美しき世界
第一章 美しき世界
誰が言ったのだろう。
世界は美しいだなんて。
排気ガスで空気は汚れ、機械の進化で土に還るものは少なくなり、魔術の乱用で地球のマナはすり減っている。
森林は伐採されて、空気はどんどん薄くなる。
自分たちの生きている世界をこんなにまで傷つけて痛めつけて、これのどこが美しき世界なのだろうか。
そんなことを謳っていた小説家を僕は好きにはなれない。
「シャロン!」
兄が僕を呼んだ。
だけど僕は聞こえないふり。
「シャロン!」
兄の声がもう一度響く。
夜空は快晴。
満月と幾千の星粒がどこまでも果てしない。
眼前に広がるは高さ数百メートルも上から見る海原。
足元は崖っぷち。
一歩踏み出せば夜の海へと真っ逆さま。
きっと気持ちいいだろうな。
「兄ちゃん、来ないで。」
僕が崖の端に足をにじり寄せると、兄は体を硬直させて止まった。
これ以上近づくと、僕が本当に飛び降りると思ったのだろう。
正解だよ。
だけど、すこしだけ間違ってるから、サンカクをつけてあげよう。
限りなく正解に近いサンカク。
「ばいばい。」
正解は、兄が僕の元へ駆け寄っても駆け寄らなくても、僕はここから飛び降りる。
死にたかった。
自分で自分を殺してしまいたかった。
自殺したくてしかたがなかった。
生きることが苦しかったんだ。
だから僕は自殺することを選んだ。
寿命はまだまだたくさんあるし、事故も起こってくれそうにないし、誰も僕を殺してくれる人はいないから。
親不幸は許して下さい。
自分のことしか考えていない僕を許して下さい。
自分で自分を殺すなんて、きっと冥界の王様は許してくれそうもないけど。
ねぇ、生きるのと死ぬの、どっちが苦しいの?
「シャロン!」
崖の上から兄の声が聞こえた。
空に張り裂けて、何度も何度も僕の名前を叫んだ。
僕は空中を舞い落ちながら、だんだん遠くなっていく兄の声を見送った。
「死にたい?」
クラウスは目を丸くしてシャロンを見た。
「バカなこと言うなよ。何が不満なんだ。」
「不満なんてないよ。」
そう、不満に感じることなんてひとつもない。
学校だって楽しいし、家族だって大好きだし、友達とだってうまくいってる。
けど一つだけ、どうしても嫌なことがあるんだ。
「生きることが辛いんだ。」
「そんなの皆そうだよ。お前だけじゃない。」
クラウスはシャロンに説教した。
「俺だって生きることが辛いと思うことはあるよ。テストの時なんかすごく憂鬱だし、彼女が三人もの男と浮気しているのが分かった時なんか、いっそ死んでしまおうかなって思ったくらいさ。誰だって、一度や二度、死にたいと思ったことはあんの。」
「兄ちゃんの言っている死にたいと、僕の言っている死にたいは意味が違うんだよ。」
「同じだ、同じ。」
兄のクラウスはバカバカしいとでもいうように、肩をすくめてわざとらしく重々しい溜息をついた。
「お前は頭だっていいし、運動もできるし、顔だってそこそこイケてる。俺みたいに母さんに叱られることだってほとんどないだろ?俺から見たら、お前は羨ましいよ。」
他人から見たら、何でもできる弟のシャロンは羨ましく映るだろう。
しかし、シャロン自身は自分を羨ましいとは思わない。
恨めしいとは思うけれど。
「現状に不満なんてないんだろ?だったらいいじゃないか。」
現状に不満はない。
「でも、生きていることが辛くて苦しいんだ。」
「だから、そんなの誰でも一緒だって。」
まだ言うか?とクラウスはシャロンのおでこを人差し指でこづいた。
「来週から中間テストだから、お前も珍しく憂鬱になってんのか?」
「だから、そんなんじゃないって。」
「軽々しく死にたいとか言うなよ。」
「別に命を軽く見ているわけじゃないよ。それに、軽々しく言ってない。ずっと長い間、思ってたんだ。」
「それでも、死にたいなんて言うな。お前が死んだら、俺は悲しい。」
クラウスは眉根を八の字に歪めて、悲痛な顔をした。
お前が死んだら、俺は何万回、泣けばいい?
「お前が死んだら、たくさんの人が悲しむ。父さんと母さんは一生自分を恨んで生きるだろう。何でお前が死を選ばなければいけなかったのか。お前にもっとしてやれることはなかったのか。他の奴らだって、心に傷を負う。お前の死はたくさんの人を不幸にする。それでもお前は死にたいとか言うのか。」
シャロンは黙って俯いた。
面と向かってクラウスに本心を言うことができない。
それでも自分は死にたいと、自分の死を止めようとしている者にどうして言えようか。
「死ぬなよな。」
クラウスはシャロンの背中をポンと叩いた。
「暗い話はこれで終わり!さ、もうすぐ晩飯の時間だ。父さんも帰ってくる頃だし、家に戻ろうぜ。」
教室にはシャロンとクラウスの二人の兄弟しかいない。
弟の教室で一緒に居残り勉強をしていたクラウスは席を立ち上がった。
教科書や筆箱を鞄に詰め込むと、シャロンも席を立ってクラウスと一緒に教室を出て行った。
死にたい。
そう思ったことは一度や二度じゃない。
一日に何回も死にたいと思ってしまう。
これはもう病気の域なんじゃないかと思うくらいだ。
どの死に方が一番楽なのか。
できるなら痛くなく、それでいて苦しくない方法で死にたい。
こんな都合のいいことを思うのは反則だろうか。
首を吊って死ぬのが一番楽で確実だと聞く。
しかし、そんなこと怖くてできない。
「僕っていくじなしだな。てんで度胸がない。」
シャロンは一人部屋の中で、自分で自分を笑った。
夕飯は食べた。シャワーも浴びた。あとは寝て明日を待つだけ。
けど、明日なんて本当は来てほしくない。
明日が来る前に冷たくなって、眠ったまま息が止まってしまえばいいのに。
「何かいい死に方はないかな。」
いつも本気で死にたいと思っている。
しかし、思うだけだ。
だが、今晩は違った。実行に移すだけの気力があった。
いつもは死にたいと思うだけで終わるところを、今日は何故だか行動に移そうとしている。
窓から外を覗くと、満月が輝いていた。
不気味なくらい丸くて、宇宙の神秘を感じさせた。
自然は美しいのに、その自然にどうして人間は錆びた釘やナイフを刺していくのだろうか。
生きているのが苦しかった。
人間はなぜ地球を痛めつける。
大地はこんなにも自然なのに、不自然なものを人間は生み出していく。
土に還らないものばかりが増えていき、地球にメスを入れ、住みよい世界にしようといいながら、自分たちで住みにくい世界を作っていく。
自分で自分の首をしめて苦しくないのか?
機械も魔術も召喚術も、何もなかった時代が一番人間らしい時代だったと思う。
どうして人は進化して、不必要なものばかりを作るようになったのだろう。
必要最低限のものを作るだけでとどめておけば良かったのに。
欲ばかりが先行して、ビジネスばかりが進化する。
地球の環境を守ろうと言いながら、マナの力を削り取る機械を量産し、木を伐採して、海を埋め立てる。
口では守ろうと言いふらし、自分たちの手ではものすごいスピードで守ろうとしているものを壊していく。
矛盾した世の中。
以前読んだ小説で、こんなフレーズがあった。
(この世界は美しい。)
こんな世界のどこが美しいのだろうか。小説家の頭の中を疑った。
もっと昔に生まれたかった。
そうすれば、少しは息をすることができたかもしれない。
今のこの世界では息をすることでさえ苦しい。まるで海の中に沈められたようだ。
「海…。」
シャロンはふと思った。
人間は海から来たと誰かが言っていた。
だったら、海に戻ろうじゃないか。
真夜中の十二時を回る頃、シャロンは靴をはいて家を出た。
向かうは人間が帰るべき場所。
どうせなら、空を舞って海に帰ろう。
行き先は崖だ。
「シャロン…?」
床を踏む足音が聞こえたので、クラウスは目を覚ました。
そっと自分の部屋のドアを開け廊下を見ると、玄関の方にシャロンの影が見えた。
玄関が開き、影が外の月に照らされる。
シャロンが家を出ているところだった。
「こんな真夜中に、どこに行くんだ?」
クラウスは部屋を出た。
足音を忍ばせて、そっとシャロンのあとをつけて行った。
終着地点は、この街で一番高い崖の上だった。
そこで弟が海に向かって飛び立つところを、クラウスは目の前で直視した。
母は声をあげて泣いていた。
まるで狂った機械のようだった。
ガシャン、ガシャンと危険な音を上げている。
油をさしても、もう直らないだろう。
父は必死で涙を堪えていた。
口元がわなわなと震えている。声をだせば、涙腺が崩れてしまいそうだった。
「何でこんなことになってしまったのかねぇ。」
隣の家のおばさんが白いハンカチで涙を拭きながら、母の背中をさすった。
泣かないで、奥さん。と言いながら、自分もボロボロと泣いている。
死体のない葬式。
シャロンは海に飛び込んだ。
その瞬間をクラウスはしっかりと見た。
髪の毛が風に靡き、木の葉が木から落ちるように宙を舞って海へと墜落していく弟の姿。
自警団の捜索隊が三日間かけて海の中を探したが、シャロンの死体は見つからなかった。
母は泣いて、父ももう一度捜索を頼んだが、もう一度探し直してもやはりシャロンの死体は見つからなかった。
葬式には棺が用意されていた。
しかし、その中にシャロンはいない。
あるのは棺の中いっぱいに敷き詰められた花束だけだ。
それがシャロンの死体の代理。
「何で死んだんだよ。ばか…。」
クラウスは泣かなかった。
悲しすぎて涙も出てこなかった。
泣けばいいのか、笑えばいいのか、怒ればいいのか、悲しめばいいのか。
どの感情を出せばこの場にふさわしいのか分からない。
ただ、シャロンの顔だけが頭に浮かんだ。
自分はシャロンに何もしてやれなかった。
死にたいと言っていたシャロンの話をまともに聞いてやらなかった。
まさか、本当に死んでしまうなんて思わなかったから。
死ぬというのはなんてあっけないことなのだろう。
まだ実感が沸かない。
弟が死んだというのに、家に帰れば「おかえり。」と言って笑顔で出迎えてくれそうな気がしてくる。
そんなこと、もう二度とあることはないのに。
葬式の参列者は誰もが泣いていた。
シャロンの親友だった奴、クラスメイト、シャロンを慕っていた後輩、シャロンを可愛がっていた先輩、シャロンに想いを寄せていた女の子、近所のおじさん、おばさん。
誰の目にも涙と悲しみが浮かんでいた。
人が一人死ぬだけで、こんなにも人は涙する。
なんでシャロンはこんなことも分からなかったのか。
死ぬということがどういうことか、どれだけの人が悲しむかとか、頭が良かったくせにそんなことも考えつかなかったのか。
わがままな弟。
けど、最初で最後のわがまま。
「シャロン。」
もう二度と帰って来ない弟の名を呼んで、クラウスは頬に涙の筋を流した。
海の中は冷たくもなく、温かくもなかった。
海水が体にねっとりと張りついてくるような感じ。
何か変な感じ。
これが死んだということか?
体がゆっくりとクルクル回りながら、頭から落ちていく感覚を味わいながらシャロンは思った。
(まだ死んでないよ。)
声が聞こえた。
ここは海だ。
もしかして魚の声か?それとも、自殺した自分を迎えに来た悪魔の声か?
(僕はここにいるよ。)
クルリとシャロンの体が前転して、正常な体勢になる。
さっきまで逆転した世界だった頭は天、足は地を向く。
ゆっくりと下に落ちていく感覚は変わりない。
深海の底じゃないかというところでシャロンは止まった。
足は浮遊感に浮かんだままだが、ここが世界の底だと思った。
(こんにちは。)
シャロンは大きく目を開いた。
目の前にはクリスタルのような輝きを放つ、透明な氷石。
その中に、目を閉じた人間が閉じ込められていた。
緑色の髪、透き通るように白い肌。
「君は誰?」
海の中だというのに言葉が鮮明に喋れるということにシャロンは気付かない。
いや、声を出して喋っているのではない。
心の中で喋っているのだ。
それが氷石の中で眠っている少年にも届いていた。
(僕の名前はミッハ・ラインといいます。)
丁寧な少年。柔らかい口調だった。
動くことができれば、深々とお辞儀でもしてくれていたことだろう。
あいにく氷石はがっちりと少年を閉じ込めていて、髪の毛一本動くこともない。
シャロンとミッハは向き合っていた。
シャロンは起きているが、少年は眠ったまま。
瞳を固く閉ざしている。
シャロンよりも少しだけ大人びていて、少しだけ背も高かった。
(君の名前は?)
「シャロン・マックス。」
(シャロンっていうんだ。どっちかっていうと女の子につける名前だと思うんだけど、男の子につけてもカッコイイ名前だね。)
少年は眠ったままなのに、笑ったように見えた。
(どうしてこんなところまで来たの?)
こんなところとは、海の底のことだろう。
どうして来たかなんて、そんなの決まっている。
「死のうと思ったから。」
こんな海の底にいるんだ。
確実に窒息死で自分は死んでいる。
だけど、喋れるのは何でだ?苦しくもなく、死んだような気もしない。
(でも、君はまだ死んでいない。)
ミッハはくすくすと笑った。
眠ったままだが、聞こえてくる声は笑っている。
(ねぇ、君は死にたいの?)
こくり、とシャロンは頷いた。
(だったら、僕の代わりに死んできてよ。)
誰の代わりに死ぬだって?
「どういう意味だ?」
シャロンはミッハに聞き返した。
(僕はもうすぐ死ぬ。けど、こんなところで死にたくないんだ。)
氷石の中に閉じ込められているミッハは死んだように眠っているが、まだ死んではいないらしい。
(この氷が解けた時、僕は海の中で死んでしまうだろう。今は死ぬ時を待っているって感じかな。)
死んだも同然かな、とミッハは言った。
(シャロンは死にたいんでしょ?だったら、僕の代わりに死んで来てよ。僕には死にたかった場所があるんだ。)
おふざけで言っているわけではない。
ミッハは真剣にシャロンに語りかけていた。
「どこで…どこで死ねばいい?」
シャロンはミッハに聞いた。
(森の街。)
行ったことはないが、聞いたことはある。
人間とエルフが共存している街。
(フィランドの隣で死にたい。)
それが最後に聞いたミッハの声だった。
意識が遠のいていく。
ミッハの手がシャロンの頬に伸びた気がした。
氷石の中に引きずり込まれる感覚。
まるで、ミッハが氷石の外に出て、入れ替わりに自分が氷石の中に入っていくような感覚だ。
ミッハと自分が入れ替わるような、妙な感じ。
意識が完全に真っ暗になっていった。
気がついた時には、自分は浜に打ち上げられ、緑色の髪の毛をした少年になっていた。
浜に落ちていたガラスの破片に自分の姿が映る。
そこに映るのはシャロンの姿のはずなのに、ガラスが映し出した姿はミッハのものだった。
「僕、ミッハになってる?」
頬を手で囲み、唇を触り、体中を手で触診してみる。
心はシャロンのままなのに、体はミッハになっていた。
髪の毛をつまんでみると、赤かった髪は緑色になっていた。
もうシャロンの体ではない。
「ここはどこだ?」
見覚えのない浜だった。
自分が飛び降りた崖のある浜ではない。
見知らぬ土地。
地平線が残酷なほど平行だった。
知らない土地に一人取り残された恐怖。
自殺は苦にならなかったくせに、こんなことには恐怖を感じる自分がおかしかった。
でも、怖いものは怖い。
とりあえず、歩き出すことにした。
ここにとどまっていても何も分からない。
浜を一歩進むと、砂に足が捕まって足を取られる。
歩きづらい中、なんとかコンクリートのところまで歩いて出た。
ここはどこだろう。
全体を見渡してみても、全く見覚えのないところだった。
幼い頃来た記憶もない。
正真正銘、はじめて来る場所。
そんなところにシャロンはミッハの体のまま、一人取り残されてしまった。
歩く。
とりあえず歩く。
歩いていると、どこかにたどり着くだろうから。
太陽の光が眩しい。
遠くに教会の鐘が見える。
浜の後ろには森が広がるばかりなのに、教会の鐘だけが森の中からひょっこりと頭を飛び出させていた。
教会があるということは、村か街があるはずだ。
森の中に教会ただひとつということはあるまい。
シャロンは森へ向かって進んだ。
ほどなくして、街の姿が見えてきた。
ぽつぽつと立ち並ぶ家が、入っていくにつれ住宅地になっていく。
住宅地を通り抜けると、マーケット広場が人で溢れていた。
活気のある街だ。
森の中には街があった。
何という街だろう。
シャロンははじめて来る。
「あの…。」
ここは何という街ですか?と聞こうと婦人の肩を叩いたら、振り向いた婦人に驚いた顔をされた。
「ミッハ…!ミッハじゃないかい!」
ミッハの名前に街の中が騒然とする。
ミッハの名前を聞いた誰もが、ミッハの姿を見つけて釘付けになった。
「無事だったんだね。」
婦人はミッハの手を握ると、嬉しそうにブンブンと上下に揺らした。
婦人のツバの大きな白い帽子も上に下に揺れた。
耳まで隠れるくらい深く被られた帽子はいくら揺れても落ちることはない。
「どこに行ってたんだい?」
「えっと…その…。」
婦人から投げかけられる質問にシャロンは戸惑う。
体はミッハでも、中身はシャロンなのだ。
ミッハの代わりに何と答えればいい?どこに行っていたかと正直に答えれば「海の中に沈められていました。」だが、それを正直に言うとまずいことくらい、状況のよく飲み込めていないシャロンでも分かる。
とりあえず、無難な答えを用意した。
「ちょっと旅に…。」
婦人もこの街の人々も、どうやらミッハがどこかに行っていたものだと思い込んでいるらしい。
だから、さしさわりのないように旅という答えを用意してやったら、婦人は納得してくれたようだった。
「旅もいいけど、一言くらい言って出て行ってもいいじゃないかい。皆、心配したんだよ。突然いなくなったりするから。」
ミッハは行方不明になっていたらしい。
婦人と話しているうちにだいたいの様子が飲み込めてきた。
街の人々はミッハが氷づけにされて氷石の中に閉じ込められ、海に沈められていることを知らない。
誰にも何も言わずにふらっと旅に出たものと、シャロンの言葉を信じて疑わない。
ミッハは何者なのか。
どうしてあんな海の底で、氷の中に閉じ込められていたのだろうか。
ミッハは死んでいるのか、それとも、まだ助かる余地はあるのか。
本人は死んでいるのと変わらないと言っていたけれど。
(フィランドの隣で死にたい。)
だいたい、フィランドって誰なんだよ。
ミッハについて、情報が少なすぎる。
ちくしょう、もう少したくさん聞き出しておけばよかった。
お前は一体何者なのか。
どうして氷づけにされて海の中に沈められたのか。
フィランドとはどういう関係なのか。
聞きたいことは後からたくさん出てきた。
「ところで、ここは…。」
言いかけて、シャロンは言葉を止めた。
ここの人々はミッハのことを知っている。
ということは、ここはミッハの出身地かもしれない。
彼は森の街に行きたいと言っていなかったか。
フィランドは森の街にいると言っていた。
これはカンに近かったが、ここがミッハの行きたがっていた場所のような気がした。
「ここは森の街ですよね?」
「変なことを聞く子だね、自分の生まれた街のことも忘れてしまったのかい?」
婦人は怪訝な顔をして、首を傾げた。
「フィランドは、今どこにいるんですか。」
この質問にも、婦人は怪訝な顔をして首を傾げる。
どうしてそんなことも覚えていないんだ?と言いたげに。
「フィランド姫さまなら、去年お亡くなりになられたじゃないかい。」
婦人は胡散臭いものを見るような目でシャロンを見つめた。
「あんた、本当にミッハなのかい?」
姿形はミッハだが、ミッハにしては変なことばかり聞いてくる。
「ミッハですよ。」
シャロンは慌てて笑顔を作って、その場をつくろった。
これ以上怪しまれてはいけない。
「それでは失礼します。」
早々に立ち去ることにした。
婦人に礼をすると、踵を返して来た道とは反対の方に歩き出す。
すれ違う人、すれ違う人が皆ミッハを振り返った。
居心地が悪い。
どうなっているんだ、この街は。
ミッハは一体、何者なんだ?
人々の視線を体中に受けながら、シャロンは街の中心まで歩いていった。
フィランドとはこの街の姫のことのようだ。
この街のことはまだよく分からないが、さきほどの婦人が姫と言っていたから、領主の娘か何かなのだろう。
それにしても、この街は変な街だ。
シャロンは辺りを目線だけ動かしながら観察していた。
人間とエルフが同じ場所にいる。
これは異様な光景だった。
エルフとは神に愛された存在と言われている種族だ。
身体能力も高ければ魔力も高い、神が作り上げた最高傑作。
神はエルフを愛した。
しかし、人間はエルフを愛せなかった。
怖かったのだ。
非の打ち所がなく完璧に作られた神の人形が。
自分たち人間も神に作られた人形だが、素材が違いすぎる。
最高級の黄金を、鉄クズは恐れた。
人間とエルフの間には壁が出来た。
遥か昔には人間とエルフとの間に絶滅をかけた戦争まで起こったらしく、そこでエルフの数は激減し、森に追いやられ、エルフは森の中でひっそりと暮らすようになった。
だからこの街は珍しいのだ。
エルフを見たら、親でも殺せ。
それほど人間はエルフを忌み嫌っている。
エルフの方も同じで、自分たちを嫌う人間を好きになれるはずなんてない。
互いに憎しみあい、隔たりを作って、同じ世界に住みつつ違う世界を作ってきた。
それが人間とエルフだ。
街の中央に並ぶ商店街では、人間もエルフも関係なく、皆が仲良くおしゃべりをしながら買い物を楽しんでいる。
ショッピングに来た人、ランチに来た人、夕飯のおかずは何にしようかと迷う人、人それぞれだ。
森の街は名前だけなら聞いたことがあった。
しかし、本当に人間とエルフが共存しているとは思いもしなかった。
やはり風の噂だけでは頼りないな。
信じられるのは自分の目だけだ。
「兄…さん?」
少女の声が聞こえた。
シャロンは振り返る。
目を丸く見開いた少女が買い物袋を地面に落として、こっちをじっと見つめていた。
「兄さん、生きていたのね。」
静かに、感情を爆発させずにゆっくりとした口調で言っているが、少女の中では歓喜の感情が満ち溢れている。
少女は歳のわりに大人びていた。
黄緑色の長い髪は腰までついている。
瞳はオレンジ。
耳が尖っている。
どうやらエルフのようだ。
ミッハの姿をしたシャロンを見て兄さんと言っていたくらいだ。
ミッハの兄妹なのだろう。
しかし、シャロンにとっては赤の他人だ。
名前も知らない。
どう言葉をかけていいのか分からない。
固まったまま、シャロンはミッハの妹であろう少女をじっと見つめた。
「兄さん。本当にごめんなさい。」
少女はシャロンの前まで歩み寄ると、今度は両手で顔を覆ってホロホロと泣きはじめた。
「私、兄さんにあんなひどいこと…。まさか、あんなことになるなんて思ってもなかったの。謝って許してもらえることじゃないことくらい分かってる。」
妹らしき少女は鼻をすすりながら言葉を続ける。
「ごめんなさい、ごめんなさい…。」
少女はひたすら謝り続ける。
周りの人々の視線がシャロンと少女を横目に流れる。
視線がだんだんと痛くなってきた。
シャロンは少女の肩を抱き寄せると、背中を優しく叩いてやった。
「泣かないでくれよ。頼むから。」
「でも、私…兄さんにあんなひどいこと…!」
「もう怒ってないから。だから泣かないで。」
少女の頭を撫でてやる。
少女は少し安心したのか、涙を拭いた。
「本当にごめんなさい。」
涙を拭いた後も、少女はまだ謝り続けた。
「だから、もう気にしなくていいよ。」
この少女が兄のミッハに何をしたのかは分からない。
しかし、ここは許してやるしかないだろう。
それに、少女にひどい仕打ちをされたのはミッハだ。
シャロンではない。
だからこの少女に恨みや怒りの感情は沸いてこない。
だから簡単に許してやることができる。
少女はやっと謝るのをやめてくれた。
「父さんと母さんにも、兄さんが帰ってきてくれたことを報告しなきゃ。街の皆もきっと喜ぶわ。神の子が戻ってきたって。」
「神の子?」
「そうよ。兄さんはこの街の神じゃない。」
神様だって?シャロンは耳を疑った。
「今日は私が腕によりをかけて夕飯を作るわね。兄さんの好きなもの、たくさん作ってあげる。」
兄に許してもらった妹は、元気を取り戻して笑顔に戻った。
笑うと右頬にえくぼができる。
涙で濡れた頬だけが、泣いたあとを残していた。
「おかえりなさい、兄さん。」
少女がシャロンに手を差し伸べる。
手を取ろうか、取らまいか迷ったが、シャロンは一度拳をギュッと握りしめて、少女の手を取った。
今の自分はミッハだ。
完璧にミッハを演じきってやる。
そして…。
(フィランドの隣で死んでやるよ。)
シャロンは少女と一緒に手を繋いで歩き出した。
随分と前に書いた小説です。
いつか手直しして書き直したいと思っています。