選考基準は?
「うまくとらえた}
「うまく言い表してる」
「その一節が効果的」
「気分をよく表している」
これだけなんですよ。
そんなことどうでもいいでしょ?
もっとほかにうたうことがあるでしょ?
幽玄とか
自然の秘密とか
花の神秘とか
動物の霊力とか
でも
実際の俳句大会の選考基準は
「うまく言い表してる」句しか
入賞しないんですよ。
これがまあ
今の俳句界の
ばかげた実態であり
真相なんですよ。
そういう実態を見ると
俳句を真剣に作るなんて
気にならないでしょう?
なりますか?
ならないでしょ?
まあ
いわゆる
「公民館俳句」
「日常俳句」
「ありふれた写生俳句」
それしか入賞しない
という
俳句大会の実態なんですよ。
じゃあほんとのの俳句ってなんだろ?
私の思い描く本物の俳句って?
それは
1、純真になりきる
2、自分を信じ切る
3、思い込みを捨てる
4、媚びない
5、邪心を捨てる
6、感性の赴くままに
この6項目がすべてでしょうね。
でも?
実際の俳句大会ではまずそういう句は入賞しないでしょうね。
つまり、、
写生句ではないからダメ。
伝統俳句のセオリーから外れている。
感情的過ぎる。
まあそういうことですよ。
角川治樹氏の俳句は、私は好きではありませんが
彼が言うところの
『俳句は魂の三行詩」
というお言葉は好きですね。
ただうまく言いあらわしただけの俳句なんてくだらないですよ。
俳句とは、、
魂の奥底から湧き出した呻き?呟き?雄叫び?
でしょう、
上っ面だけの、、技巧的な、、小細工の、、あざといだけの、、
「うまく言い表した」だけの
俳句なんて無意味ですよ。
そんなのただの言葉遊びでしかないじゃないですか。
そう思いませんか?
でも?
現状の俳句界は、、、
俳句大会は
そういう「うまく言い表した」だけの俳句しか
入選しないんですよね。
それが実態です。
それが哀しい俳句界の現状です。
まあ
でも
100歩譲って?
開き直って?
達観するなら?
所詮
俳句なんて、第二芸術でしかないし
ただの、言葉遊びでしかない、、
というのが
偽らざる真実なのかもしれませんよね?
まあ、言ってみれば、、高尚な?言葉遊びですね?
あるいは
俳句とは「座興」であり
「存問」である、、と
いみじくも喝破した人もいますからね。
その意味は、、
俳句とは、、高尚なお遊びですよ、、という意味ですよ。
都都逸とか
小唄とか
講談とか
落語とか
謎かけとか
大喜利とか、、、、
そういうような言葉芸?言葉遊び?にすぎないという、
つまり
娯楽?であり
遊芸であり
暇つぶし?であり
習いごと?であり
お茶お花、、、的な、、伝統芸流、、、という位置づけ。
だから俳句にはれっきとした?流派があり
師系?があり
御家流?であり
俳風?があるという実態ですよね。
だからこそ、
「わが流派の俳句は、そういう句は読まない」なんて堂々と
主張するわけですよ。
まあこれが俳句の実態です。
俳句にはお茶お花みたいに
師匠?がいて
つまり俳句の、宗匠?ですね。
そこに弟子が参集して
俳句を添削してもらうという、まさに茶道。華道ならぬ、
『俳道』?ですよ、
「君、こういう句は我が流派では、ダメなんだよ」とか言われて
「ははあ、ありがとうございます」なんて
弟子がかしこまってあわてて修正したりして、、
これが「文学」とは誰が思いますか?
俳句は文学なんかじゃない、というれっきとしたこれが証拠ですよね。
いやしくも「文学」なら自分がすべてであり
自己表現がすべてでしょう。
たとえば、、、
太宰治が、師匠がいて?
「君、これは我が流派にはふさわしくないんだよ」
なんて言われますか?ありえないでしょ。
ところが俳句では堂々とそれが行われているっていう事実。
俳句には師匠がいて、弟子がいて「師弟関係」がある。
俳句の流派があり
俳句の「師系」があり
その流派なりの「俳風」が歴然とある。
これって?文学ですか?
そうじゃないでしょ?
文学とは全く異なるもの、、、ですよ。
お茶とかお花の、、伝統芸?の世界と全く一緒でしょ?
だから俳句は文学なんかじゃないし、、、、
高尚な?言葉遊び、、伝統芸だといえるのですよ。
ま
そういうわけで、、
だから私のように
カッカして
非難したってしょうがないじゃないか、、っていうのが
大方の見解なのかもしれませんがね、。
まあ
確かに今の俳句界なんて物は、
暇な老人の余暇活動であり
主婦のカルチャーセンター俳句であるというのが
今の俳句ブームを支えている人々なんですからね?
ということで、
私の現状俳句への抗議なんか誰も相手にしない?ってことで?
おしまいですよね?
それでは
そういうことで?
ハイ
さようなら。
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