第八幕 1
第八幕 1
一か月後――俺はオスクロ国の冬終い祭りに来ていた。
日本でいえば三月に相当する季節だろうか。緯度はテュルクワーズとそう変わらないが、標高が高い分、オスクロ国にはまだ身の震えるような冬の気配が色濃く残っていた。吐く息は白く、レザーや毛皮のジャケットが手放せない。道すがら、数日前に降ったと思しき雪を何度も見かけた。
冬終い祭りとは、それら執拗な冬の気配を掃って、春を迎える祭りらしい。
オスクロ国は光と影を司る精霊の恩恵を受ける土地というだけあって、国境を警備している町から、国内の流通の中継点である街にいたるまで、夜でも現代日本の繁華街のようにオレンジ色の光に包まれていた。その正体は術者の言霊術や、照明機器である。
照明のみならず、たくさんの機械がオスクロ国では発明されていた。
テレビみたいなものや暖房装置、自動採掘機などたくさんあり、中には、何に使うんだこれ?と首を捻るものも多いが、どれも興味深い。驚いたことに車のようなものまであった。そしてそれらの動力源が光だというのだから、俺は二重に驚いた。
「うー、さむっ」
現在、俺たちは王都までの街道を馬車で進んでいるところだった。太陽はとっくに沈んでいるため、窓の外を眺めていると闇の中を泳いでいるような不思議な心地がする。御者側の窓を開けばまだ少し遠いが、前方にオレンジ色に光る場所が見えていた。あそこがオスクロ国の王都ブレイズ。俺が、この芝居の終わりを演じる場所だ。
「やっぱ暖房装置の一つくらい借りてもよかったんじゃないか?」
防寒着を二枚重ねているにも拘らず、ささいな隙間から入り込む冷気に肩が震える。
「なりません」
対面に座るエステルが首を横に振った。しかし、その彼女も顔は白く、唇は紫だ。
「陛下、辛抱してくだされ。何か仕込まれているとも限らぬからのう」
横に座るイザベルが諌めてくるが、はっきり言って説得力皆無だった。イザベルは俺以上の重装備で、きっと上着だけで三、四枚は重ね着しているだろう。クマのようにもこもこしており、もはや立ち上がることすらままならないような状況だった。馬車がもう少し狭ければ、彼女の纏う衣服が、通り抜ける冷気を遮断してくれたかもしれないが、あいにく六人掛けの幅広の馬車ではそうもいかない。
今回の大芝居に付いて来てもらった妃候補はエステルとイザベルだけで、あとの三人は留守番をしてもらった。
後続する四台の馬車と騎馬には、アレクと俺を警護してくれる兵士たち三十人がいる。
寒さの他にも問題はあった。
「もうちょっと早く進んでくれないかなー」
先導してくれるのはオスクロ国のナントカ公なのだが、彼が乗っているのは馬車ではなかった。
外観は、茶色の巨大な虫といったところだろうか。左右四本ずつの足がガチャンガチャンと喧しい音をたてながら前進し、上に取り付けられた二本の管からはひっきりなしにフシューと蒸気が噴き出している。外壁はブリキのような素材で覆われ、プラスチック――みたいなものだと俺は思うのだが、彼らは透明板と呼んでいる――がはめ込まれた窓が四方に一つずつある。そこから見える黄色い明かりや中の様子を窺う限り、ナントカ公とやらは寒さに悩まされていないようだ。
だが、その御世辞にも車とはいえない移動用機械は進行速度が遅く、さらに左右への揺れが激しそうだった。馬車だってそう快適なものではないが、あっちとこっち、どちらがいいかと訊かれれば俺は迷わず馬車を選ぶ。実際、そうしたし。
一月前、二人の使者に手紙を託したあと、シャムロフ大臣が手を回してくれたのか、オスクロ国から色よい返事がきたのだ。
シャムロフ大臣には、俺がロレンツォの偽物であることやそのロレンツォの死をどのように公表するつもりであるか、全てを記した手紙を送り、大臣の協力とオスクロ国で騒ぎを起こすことへの許可をもらった。
一方で、オスクロのウィリアム国王には協定について話し合うため、オスクロを訪問しますと別に手紙をしたため、こちらも承諾の返事をもらったのである。
そんなわけで俺は、表向きは会談と冬終い祭りの観光を兼ねてオスクロ国を訪問していることになっていた。テュルクワーズの国民はもちろん、バルタザールもそう思っているし、オスクロ国の非開戦派の人たちも、シャムロフ大臣と直接協力をお願いする人たちを除けば俺の思惑は知らない。
あまりの寒さに馬車の中でスクワットでもしようかと思い始めたとき、ようやく王都の外壁に辿り着いた。
「これはこれはロレンツォ様、よくぞいらっしゃいましたな。私はデフリン・ジョーク。国王陛下よりこの度のあなた様のお世話を仰せつかっております。御用がありましたらなんなりと申し付けください」
馬車から下りると、ごつい防寒着の上からでも分かるほどダルマ体型のおっさんが風船のように丸い指を差し出してきた。左手には彼の体重を支えるにはいささか心もとない、通常サイズの杖が握られている。
その体型でデフリン・ジョークとは、本当に冗談みたいな名前だな――などと失礼極まりないことを思いながら彼の手を握り返す。
握手を終えたあと、ジョークさんは杖でカツンと床を打った。
「ご苦労だったな、ナルバエス公。もう下がってよいぞ」
「はっ」
案内してくれたナントカ公は再び奇怪な移動機に乗り、王都を囲む外壁沿いにガシャンガシャンと消えていった。
「あいにくですがロレンツォ様、ウィリアム陛下は多忙の身の上でして、対談までお会いできないことをお詫びしておりました。それまでは冬終い祭りをお楽しみくださいとのことです」
冬終い祭りは明日から二日間行われ、その最終日に祭りの催し物の一つとして俺とウィリアム国王の対談が行われる手はずとなっていた。衆目の集まる場での対談を俺が持ちかけ、説得の末、オスクロ国の了承を取ったのだ。
「それでは宿へご案内いたしましょう。……しかし、本当によろしいのですかな? 今からでも王城内に皆様の宿泊場所を用意させることもできますが?」
「いえ。これだけの人数が全員、お世話になるわけにはいきません」
というのは建前で、本音は飲食と城内での奇襲を警戒してのことだった。シャムロフ大臣から事前に、城ではなく街の宿屋を取るよう勧められたのだ。その助言に従い、俺たちは街の中心にある高級宿を取っている。
「左様ですか……。心変わりされましたら、いつでも申し出てください。それでは宿へ参りましょう」
ジョークさんの合図を受けて、静かに外壁の門が開く。
オレンジ色の光に包まれた街には人っ子一人見当たらなかった。
「ここブレイズは眠らぬ街とも言われておりましてな。普段でしたらこの時間も国民が歩いておるのですが、今晩は祭りの事前準備という名目で外出を控えるよう言ったのです」
いちおう国賓である俺たちへの配慮なのだろうか。
ジョークさんに先導されながら、大通りを三十人ばかりが無言で歩く。もしもこの真夜中のパレードを目撃している者がいれば、一目で俺たちが只者ではないと分かるだろうが、それでもテュルクワーズの一行だとはバレないはずだ。兵士たちはみな、テュルクワーズの軍服を着ていないし、そうと分かる徽章の付いたものは一つもない。
「宿の者には全員、皆様について探らないよう言い含めておりますので、どうぞ気兼ねなくお過ごしください」
四階建ての白亜の建物の前でジョークさんは足を止めた。この宿を丸々貸し切っているため、それぞれの部屋に明かりはまだ灯っていない。
ゆっくりと中から玄関扉が開き、人の良さそうな中年の男が深々と頭を下げた。
「ようこそいらっしゃいました」
暖かい空気に誘われて俺たちは宿屋へ入る。
「いらっしゃいませ」
「いらっしゃいませ」
「いらっしゃいませ」
途端、いらっしゃいませの大合唱に出迎えられて面食らった。ロビーには数十人のホテルマンとホテルウーマンが揃っている。
「さて、どういたしましょうかな」
ジョークさんが腹を揺らしながら振り返った。
「ご所望でありましたら、明日は私が祭りをご案内いたしますが?」
「それには及びません。護衛もこちらの兵だけで間に合います」
「左様ですか。しかし、二日目にはうちの兵も付けさせていただきますぞ」
「分かりました」
「では、私はここで失礼いたしましょう。私に御用の際は、宿の者にお申しつけくださればすぐに飛んでまいります」
杖を後ろに回して会釈すると、ジョークさんは宿から出て行った。
「リセイ殿、明日は妾とエステルと一緒に祭りに行ってくれるのじゃろう?」
部屋決めに一悶着あったのち、俺の右隣のベッドにはイザベルがいた。
「えっ、各人の自由行動にしようと思ってたんだけど?」
とはいえ、俺やイザベルが祭りへ出かけるとなれば、兵士たちは嫌が応にでも警護をしなければならない。だから明日は、俺は終日宿屋にいて、兵士たちには交代で祭りを楽しんでもらおうと思っていた。心配性なアレク辺りは血相変えて「ここはオスクロ国内なのですよ!? 恐れ多くもリセイ様を差し置いて、わたくしどもがそのようなことできるはずがありません!」と叫びそうだが、その国までわざわざついて来てくれた兵たちに、三十分や一時間くらい自由時間を取ってもらったところで何か起きることもないだろう。
「リセイ様は行きたくないのですか?」
左隣のベッドに腰かけたエステルが、探るように黒い眼で俺を見る。
「……俺はいいよ。寒いのは嫌いだし、人混みも嫌いだ。いつ女に当たるとも知れないからな」
「嘘じゃな」
「嘘ですね」
即座に見破られる。
「っ……嘘じゃねーよ」
「決まりじゃな! 明日は妾たちとリセイ殿とで祭りに出かけるぞ!」
いつ、どのタイミングの言動が決定打となったのか。解説をお願いしたい気もしたが、そうするには少し疲れていた。すでに日付は変わっているというのに、まだ風呂にも入っていないのだ。
「……勝手にしろ……」
それに、いくら抗議を重ねたところでイザベルは頑として首を縦に振らないだろう。……最後くらい、彼女の望むように行動するのも悪くない。
自分でも意外に思う容認に、イザベルもエステルも瞠目して顔を見合わせた。そして、イザベルは花が咲くように破顔し、エステルは控えめに相好を緩ませる。
「とっても、楽しみじゃ!」
「自分がしっかりとお守りしますので、お二人は気兼ねなくお楽しみください!」
「それは少し違うぞ、エスター。明日の祭りはリセイ殿との初めての逢引きなのじゃ。妾だけでなく、そなたも楽しまねばならない」
「しかし、自分は――」
「しかしもカカシもないのじゃ。とにかく、明日は武人のエスターとしてではなく、一人の女性エステルとして祭りに行くこと。よいな?」
「ええっ!? し、しかし、自分は武人としてリセイ様に抜擢いただいたのです。それを、祭りを楽しむなどしては他の兵士たちに示しが付きません!」
「むぅ。相変わらず武人としてのそなたは頭が固いのう。……ならば、敵の目を欺くための変装というふうに考えてみてはどうじゃ?」
おいおい、ライライやドミニカならともかく、そんな言い方でエステルが乗せられるわけないだろ。
「――変装……ですか? 確かに、身分を偽る以上、大々的に警護をするわけにはいきませんからね……」
簡単に乗せられやがった!
「うむ。ズボンよりもスカートの方が大きめの武器を携帯しても目立たぬしな。そうと決まればさっそく準備じゃ!」
善は急げとばかりに、イザベルが荷物をひっくり返し始める。
「い、今からですか!?」
「止めとけって。もう夜遅いんだし、明日の朝準備すればいいだろ? 俺は風呂入って寝るから、それでも君らが準備をするつもりなら、俺は別の部屋で寝るからな」
イザベルに、拝みに拝みに倒され、絶対俺に当たらないこと! という条件の下、同室を許したのだ。
「……もうこんな時間じゃったのか。そうじゃな、準備は明日の朝しよう」
壁にかけられた時計――一定の早さで光線を動かし、棒に刻まれた目盛りに当てることで時を示すもの――を見て、初めてイザベルは現時刻を認識したらしい。彼女がひっくり返した荷物を壁際に寄せるのを見て、エステルもほっと息をついた。
俺も、安らかな眠りが保たれそうなことに胸をなでおろす。
「では、リセイ殿の背中を流しに行くとするかの!」
――と思ったのも束の間、イザベルがとんでもない爆弾発言をかましやがった。
「え?」と言ったきりエステルは硬直し、俺は全速力で部屋を脱出した。