第五幕 3
第五幕 3
頭の疼きに起こされて目を開けたとき、俺は最初に――いや、最初をやり直した部屋にいた。
視線を感じて起き上がれば、室内に今回の役者が全員揃っていた。
ライライ、ドミニカ、イザベル、ヴィリオーネ、アレク。
五人の姿を見た瞬間、怒りに頭痛が吹き飛んだ。
「どういうつもりだ!?」
俺の一喝にライライが肩をビクつかせて、今にも泣き出しそうな顔になったが、そんなのしったことじゃない!
「お前ら、俺の記憶を奪ったなっ! 父さんが――……いなくなったときの……っ! 落ち込む俺は使い物にならなかったか! だから、俺の記憶を奪って、何も知らない状態にしたんだろう!?」
「違う! リセイ殿、話を聞いて――」
「だったら!」
弁明しようとするイザベルを睨みつけて、俺はいっそう語気を荒げた。
「なんでそんなことをしたっ!? お前ら全員、父さんが死んだことを知ってたんだろう!? それを、作為的に消して、俺が忘れているのを見て、何を思った!? 良い事をしたと、偽善的な自己満足にでも浸ったのか!? 余計なお世話だ!! だから女は――人間は嫌いなんだ! 俺は、誰にも、関わりたくないし、関わって欲しくない! 誰にも期待しないし、期待されたくない! 王様ゴッコはもう終わりだ!」
とうとう、ライライが泣き出した。
「ひっく……リセイさま、ごめんなさい……うぅ……ライライが……やったの」
少女が告白するまでもなく、誰が実行者かは歴然としていた。
時を操り、時間を一年前に戻すことができる姉妹なら、俺の時間を戻すこともできるだろう。
「……ごめんなさい」
「本当に、すまぬことをした」
「リセイ様のお怒りももっともです。申し開きもできません……」
「ごめんなさい。でも、ワタシは反対したのよ……」
「黙れ!」
誰も彼も腹立たしかった。俺の記憶を消したやつらがそのあと、どんな口裏を合わせて俺を騙していたのか。それを考えるだけでも、沸騰していた怒りがさらに煮立つ。
「出て行け! 二度と俺の前に顔を見せるなっ!」
全員が部屋を出て行ったあと、俺は一人きりの部屋で声を押し殺して泣いた。
薄情なもので、涙はいつか涸れるし、泣き出す気力もいずれ消え失せる。
深夜になると、俺は死人のように横たわっているだけとなっていた。
「……なんで俺、生きてるんだろ……」
あのとき父さんと一緒に死んでいれば、こんなに苦しむこともなかった。
異世界にいたらしい兄や両親のことなど知らない。俺の家族は父さん一人だけだ。
そして、この世界のどこにも、もう俺の家族はいない。
一人ぼっちだ。
これまでにないほど、世界が余所余所しく感じられた。
世界のそこかしこで幸福を感じているどこかの誰かが憎くなる。
「……――嫌だ」
同時に、そんな自分に嫌気が差した。
俺を一人にする、この世界にも。
「消えたい」
いなくなれば、これ以上辛い思いをしなくてすむ。
「――それなら私が、あなたの願いを叶えてさしあげます」
静寂の沈殿する室内を、木琴のように柔らかな声音が打った。
左右で目の色の違う女性が、部屋の入り口に立っている。
「オリネラさん……」
自分でも意外だったが、俺は彼女が来ることを知っていた。いや、もしかしたら彼女を待っていたのかもしれない。
「リセイさん、大切な者を失った者同士、話をしませんか?」
セイレーンに誘い出される船乗りのように、俺は一抹の不安や疑問を抱くこともなく、彼女の言葉に頷いた。
オリネラさんは彫像のように形の整った微笑をすると、波打つ黒髪を躍らせて歩き始めた。
長い道のりを、ともに一言も発さないで歩き続ける。人ばかりでなく城そのものも眠りについた深閑の中、行きついた先はオリネラさんの部屋だった。
部屋の中は城内と同じ静けさに満ちていた。ぼんやりとした青色の空気も、遊泳する魚の姿も見えない。
ロッキングチェアと机、本棚がある、いたって普通の部屋だった。
「こちらへ」
オリネラさんが案内したのは、部屋の左右にある扉のうち左側のものだった。ドアノブを回して中へ入って行く。
そこは、窓のない四メートル四方の部屋だった。中央に置かれた机の上に、二十センチはありそうな水晶玉が置かれている。
透明な球体の中では、白いもやが彼方此方へ揺らいでいた。
「申し訳ありません、リセイさん。私の身勝手な願いであることは重々承知していますが、その上でお願い申し上げます――死んでいただけませんか?」
「――」
そのとき、俺は何と答えようとしたのか。
それが判明する前に、俺の意識は混濁した。
岩のように鎮座する巨大な氷の塊は、どこから放たれるのか分からない光によって鏡のように、見えるものをそのまま映していた。巨人が掌から落としてしまったようにそこかしこに氷塊があるせいで、三面鏡だとか鏡の迷路だとか、そういう、どこを見ても自分がいるという気味の悪い状況になっている。
「人間が嫌い、ねぇ」
左手の氷に映る俺の影の一つがそう呟いた。やや疲れたように、やや嘲弄するように。
「本当は恐いだけなんだろう」
今度は、俺の真後ろから声が聞えた。例によって氷に映る俺の影である。眼鏡のブリッジに指を置いたまま俯くそいつは、地面に言葉を落とした。
「誰かに近づいて、傷つくのが恐いだけだ。本当は弱い己を誤魔化すために、面倒だとか、嫌いだとか、そういった言葉で壁を作っているにすぎない」
ああその通りさ。でも、別にいいじゃないか。誰にも迷惑をかけていない。最低限の人間付き合いはしているつもりだ。誰に咎められるわけもない。
「延々に堂々巡りをする水掛け論さ」
右手に映る俺の影が楽しそうに、喜色を滲ませて舌を回した。
「嫌い。恐い。傷つきたくない。でも嫌われたくない。だから距離を取るのに、その隙間に自分で傷ついている。だから傷に気づかないように、嫌いなふりをする。これでいいのだと納得できる理由を作る。誰かと関わるのは面倒臭い。そもそも俺は人間が、特に女が嫌いだ。だから壁を作る」
「ならば」
論争とも言えない無意味な独白の中で、その一言だけが霧を裂く朝日のように閃いた。
「自分から相手と距離を詰めればいい。戦と同じだ。遠くから見ているだけでは何もできない。少しでも自分の力で何かを変えたいなら、危険を冒してでも近づかなければならない」
朗々と、俺に似合わない快活で前向きな説法を垂れてくれたのは、正面に映る俺の影だった。正面にあるそいつだけが、唯一俺の実体が落とす本物の影なのだろう。
「誰だ、お前は」
しかし、正面の影は俺ではなかった。
グラウンドを周回する陸上部よろしく、俺のダラダラとした言葉遊びは逸脱もしなければ前進もしない。その中において、今しも発言したその影は異様だった。
「俺は、そんな偽善じみた手慰みは言わない。お前は俺じゃない」
否定すれば、自分と寸分なく同じ人影が笑った。
とても楽しそうに。
「くはっはっは! お前ホントに暗いな! 何度見ても、これが俺の弟で、同じ魂を持つ者だとは思えんな!」
夏の入道雲がたゆたう青空のような、晴れ晴れとした笑顔だった。
「お前がロレンツォか」
「おおっ、そうだ。じつに十二年ぶりの感動の再会だ。こんな格好じゃなけりゃ、熱い抱擁でも交わすんだがな」
俺はごめんだ。
「――さてっと、時間もねぇから単刀直入にいこうか。俺とお前は兄弟だ。それに、お前の魂には俺のものも混入している。つまり、俺がその気になればお前の意識なんぞ追い出して、俺がお前の体を使うこともできる」
きっと、それがオリネラさんの狙いなんだろう。だから、俺に死んでくれと頼んだ。
「――構わないよ。その方が、みんな喜ぶだろ」
俺の死を悲しむ者より、ロレンツォの死を悲しむ者の方が圧倒的に多い。どっちがいいかなんて、幼稚園児でも分かる簡単な問題だ。――国のためにも、そこに住む人のためにも、オリネラさんと子供のためにも、ロレンツォが生きていた方がいい。
対面の俺が、俺らしからぬ苛立ちを顕にした顔になった。
「気に食わねぇなぁ」
「別に、お前に気に入られたいわけじゃない」
「クソ生意気なガキが、口先だけは一端ぶりやがって。言っとくが、お前に選ぶ権利はないんだよ」
何がしたいんだ? こいつは?
「お前の生存本能に働きかけて、生きたいって思わせようとしたんだよ」
「さっきから気になってたが、なんで俺の考えがただ漏れなんだ?」
「一つの体を俺たちで共有してるからな」
「だったら、なんで俺にはお前の考えてることが分からないんだよ」
「考える前に話してるからな!」
少しも誇れないことを、胸を張って答えるロレンツォ。国王として、どうなんだそれは。
「話が逸れたな。とにかく、俺はお前の体を乗っ取るつもりはない。確かにオリネラはそのために俺の魂の欠片を捕まえてたが、俺がここに来たのはお前に伝えたいことがあったからだ」
「伝えたいこと? 言っとくが、俺はもう何もするつもりもないぞ」
「はっ! 何もするつもりがないだと? ただ何をすればいいのか分からだけじゃないか! だから俺が教えてやるんだよ。お前が何をすればいいのか!」
ロレンツォの言い分は傲慢だが、全く的を外しているわけでもなかった。
「フィアンマ国と会談しろ。国を守れ」
「なんで俺が――」
「お前しかいないからだ。いいか、こう言えば相手は必ずもう一度応じてくる。『十二年前の、兄王子リビトール・ドラゴネッティの行方不明について真実を話す』そう言って、テュルクワーズの王都にあるリュエル神殿まで連れて来い。……――迷ってるな。だから、お前にも同じことを言ってやる。お前の育ての父親であるリヒトがなぜ死んだのか。俺は知っている」
「事故じゃないのか!?」
「違う。そしてこれは、お前を地球へ送った理由に関係する。知りたきゃ、アドリア―ナを連れて来い」
どこにあるとも知れない光源が瞬き、ロレンツォの姿が歪んだ。
「……俺だってなぁ、悪いと思ってるんだぜ。本当はもっと、万全の準備を整えてお前を迎えてやるはずだった。……オリネラにも、酷いことしてるよなぁ。最低の夫で、最低の父親だ」
「そう思うなら、どうして生きない!?」
そうする方法があるのに!
「くは! その言葉、そっくりそのまま返してやるよ! お前はどうして、生きたいと思わない? 確かに、お前を襲った絶望は深く、足を止めるには充分だったろう。けど、それがどうした? 死んでないなら、生きるしかない。たとえそれがどんなに苦しいものであってもな。この世で唯一、お前の生殺与奪を決められるのはお前から最もかけ離れたものなんだよ」
再び、ロレンツォの姿が崩れた。硬質な音がして、正面の氷塊にヒビが入る。
「おい、ちょっと待て! そんなに国を憂うなら、オリネラさんを大事に思うなら、なんでお前は死んだんだ!?」
しかしロレンツォは答えずに、ハエを追い払うように片手を振った。直後、氷が砕けて欠片が飛び散る。それに続いて周囲に点在していた氷塊も次々と壊れ始めた。
「答えろ、ロレンツォ!」
「――ロレンツォ!」
自分の叫びが耳に残っているうちに、誰かの震え声が鼓膜を打った。
「ああ、あなた……! ずっと……! ずっと、待ってました! あなたが死ぬはずがないと私は信じていました……!」
華奢な腕が背中に回され、赤ん坊のようにしがみ付いてくる。彼女が額を押し付ける左肩が涙に濡れるのが分かった。
「よかった……本当によかった……!」
激しく後悔した。無理やりにでもロレンツォと交代していれば、彼女を落胆させることもなかっただろう。
「――オリネラさん」
彼女の全身が強張った。背中に回されていた腕が、糸の切れた人形のように無気力に垂れる。
細い肩に手を置いて、ゆっくりと引き離した。
右は赤茶色、左はグレーと色の違う彼女の両目には畏怖と、一条の切望が浮かんでいる。
「……すみません」
オリネラさんの両目に絶望の幕が下りた途端、自分が、この世で最も罪深い罪人に成り下がった気がした。
彼女はただ、愛しい者にもう一度傍にいてほしかっただけなのだ。
「どうして……どうしてロレンツォがいないの……!」
膝から崩れ落ちるオリネラさんを、危うい所で抱き止めてそっと地面に座らせる。
……本当なら俺は、彼女を責めるべきなんだろう。彼女は俺の死を望み、俺を殺そうとした。
だが、とうていそんな気になれなかった。俺だって、父さんを生き返らせる方法があると分かれば、どんな行動に出るか――自分でも分からない。
「あなたなんかいらない。ロレンツォさえいればいいのよ……」
この場から立ち去さろうと思いかけた心を、その一言が押し止めた。
「……うん、ごめん。俺には何もできない。だから、どれだけ俺を責めてもいいし、恨んでもいい。俺も、世界を憎んだから」
人に嫌われるのには慣れてる。
「でも、少なくともオリネラさんは一人じゃない。君には、守らなきゃいけない人がいるはずだ」
「……っ!」
嗚咽が不自然に途切れた。それが、これまでで一番悲痛な叫びのように、俺には聞こえた。
「だから、今は休もう? 目を閉じて、眠ってしまえば、少しはましになる」
きっと、それまで必死に保っていた緊張の糸が切れたのだろう。オリネラさんのしゃくり上げる頻度が少しずつ低くなり、やがて深く、静かな呼吸となった。
俺も一息ついたあと、はたと自分の現状に思い至って固まった。
オリネラさんが完全に俺にもたれかかって寝てしまったため、下手に動くわけにもいかず、かといって妊婦さんを床の上に放置していくわけにもいかない状況になってしまったのだ。
取るべき道に選択の余地などなく、俺は覚悟を決めると全身をプルプルさせながら彼女を持ち上げた。断っておくが、オリネラさんが重いわけではない! たぶん、日本の同身長の女性と比べても彼女は痩せている部類に入るだろう。ただ、彼女は妊婦さんで、そして何を隠そう俺は、女性を持ち上げたことがなかった!
女に触れているという恐ろしい現状についてはどうにか考えないようにし、相撲取りのように足を左右に開いて腰を低くしたまま不格好に歩く。
幸い、向かいの部屋に行くとベッドがあったので、背骨を軋ませながらようやく彼女を寝かせることができた。
――この夜、俺は多くの事を知り、死者に肉体を乗っ取られたかもしれないという稀有な経験までしたが、何よりも痛感したのは己の腕力のなさだった。
……少しは筋肉を鍛えた方がいいかもしれねぇ……。
翌朝、恐る恐る部屋に入って来たメイドさんに五人を呼んでもらうよう頼み、俺はラインハルト姉妹、イザベル、ヴィリオーネ、アレクと対面した。
五人とも、罰が悪そうにしているが、それはこちらも同じだ。
「昨日は、怒鳴って、酷いことを言って悪かった」
開口一番、腰を九十度に曲げて謝罪する。
「君らを見ていて、自己都合のためにそんなことをする人たちじゃないと分かっていたのに、つい責めてしまった。本当に、申し訳ない!」
我ながら、サラリーマンみたいな謝り方だな……と思って気づいた。たまに父さんが電話越しに、こうやって謝ってたっけ……。
「なにもリセイ殿が謝ることはないじゃろう……」
「そうよ、悪いのはワタシたちなんだから!」
「ふえぇぇ、よかったよぉ……リセイさまに嫌われなくて……」
好いてはないけどな! と思ったが、口に出すのは止めておいた。
「ありが、とう……」
「……」
アレクが静かだなと思っていたら、彼はこちらに背を向けていた。肩の揺れ具合から察するに、滂沱と涙を流すのに忙しくて話すこともできないのだろう。どんだけ涙脆いんだ。
「俺が訊ねるまで、君たちはロレンツォのことや俺の置かれている状況について話さなかった。情報をケチってるのかと不満に思ったりもしたが、ようやく分かったよ。俺に気を遣ってくれてたんだな。俺が果たさなければならない責任の重さに潰されないよう、少しずつ、注意を払いながら教えてくれていた」
もしも最初からナイアガラの滝よろしく、一気に情報を浴びせられていれば、きっと俺はパンクして全てを拒絶しただろう。
記憶を失う前の、この世界に来た本当の最初の日のことはダイジェストにしか思い出せないが、あのとき俺は誰の話にも耳を傾けようとしなかった。
「おかげで――ずいぶん時間がかかったし、ヘマもしちまったが――覚悟が決まったよ」
「それでは……!」
ようやく感涙の坩堝から脱却したアレクがこちらを見た――っておい、鼻タレてんぞ! せっかくのイケメンが台無しだ!
「ああ、俺は、王様代行を立派に果たしてみせる!」
「……って、代行なの!?」
一拍の間のあと、ヴィリオーネが力いっぱいツッコンだ。