第四幕 4
第四幕 4
アドリア―ナ女王が部屋を出てからのことは、断片的にしか思い出せない。
ただただ、自分がとんでもない失敗をしてしまったということと、会談の成功を信じて疑わないアレクさんやエスター、ヴィリオーネ。そしてテュルクワーズで待っているイザベルとドミニカ、ライライの顔がぐるぐると頭の中で回り、対面したこともない国の政治家や国民たちの期待と失望、非難が黒いもやとなって心に重くのしかかった。
「ロレンツォ様」
俺の帰りを今か今かと待っていたらしいアレクとエスターが出迎えてくれたが、二人は俺の蒼い顔を見て何が起きたか察したらしかった。
「今日はもうゆっくりと休んでください」
励ますように、ふらふらと歩く俺の手を引いてくれたエスターに、俺は身じろいで首を振った。
「――エスター……今日中に、この国から出られるか……?」
それは、女王に言われたことでもあったが、何より自分が切望していたことだった。
失敗を隠す子供のように、俺は自分の失態から一刻も早く逃れたかったのだ。
俺にはもったいなさすぎるほど誠実な彼らは即座に行動を起こしてくれた。
入浴していたヴィリオーネを風呂から叩き出し、他の者には身支度をさせて乗って来た馬車を整える。セミの抜け殻よりも役に立たない俺がぼんやりと突っ立っているうちに、アレクがフィアンマ国のお偉方に帰国の辞を述べ、夕日が地平線の向こうへ消えてまもなく、俺たちは王城の門を潜って城下町へ出た。
「何があったのか、お聞きしてもよろしいですか?」
アレクがそう訊ねたのは、城下町を抜けて王都を脱出し、キールバグの影が遥か後方で夜に溶けるようにして見えなくなった頃だった。
顎を胸につけて俯いていた俺は、ゆっくりと顔を上げる。
俺と同じ馬車にはエスター、アレク、ヴィリオーネの三人が同乗しており、三人とも、目で問いかけるように俺を見ていた。
「……申し訳ない。……けど、俺にも何が悪かったのか、分からないんだ……」
ポツリポツリと、俺はあの場であったことを三人に話した。
といっても、話すことなどないに等しく、アドリア―ナ女王に、今日中に国を出るよう言われたことを告げたあと、押し黙る三人に問いかけた。
「『あのこと』っていうのは何だ……?」
だが、訊ねる前から三人ともそれについて知らないことは分かっていた。もしも知っていたなら、会談を台無しにする恐れのあるそれを、俺に黙っているわけがない。
「自分には、皆目見当もつきません」
「ワタシも分からないわ」
一様に、困惑しきった表情を浮かべる。しかし、一人だけ、アレクだけが困惑と一緒に苦いものを含む視線で虚空を睨んでいた。
「……――もしかしたらそれは、十二年前の事件についてかもしれません」
両国の協力関係が破綻するにいたった、フィアンマ国の王子の失踪事件。
「……なるほど。三年間もこちらの申し込みに応じなかったフィアンマ国が急に態度を変えたのは、ロレンツォ様が先方に、それについて真実を話すと伝えたから、ですか……」
女王がそれをどれだけ心待ちにしていたか。あの激怒ぶりを見れば容易に想像できた。そして、何も知らない俺と対面したときの、彼女の絶望も。
「誰か、その事件について真相を知っている人はいないのか?」
まだ遅くないかもしれない。もう一度女王を訪れて謝罪し、真実を話せば予定していた会談を執り行えるかもしれない。
「知らないわ」
ヴィリオーネは否定し、エスターとアレクは無言で頭を振った。
前にもまして、困惑と失望の重苦しい雰囲気が馬車の中に満ちる。
行きの大通りと違い、どうやら馬車は整備されていない小道を走っているらしかった。
ガタゴトと上下左右に激しく揺れる中、座席の後ろにある荷物が壁にぶつかる音と、規則的な馬の足音、ときおり御者が馬の手綱を引く「はっ」という掛け声だけが聞える。
「――オリネラ様なら……」
重量すら伴いそうなほど停滞していた沈黙を打ち破ったのは、ヴィリオーネの呟きだった。
「知っているかもしれないわ」
その一言に、アレクとエスターがぎょっとして目を剥く。
「しかしっ、オリネラ様は、お話ができるような状態ではありません……!」
悲鳴のごとき声で反対するアレクの前で、ヴィリオーネは泰然と腕を組んで彼の意見を一蹴した。
「でも、あの方以上に、ロレンツォ様の秘密を知っている人はいないわ」
「それは、そうですけど……」
「エスターはどう思う?」
難なくアレクを撃沈したヴィリオーネは、交互に二人を見て傍観を決め込んでいたエスターに話を振った。
「自分は、意見を述べる立場にありませんので」
にべもなく答えるエスターに、ヴィリオーネは不満そうに眉根を寄せる。
「すぐそういうことを言う。アナタだって――」
どこからともなく、オレンジ色のシャボン玉がふわりふわりと漂ってきたのはそのときだった。ピンポン玉サイズから野球ボールサイズまで、大小様々なシャボン玉がたゆたうのを見た瞬間、ヴィリオーネが顔色を変えた。
「みんな逃げて!」
どこへ? などと問う暇もなく、俺はヴィリオーネに抱えられて馬車から飛び出た。動いていた馬車から出た反動で、冷たい草の上を転がりまくる。
「何なんだよ、い――」
怒りと困惑の言葉は、爆発音に吹き飛ばされた。
火の玉の集中砲火を受けて、一瞬前まで俺たちが乗っていた馬車が爆弾のように破裂したのだ。皮膚を焦がす熱と、眼球を貫く閃光に耐えかねて、腕で顔をかばう瞬前、それらを遮る影が眼前に躍り出た。
「エスターッ!?」
小柄な影が、俺に向かって飛来しようとしていた火の玉に飛びつく。彼の表情が苦悶に歪んだのを見た瞬間、それが何かと重なり、血の代わりに冷水を流し込まれたように全身が凍った。
目の裏で光が点滅を繰り返し、燃え盛る炎の、空気を焦がす不快な音が耳元で木霊する。肺に充満する熱気に、凍った体が壊されていくように感じた。
「ぶっ殺してやる……!」
ヴィリオーネの物騒な呟きも、どこか遠く聞こえる。二重の映像を見せられているように、目の前の光景がブレて見えて、気分が悪くなった。
呆然とする俺にアレクが駆け寄り、入れ違いにヴィリオーネが離れる。
「……父さんが……」
勝手に零れた呟きは、誰の耳にも届かなかった。
「火炎螺旋!」
馬車の向こうにあった林の中から、唐突に炎の竜巻が噴き上がった。天へ向かって飛翔する竜のごときそれに巻き込まれて、木立が次々と引っこ抜かれ、何とか暴風に耐えた木も、火炎に食らい尽くされて瞬く間に消し炭となる。
「大丈夫ですか?」
顔色が悪いのが自分でも分かったが、覗き込んでくるアレクに「大丈夫だ」と答える。
船酔いでもしたかのような気分の悪さと地面が揺れているような錯覚は治まっていないが、闇に追いかけられているような不吉な予感は薄れていた。
「それより、エスターが……」
エスターの両腕を嬲っていた火は消し止められ、同行していた医者の応急処置を受けていた。
隊長を欠いた兵士たちは、それでも狼狽えることなく俺やエスター、文官たちを囲むように展開して薄闇に目を凝らしている。
「エスター!」
煌々と林を燃やし尽くす火の竜巻に照らされて、エスターの様子は余すところなく確認できた。酷いもので、肘から先の皮膚は黒ずみ、二の腕や顎の皮膚は赤くただれている。特に二の腕から先は皮膚の下にある肉が剥き出しになっていた。軍服の前も完全に燃え、恐らく皮膚と服が癒着しているのだろう、そこに医者が僅かばかりの水をかけているところだった。
「意識はありません」
医者の声音は固かった。視線を逸らせば彼の命はないとばかりに、傷口やエスターの顔を凝視している。
「消毒して、冷やさないと!」
俺に分かるのはそれぐらいだったが、現状では最低限のその二つすら行えないということも同時に分かっていた。消毒といえばアルコールだが、食料や水と一緒に馬車へ積んでいたそれは、今しも悪魔の舌のごとき猛火に食らい尽くされている。
医者が傍らに置いた、彼の手荷物らしき袋だけでは道具が足りないのは明らかだった。
「大丈夫……です、よね……?」
どうか、そうであってくれ……!
愚かな願いに、医者は決然と現実を告げた。
「……かなり危険な状況です」
瞬間、あの不吉な予感に全身が戦いた。アレクが支えてくれなければ、後ろにひっくり返っていたかもしれない。
震えが治まらず、手足の先から血の気が引いていく。バッドで殴られたように、脳髄で痛みが反響した。
エスターの姿が、誰かと重なる。
まもなく、彼の命は――……
「違う! 助ける方法はあるはずだっ! ここは、魔法の使える世界なんだろう!? 誰か、回復術を使えるやつはいないのか!?」
医者や兵士たちにというよりは、音もなく、しかし気配だけは色濃く接近を予感させる不吉な影に向かって威嚇するように怒鳴った。
「炎をおこしたり、時間を戻せるくらいなら、人を治すことだってできるだろう!? 頼むから、エスターを死なせないでくれ……!」
「……それは、できないわ……」
長らく、木立が燃える音だけが支配していたその空間に、悲哀を押し殺し、抑揚を欠いた呟きが発された。
「ここはフィアンマとオスクロの国境。火炎と光の恩恵はあっても、癒しの精霊の恩恵は受けられないの」
「それなら一番近い、癒しの恩恵を受けられる場所はどこだ!?」
「……この大陸にはないわ。行くなら船を乗り継いで……たぶん一月はかかるでしょうね……」
今度こそ、膝から完全に力が抜けた。
「……俺の、せいだ……俺なんかを、かばったりしたから……」
「そんなことは決してありません!」
否定するアレクの声も、絶望と自責に押し潰される俺の耳には遠い。
「――また……俺は、助けられないのか……?」
両目に熱がこもり、視界が滲む。頬を滑るそれが顎から落ちたとき、ふいに左腕の強い違和感を思い出した。
視線を落とせば、腕時計のつく位置に銀色の腕輪がはまっている。本物は、呪いの腕輪だというそれは言霊術を強化する効果が――
「――腕輪だ!」
叫んで、俺は自分の乗っていた馬車に駆け寄った。炎によって天井は崩れ落ち、辛うじて馬車の体裁を保っているそれの後ろ――まとめて荷物を置いていたところに腕を突っ込もうとする――寸前、二人の兵士が慌てて俺の腕を掴んだ。
「陛下、何をされるつもりですか!?」
「離せ! 腕輪だ! 本物の腕輪をつければ、精霊の恩恵なんかなくても、言霊術を使える! アレク、そうだろう!?」
数秒の躊躇いののち、アレクは「ええ、そうです……」と肯定した。
「それなら、エスターを救えるはずだ! 俺はいいから、火を消してくれ!」
懸念を含ませた視線で俺を見つめつつ、兵士たちは渋々拘束を解いた。他の兵士たちも混ざり、砂や布をかけて消火活動を始めようとする。
「……それには及びません」
泣き出しそうな顔をしたアレクが兵士たちを制止した。処刑台へ上がる囚人さながらに怯えきった様子で、ゆっくりと腰に巻いていた布の中から掌代の箱を取り出す。蓋を開ければその下から、本物の呪いの腕輪が現れた。
「ですが、陛下がこれをお付けにならずともわたくしが――」
アレクの抗弁を聞き入れるつもりはない。その手から箱を引っ手繰ると、すでに付いている腕輪のすぐ上に本物をはめた。
「何と言えばいい?」
ラインハルト姉妹もドミニカもヴィリオーネも、詠唱や技名らしきものを言っていた。エスターを助けるには、俺は何と唱えなければならない?
「『慈愛の一欠片をこの者に、サナーレ』とお言いください」
エスターの傍らに跪いていた医者の言葉に従い、復唱する。
「サナーレ!」
言下に、金色のベールが渦巻き始めた。極小の粒子が集まってできたそれは天使のような姿を象ったあと、エスターに向かって流れていき、彼の体に吸い込まれて消える。
しばらくして、逆再生のようにエスターの体が少しずつ回復し始めた。
黒くただれた皮膚の下からは新たな皮膚が盛り上がり、肉を晒していた部分を覆っていく。死人のような顔にも赤みが戻り、途切れがちだった呼吸も一定のものに戻っていく――しかし、俺が見られたのはここまでで、次の瞬間には気を失っていた。