ミッハに会いに
第五章 ミッハに会いに
夕食の席でアイネスが言った。
「兄さん、もうすぐ予言の日ね。」
予言の日?
「ああ、そうだね。」
分かってもいないくせに、シャロンは適当に頷いた。
明日にでもアロックに聞いてみよう。
「予言の日ね。」
次の日、やはりいつもと同じように朝食を食べた後すぐに、アロックが家を訪ねて来た。
今日はハーブ園に行っている。
オリジナルのハーブをビニールハウスで育てているハーブおばさんがいて、今日は彼女のハーブ園の草取りの手伝いにやって来た。
本当にアロックはシャロンをどこにでも連れて行く。
「予言の日っていうのはね、二ヶ月に一度あるんだ。教会に大きな聖堂があるだろ?そのさらに奥に行ったところにまだ部屋があるんだ。司祭さまと限られたヒトしか入ることができない。そこに行って、ミッハが神様から予言を授かるんだ。そして、聖堂に集まった人々に神からの予言を司祭さまが伝える。それが予言の日の行事かなぁ。」
「いつあるの?」
「来週の火曜日。」
「何でそんな重要なことを教えてくれなかったの?」
「だってシャロン聞かなかったじゃん。」
「知らないことを質問できるわけがないだろ?」
ミカンという言葉を知らない人間が「ミカンってどんな食べ物なんですか?」なんて聞けるはずがない。
「来週は予言の日なんだろ?じゃあ僕はどうすればいいの?体はミッハでも、内面が僕なんだから、予言なんて受けられるわけないじゃない。」
「何とかなるんじゃない?」
「何とかならないよ!」
予言の受け方も、何もかも、一から一切分からないっていうのに、神の予言を受けることができるのだろうか。
いや、できないだろう。
だって自分はシャロンなのだから。
ミッハのオーラは緑で、草や土を豊かにする魔術が使えるとアロックから聞いて、シャロンは自分もミッハと同じ力を使えるかどうかためしにやってみたが、草はそよりとも靡いてはくれなかった。
お勉強も運動神経も能力はシャロンのままらしい。
「聖堂の奥に入って、神の予言を受ける。もしも受けられなかったら、何か適当なこと言ってごまかせばいいよ。」
「それは無責任すぎないか?」
「だって、シャロンはシャロンでミッハじゃないんでしょ。だったら、シャロンにミッハの仕事がこなせるわけないよ。」
シャロンにはできない、という言葉をじかに受けて、少しだけ傷ついた。
ミッハにはできてシャロンにはできない。
ちょっと負けたような気がした。
でも、こればっかりは仕方がない。
「あー、憂鬱になってきた。」
しゃがみこんでハーブの脇に生える草を引き抜きながら、シャロンは溜息をもらした。
「大丈夫だって!シャロンならできるよ。できなかったら、その時はその時でいいじゃん。神からの予言は何もありませんでした。でもいいんじゃない?」
アロックは草をむしりながら気楽に笑った。
「アロック!ちょっと手伝ってくれないかい!」
ハーブおばさんがアロックを呼んでいる。「はーい!」とやまびこのように返事を返すと、アロックは軍手を脱いでおばさんの呼ぶハウスの方へと走っていった。
シャロンは一人になった。
話し相手もどこかへ行ってしまったので、一人黙々と草を引きちぎる。
小鳥のさえずりとひだまりの温かさが、眠気を誘ってくる。
うとうととしながらも、シャロンは手を動かした。
「…?」
ふと、誰かの気配を感じた。
友好的なものではない。
シャロンの目は一気に覚めて辺りを見渡した。が、誰もいない。
しかし、次の瞬間!
「ミッハ、死ね!」
背後から剣を持った男が、シャロンの背中めがけて切りつけていた。
剣がかするすれすれのところで、なんとかシャロンは男の剣を避けた。
男は一人のようだ。
赤い髪に白髪が少し混じりはじめている老年にさしかかった男。
この間シャロンを襲った覆面をかぶった三人組の男のうちの一人だろう。
「待て!どうして僕の命を狙う!」
「お前が知る必要はない!」
男は剣をシャロンに向けて突き出してきた。
男の剣戟をシャロンは命がけで避ける。
その時、アロックがビニールハウスに戻ってきた。
「ニキさま!何してるんですか!」
アロックに顔を見られた男は、さっと袖口で顔をかくした。
そして、剣を投げ捨てると一目散にビニールハウスから出て行ってしまった。
「シャロン、大丈夫?」
アロックが心配そうな顔をして駆け寄ってくる。
幸い、怪我はなかった。
「何でニキさまがシャロンを殺そうとしてたんだ?」
「ねぇ、アロック。ニキさまって?」
「教会の司祭さまだよ。」
司祭がミッハの命を狙っている。
「実はこの前も覆面をした三人の男に襲われたんだ。」
「どうしてそんな重要なこと教えてくれなかったの!」
「だって、聞かなかっただろ?」
シャロンはアロックにささやかな仕返しをした。
「これではっきりとした。誰かがミッハの命を狙っている。」
一体誰が?何のために?
「僕が一人の時を狙ってたみたいだ。」
アロックがハーブおばさんに呼ばれて姿を消した瞬間、シャロンに襲いかかってきた。
ずっとシャロンをつけ狙っていたのだろう。
計画的犯行だ。
「シャロン、もう一人でいちゃ駄目だよ。」
アロックが不安そうに、シャロンの服の袖を引いた。
「用心棒してくれるんじゃなかったの?」
「君の家まで行ったんだよ。でも、もうアロックと出かけてしまった後みたいだったから。これでも探したんだよ。」
お昼になると、ハーブおばさんの家でランチをご馳走してもらった。
後から来たリアリドも相伴にあずかる。
「シャロン、この人誰?この街の人間じゃないみたいだけど。」
「リアリドっていって…何してる人だ?」
シャロンとアロックは二人で目を丸くしてリアリドを見た。
「冒険者だよ。」
冒険者といえば聞こえはいいが、ようはフリーターである。
あちこちの村や街や都を渡り歩いて、ギルドという情報屋の店から依頼を受けて仕事を果たす。
その報酬として賃金をもらう。
百万ギルの仕事もあれば、千ギルしかもらえない仕事もある。
命がけの仕事から、猫のノミとりまで、依頼の種類は様々だ。
一番多いのは、魔物退治の依頼だろうか。
魔物とは死んだ動物がマナの力の影響を強く受けて生き返ったもののことである。
たいていの動物は死んだらそのまま天国行きなのだが、魔力の強い動物が死ぬと魔物に変わる。
ギルドの一番目立つところに、いつも魔物退治の依頼の張り紙が張られている。
リアリドには、ミッハの中身とシャロンの中身が入れ替わっていることを話している。
だから話に参加させても問題ない。
「多分、ミッハを殺そうと企んでる連中はまたミッハを殺しにやってくるよ。」
テーブルに肘をついて、リアリドが言った。
ランチも終わり、テーブルには食後の紅茶が置かれている。
ハーブおばさんは買い物に出かけて、今はシャロンたちだけがハーブおばさんの家にいる。
大きな窓ガラスからさす日差しが昼間の明るさを恵んでくれている。
「もしかして、ミッハを氷づけにして海に沈めたのも司祭さま?」
「もしかしなくても、そう考えるのが妥当だろうね。」
リアリドが言った。
「けど、どうして司祭さまはそんなことを?」
教会で一番偉い人が、なぜミッハの命を奪おうとしているのだろう。
「アイネスが何か知っているかもしれない。」
「アイネスが?」
きょとんとした瞳でアロックがシャロンを見る。
「様子がおかしかったんだ。問いただせば何かホコリが出てくるかも。」
「じゃあ、今からさっそくアイネスのところに…。」
「いや、それは僕にまかせて。」
シャロンは席を立とうとしたアロックを手で制した。
「僕がアイネスに聞いてみる。だから、それまで君たちは何もしないでほしい。」
シャロンは紅茶の最後の一口を飲み終えると席を立った。
「家に帰るよ。」
リアリドも一緒に立ち上がる。
シャロンの命を狙っているのが司祭だけとは限らない。
リアリドの剣の腕は本人も言うように、少しは役には立つようだ。
アイネスが箱を開ける鍵だった。
アイネスは確実に何かを隠している。
シャロンとリアリドは、アロックを一人残してハーブおばさんの家を出た。
ミッハの家には、アイネスが一人いるだけだった。
父親は仕事、母親は買い物でアイネスは留守番だった。
「あら兄さん、今日は帰りが早いのね。」
アイネスは洗濯物をたたんでいるところだった。
丁寧にキッチリとアイロンでもかけたかのように、シャツをピシッと正方形に畳んでいる。
「ちょっと聞きたいことがあるんだ。」
何?と何の警戒心もなしにアイネスが首をかしげる。
「ミッハのことについて。」
「ミッハって…、兄さんのことがどうかしたの?」
玄関の外でリアリドが待っている。
早急に話は終わらせたい。
「僕はミッハであってミッハじゃないんだ。」
「どういう…こと?」
「僕はシャロンだ。」
シャロンは自分のことを全てアイネスに打ち明けた。
アイネスからは予想通りの反応が返ってきた。
口に手をあてて、大きく開いてしまった口を塞いでいる。
「僕が帰ってきた時、君はぼくに泣いて謝ったよね?」
あんなひどいことをして、ごめんなさい。まさか、あんなことになるなんて思ってもいなかったから、と。
「どうして?」
「それは…。」
「僕は君に隠していたことを全て話した。今度は君が僕に本当のことを話す番だよ。」
アイネスは俯いてしまった。
そして、ポツリと言葉を漏らした。
「兄さんを氷づけにしたのは、私よ。」
シャロンの体の中に電撃が入ったかのような衝撃が走る。
ミッハを氷づけにした犯人はアイネスだった。
でも、何故彼女がそんなことをする必要があったのだろうか。
「司祭さまに頼まれたの。兄さんに氷の魔術をかけて氷づけにしてくれって。それが予言に出ていた言葉だったって…。」
アイネスが司祭から聞かされていた話はこうだ。
「予言の日には、教会の奥で兄さんが神からの予言をもらうことになってるの。予言の間に入ることができるのは神の子である兄さんと、その教会の司祭さまの二人だけ。予言を受けている時は兄さんの中には神が宿ってて、その神からの言葉を司祭さまが聞くの。そして、それを国民に伝える。」
「予言では何が言われたの?」
「雨の恵みが宿る季節、海からの反乱に気をつけよ。」
訳すると、雨季の季節になると海があれるので洪水や津波に気をつけよ、ということだろう。
「だけど、本当の予言は違ったの。」
国民に向けられたのは司祭がでっちあげた嘘の予言だった。
「本当の予言はね…。」
アイネスがシャロンの瞳を見つめる。
「特別な力を持つ者が反乱を起こすであろう。街は壊滅し、人々は冥界の住人となる。」
ゴクリ、とアイネスが息を呑んだ。
「特別な力を持つ者。つまり兄さん。だから司祭さまは私にこう言ってきたの。一年の間だけでいいから、兄さんを氷の中に閉じ込めてくれないかって。」
はじめは反対した。
愛する兄さんを冷たい氷の中に閉じ込めておくなんて、そんなの絶対にできない。
しかし、兄さん一人と街の人々全員の命を天秤にかけると、街の人々の命の方が、はかり皿が重たかった。
「夜、司祭さまの計らいで兄さんを海の近くに呼びだしたの。そこで私は兄さんに氷の魔術をかけたわ。司祭さまは森の安全なところに兄さんの身を置くって約束してくれた。だけど…。」
森の中の安全な場所。そこでミッハを氷付けにした直後、何者かによって襲われた。
謎の乱入者たちは、氷付けになったミッハを担ぐと、船の中に押し込んだ。
「ミッハには永遠に海の中に沈んでもらう。」
魔術の氷がいくら頑丈だからといっても、永遠に溶けないということはない。
時間がたてば溶けてしまう。
それを海水に沈めたりしたら、溶けるスピードも速くなるだろう。
「誰かは分からないけど、兄さんをはじめから殺すつもりだったのよ。」
アイネスは氷づけになったミッハを船から降ろそうと船に飛び乗ったが、大柄な二人の男に首根っこをつかまれて、砂浜に放り投げられた。
アイネスの抵抗もむなしく、船はどこか遠くへと出港してしまった。
そして、辿りついた先はシャロンの住む街に広がる海中深くだった。
「シャロンさんは兄さんではないのね?だったら、本物の兄さんは今どこにいるの?」
「多分、海の中だと思う。」
「兄さんは死んだの?死んでないの?」
「分からない。」
こればかりはシャロンにも分からなかった。
シャロンの精神は生きている。
しかし、シャロンの体がどこにあるかは知らない。
ミッハの精神はどうなのか分からない。
しかし、体だけはミッハとして機能している。
「兄さんを助け出す方法はないの?」
ぐっ、とアイネスがシャロンの腕を引っぱった。
「兄さんが生き返るなら、私、何でもするわ。兄さんが生き返れば、シャロンさんも自分の体に戻れるかもしれない。」
「不確定要素が多すぎるよ。」
「でも…私は兄さんのことが好きだから…。」
兄として、とても尊敬している。
最愛の兄。
氷はいつか溶けてなくなってしまう。
海の底に眠るミッハは窒息して死んでしまうだろう。
「何か助かる方法はないの?」
アイネスは必死だった。
壊れてしまった大切なものが、また戻ってくるかもしれない。
アイネスの思いはそれだけでいっぱいだった。
何でもする。自分の命と交換させてもかまわない。
手足を持って行かれたって、へっちゃらだ。
「ハナハドに聞いてみよう。」
博識な彼なら、何かいい方法を見つけてくれるかもしれない。
アイネスとの話は終わった。
シャロンは外で待ってくれていたリアリドと一緒に、ミッハの家を出る。
ハーブ園でアロックと合流すると、ハナハドの特等席である図書館に三人で向かった。
ハナハドは聡明だ。
亀の甲より年の功か、シャロンたちでは思いつきもしなかった仮説を打ち出した。
「ミッハ殿の体がここにあるということは、氷の中にはシャロン殿の体が眠っているのではないのかの?」
ミッハが地上に出て、入れ替わりにシャロンが海中の氷に入る。
その仮説は限りなく真実に近いと思った。
そう思っていいだろう。
「しかし、二人を元に戻す方法というのは、わしでも思いつきませんじゃ。」
お役に立てずに申し訳ない、と髭をしゅんとさせてハナハドは言った。
「ねぇ。」
挙手をしたのはアロックだった。
「氷づけになったミッハの体を引き上げれば、何かいい方法が見つかるかもしれないよ。」
「でも、ミッハの体は海中の奥深くにあるんだよ。そう簡単には引き上げられないよ。」
「だいじょうぶ。だってリアリドがいるじゃない。」
アロックはリアリドを見た。
「君のオーラはちょっと白の濃い水色。空の魔術が使えるはずだよ。魔力もそれなりに高いから、海中の中の氷くらい、持ち上げられるんじゃない?」
ニタリ、とアロックが笑う。「ご名答。」とリアリドは手を小さく手を叩いた。
「そうなの、リアリド?」
「うん。ぼく、一応魔術学校の卒業生だからね。自分のシンボルの魔術くらいは使えるよ。」
魔術を使うためには学校に通わなければいけない。
そうとうな才能の持ち主でもない限り、魔術なんてヒヨッコ程度しか使えないだろう。
シャロンもヒヨッコ程度の魔術なら学校で教わった。
義務教育の一環だ。
本を知識として朗読させられただけで、実際に魔術を使ったことはない。
リアリドは空の魔術が使えるようだった。
魔術にも色々ある。
細かいところまで上げたらキリがない。
風の魔術に属性しているのが空の魔術だ。
物を浮かせたり、沈ませたり、浮遊に関する魔術が使える。
アロックの考えでは、リアリドの空の魔術に頼って、ミッハを海中から引き上げてしまおうという打算だ。
「うまくいくのかな?」
「何でシャロンはいつもそんなこというの?やってみないと分からないだろ!」
無駄なことは極力避けたい。
それがシャロンの考え方だ。
だから勉強も運動も容量良くやってきた。
それで失敗したことはない。
「何でもやってみないと分からないよ!」
これはアロックの考え方。
自分から行動を起こさないと何も始まらない。
洗い終わった洗濯もの。洗濯カゴの中に入れっぱなしで、放置しておいたら、いくら天気の良い日だって乾くものも乾かない。
「よし、それじゃあシャロンの街に行ってみよう!」
意気込んでアロックが拳を上に掲げた。
「僕の街に行くの?」
「そうだよ。だってそこにミッハがいるんでしょ?」
「シャロン殿は崖から飛び降りて、そこでミッハ殿にであったのであろう?だったら、そこと同じ場所の海中にミッハ殿はいるはずですじゃ。」
ハナハドの鶴の一声で、皆で一緒にシャロンの生まれ育った街へと行くことが決まった。
皆と言っても、行くのはシャロンとアロックとリアリドの三人だけだ。
ハナハドは文献と一緒にいたいらしい。
まだまだ調べたいことがたくさん残っていて、シャロンの街まで同行する時間が惜しいようだった。
「シャロンの街まで、定期便出てるよね?」
「一時間に一本くらいじゃないかな?」
「よし、それで行こう!今から出発!」
「ちょっと待って。」
シャロンはアロックを止めた。
「今から行っても着くのは夕方だよ。それよりも明日の朝一番の便で行った方がいいんじゃない。ここから僕の街までだと、馬車で四時間くらいはかかるから。」
それほど森の街とシャロンの街との距離は長かった。
「じゃあ、明日の六時に集合ね。」
いつのまにか、アロックが仕切っていた。
シャロンの街へ、明日三人で向かう。
少しだけ気分が憂鬱になってきた。
父と母はどうしているだろうか、兄は元気なのだろうか。
会いたいようで会いたくない気持ちが、シャロンの心の中でグルグル回っていた。
図書館から出ると、時計が五時を回っていた。
目に染みるほどの夕焼けが蜃気楼のようにユラユラと揺らめいて見える。
「ねぇ、展望台に行かない?」
誘ったのはアロックだった。
「とてもいい場所があるんだ。」
そう言って、シャロンとリアリドの二人の手を掴んだ。
行こう!と二人を引っ張って、ズンズンと力任せに進んでいく。
展望台は街の一番高いところにあった。
普通は馬車で行くところを、アロックは歩いて連れてきたものだから、頂上に到達するまで一時間以上もかかってしまった。
帰りは馬車にしてほしい。
「ほら、見えてきた。」
街を見渡せる展望台の一番高いところ。
おいで、おいでと、アロックは二人を手招きした。
「わぁ…。」
展望台から地上を覗いた瞬間、感嘆の溜息が漏れた。
地上には海に浮かぶ星屑のように、美しい夜景が広がっていた。
美しすぎて、美しいという言葉さえ出てこない。
人は本物の美を見た瞬間は、言葉さえも忘れてしまうものなのだ。
「馬車で来ても良かったんだけど、馬車だと早く着いちゃうだろ?」
明るいうちに到着してしまったら、こんな景色をすぐには味わえなかっただろう。
「どう、綺麗でしょ?」
アロックは自分が描いた絵のように、夜景を自慢する。
「まだ世界は汚いって思う?」
アロックはシャロンに聞いた。
シャロンはアロックを見つめる。
「分からない…。でも、ここの夜景は綺麗だ。」
「そう、それでいいんだよ。」
展望台の一番高い位置から見る夜景は、世の中のしがらみを全て忘れさせてくれた。
あの時と一緒だ。アロックと一緒にピクニックに行ったお花畑と。
けど、今回はお花畑の時と違った。
「世界は…少しは綺麗かもしれない。」
お花畑の時は、お花畑の美しさが現実離れしていて、そこだけ異空間で世界はやはり汚いと思っていたが、今は違う。
隣にアロックがいる。
アロックがここまで連れてきてくれた。
そう思うと、心の中が何故だか温かくなった。
そういえば、最近、死にたいと思うこともなくなってきた気がする。
相変わらず世界は汚いと思うけれど、前ほどひどく思わない。
「生きてて良かったな。」
ポツリ、とリアリドがもらした。
「だって死んでたら、こんな景色見られなかったんだよ。」
冥界はきっと暗闇の世界だ。
そんな世界に夜景なんて存在しない。お花畑も。
「生きてて良かったね。」
リアリドは嬉しそうに目を細めた。
「そうだね。」
シャロンもリアリドの後に続いて言葉をもらした。
次の日の朝。
集合予定時刻は六時。誰も遅刻をせずに馬車乗り場へとやって来た。
「えーと、シャロンの街行きの便は…、あ。もうすぐ出発だ!急がなきゃ!」
これを逃してしまうと、あと一時間は待ちぼうけをくらわなければいけない。
早起きした意味がないというものだ。
馬車にはなんとか間に合った。
シャロンの育った街、ローズンタウンには、一日に六便しか馬車が出ていない。
遠くまで行く人は滅多にいないのだ。そんな遠くのところに、ミッハは氷づけにされて捨てられた。
馬車の中は退屈で、ガタンゴトンと揺られながら外の風景を眺めているのにも飽きてきた。かといって、アロックとリアリドと話すこともないし。
アロックは外の景色を飽きずにずっと見ている。
リアリドは腕を組んで熟睡モードに入っていた。
暇なのはシャロンだけか。
到着予定時間より五分早く、ローズンタウンに到着した。
目に映る風景。
何一つ変わっていない馬車駅のホーム。
懐かしい、と思った。
「海に行こう!海に!」
アロックがせかす。
よほど早くミッハに会いたいのだろう。
少しだけ嫉妬してしまった。
嫉妬?どうして僕がミッハに会いたがるアロックに嫉妬しなければいけないんだ?
自分の気持ちの変化にシャロンは戸惑った。
「早く、早く。」とアロックが袖を引っ張る。
散歩を嫌がって進まない犬を飼い主が無理矢理ぐいぐいと引っ張って行くように引っ張られて、シャロンはアロックの後ろを引っ張られていった。
リアリドはくすくすと笑いながら、その光景を見つめている。
「ローズタウンって、大きいんだね。」
街の中心部を通った先に海がある。
街の様子をキョロキョロと田舎から出てきたお嬢さんのように眺め回しながら、アロックは楽しそうにはしゃいでいた。
だから自分の前に人がいることに気付かなかったのだろう。
ドンと大きな音を立てて、前から来た人とぶつかってしまった。
「いたた…。ごめんなさい。」
「いや、こちらこそ。」
シャロンは息を呑んだ。
「…兄さん…?」
アロックとぶつかった青年は、髪の毛をキッチリと整えて、皮の鞄を持ち、服もだらしなく着ないでピシッとした格好をして、コンタクトレンズも外して眼鏡姿で立っていた。
前の兄なら、髪の毛はパンク系にセットして、ショルダーバックを持ち、服にジャラジャラとした鎖なんかもつけて、格好悪いからとコンタクトレンズをしていたのに、この変貌ぶりは何なのだ。
「怪我はないかい、お嬢さん。」
言葉遣いまで変わっている。
前の兄だったら、そんな丁寧な言い方はしない。
「兄さ…クラウスさん?」
クラウスはシャロンの方を向いた。
初対面なのにどうして自分の名前を知っているのだ?というような表情だ。
「僕、シャロンの友達なんです。だから、お兄さんのことは話に聞いていて。」
「ああ。シャロンの友達か。」
ふと、クラウスの顔が翳った。
「あの…以前とずいぶん格好が変わられたように感じるのですが。」
母親に何度言われても不真面目だった兄が、真面目をそのまま絵に描いたように優等生のような風貌をしている。
「弟が死んでからさ。」
クラウスは淡々と話しだした。
「母さんは今でもシャロンの写真を見ては毎日泣いてるし、父さんも仕事で失敗してばかりだし。だから俺…、いや僕がシャロンの代わりになろうと思ったんだ。」
だから喋り方も変えた。「俺」から「僕」へ。
格好だって、シャロンの着そうなものへと衣替えをした。
シャロン一人の死が、周りの人の人生を狂わせた。
たった一人死んだだけなのに、こうも周りが変わるものなのか。
ズキリ、とシャロンの心が痛んだ。
「僕の目の前で弟は崖から飛び降りたんだ。だから、海の中に死体がないかって自警団の人たちが探してくれた。けど、見つからなかったんだ。」
シャロンの死体はどこを捜しても見つからなかった。
「死体のない葬式だったよ…。棺はあるのに、死体はないんだ。」
クラウスの目尻に涙が滲み始めてきた。
これ以上聞き出せば、涙が頬を伝うだろう。
「あのっ…!」
シャロンは声を上げた。
「弟さんの死体は見つかってないんでしょ?」
「ああ、そうだよ。」
「もしかしたら、まだ生きてるかもしれませんよ。」
「そんな奇跡、信じたいけど…。」
「信じて下さい。」
シャロンはじっとクラウスの目を見つめた。
濁りのない瞳。
シャロンの決意の現れだった。
ミッハの体と自分の体を取り戻す。
「だから、信じて待っていて下さい。」
シャロンは最後にペコリとクラウスに頭を下げた。
自殺してしまってごめんね、兄ちゃん。
クラウスと別れた後は、海に向かった。自然と、歩くスピードが速くなっていた。
辿りついたのは砂浜。
シャロンが飛び込んだ崖の真下あたりに位置するところだ。
こんな高いところから自分は飛び降りたのか。
絶壁を下から見上げてシャロンは思った。
「どう、リアリド。魔術使えそう?」
「多分使えると思うけど、位置を特定してくれないと難しいな。」
「シャロンはどこら辺に落ちたの?」
アロックが聞く。
「あの辺りかな?」
指をさした場所は、ちょうど絶壁の真下にあたる部分だった。
あそこに自分は飛び込んだのだ。
「よし、やってみるか!」
気合を入れて、リアリドが服の袖をめくりあげる。
リストカットで傷つけられたみみず腫れの跡が顔を出す。
見ているだけで痛々しい。
リアリドが神経をひとつに集中させる。
大きく手を開き、深呼吸をするように、ゆっくりと開いた手を上に持ち上げる。
「リスヅ ミスト デ ランカ…。」
浮遊魔術の呪文だ。
シャロンが特定した場所の海面が、直径三メートルくらいの大きさのサークルを作って、淡く緑色に光出した。
さわさわと波が揺れているのに、サークルのところだけは動きを停止させたかのように、水面が波を立てていない。
コップについだ水のように大人しくなっていた。
「アール デ ミズダ ラマ…。」
リアリドが呪文を唱えると、サークル状になった海面がぼっこりと浮かび上がった。
そして…
「…僕だ。」
サークルの海面から出てきたのは、氷の中に閉じ込められたシャロンだった。
はじめてミッハと出会った時、ミッハは瞳を閉じて眠っていた。
今はシャロンの体がミッハと同じ状態で眠っている。
アイネスの魔術でかけられた氷は溶けかけていた。
ミッハとはじめて対面した時には氷は大きくミッハを包んでいたのに、今は縮小して氷の表面と体との間に一センチくらいしか差がない。
確実に氷は溶けはじめていた。
「ミッハ…。」
シャロンは氷の中で眠る自分に近づいた。
頬の辺りにそっと手を添える。
冷たかった。
まるで死人のように。
「これって、溶けるのを待つしかないのかな?」
ミッハを助けたい。
そして…
「僕も自分の体を取り戻したい。」
何度も死にたいと思っていた。
今だってたまにそう思うことがある。
けれど、世界は汚いものだけではないということを一人の少女が教えてくれた。
いつもシャロンが飽きないように、色々なところに連れまわしてくれたアロック。
いつの間にか、彼女と笑い合える時間がとても楽しくなっていた。
彼女と一緒にいたい。
そう思うと、死ぬ気もやわらいでくれた。
(シャロン。)
声が聞こえた。
しかし、アロックたちには聞こえていないようだ。
声はシャロンの頭の中に直接語りかけている。
(シャロンは生きたいの?死にたいの?)
ミッハの声だった。
とても穏やかそうな青年の声。
きっと優しい人なんだろうな。
(僕は本当は死にたくない。世界は美しいからね。)
「僕は…。」
シャロンは考える。そして、答えを出した。
「僕も死にたくない。」
世界は汚い。
けれど、楽しいことも綺麗なことも、もっともっと良いところがあることをアロックが教えてくれた。
(だったら、僕らは生きることができるよ。)
氷が淡い青の光を上げ始めた。
光はますます輝きを増し、目が眩むほどまで光り輝いた。
そして、一瞬のフラッシュを上げると、もうそこには氷はなかった。
そのかわりに…
「はじめまして、シャロン。」
目の前にはミッハがいた。
緑色の髪に赤い瞳。
そして、ミッハの瞳に映っている自分を見て驚いた。
「シャロン!もとの姿に戻ってるよ!」
アロックが歓喜のあまり抱き着いてきた。
リアリドも微笑みながら、幸せそうな光景を見守っている。
「シャロンだ、シャロン!やっと本当のシャロンに会えた!」
アロックは涙を流している。
悲しいんじゃない。嬉しいんだ。
「苦しいよ、アロック。」
「ああ、ごめん。だって、本当のシャロンに会いたかったから…。」
アロックは頬を染めて、シャロンから離れた。
そして、まだ紅潮した頬をひきしめると、赤い顔のまま真剣な目つきでシャロンに向き直った。
「私、シャロンが好き。」
アロックは言葉に力を込めて言った。
「シャロンはこれからどうするの?自分の街に戻って、家族と一緒に暮らすの?」
アロックの瞳が悲しそうに揺れた。
「私はシャロンと離れたくない!ずっと一緒にいたい!だからシャロン、私たちの街に行こう!」
駄目かな?と今までにないくらい真剣で必死な瞳でアロックがしがみついてくる。
シャロンは一度死んだ身だ。
しかし、これも運命なのか、生き返ることができた。
生きる希望を与えてくれたのは、この少女。
シャロンも少女と離れたくないと思った。
「僕もアロックと一緒にいたい。」
一つの物語は、ハッピーエンドを迎えた。
「けど、一度家族に顔を見せてからでいいかな?生きてるってこと、伝えたいんだ。」
シャロンはぎゅっとアロックを抱きしめた。
突然の抱擁に戸惑ったアロックだが、頬をピンク色にして、シャロンの背中に手を回した。