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夢の中で

作者: 夏景色

 座席のヒーターの熱さで僕は何度目かの身じろぎをした。それでも我慢できず、腰を右によじったり、左によじったり、腰を浮かせたり、ジャケットの端を引っ張って尻の下に敷いたりしたけれど駄目だった。僕の尻は今にも火傷しそうに震えてはいたけれど、結局それは我慢するほかなかった。5分から6分に一回電車は停車駅に止まった。電車が駅に到着すると開いた扉から、どっと吹き込む冷気で、僕らは極寒の寒さに耐えねばならなかった。入り込んだ新鮮な空気は一瞬、すえた臭いのする暖房に痛めつけられた喉を潤したが、後には目に見えたはっきりとした悪寒のようなものを僕たちの体に残していった。


 叔母が14回目の咳にむせると、僕はやっぱり隣の座席のほうを気にせずにいられなかった。それでも意識して窓のほうを見たけれど、景色はガラスがおおかた凍結していた為にほとんど何も映し出してはいなかった。ガラスの端の隙間から、墨汁でできた浅い海の岩礁で波に揺らめく藻のように、紫色のささやか花弁を備えた雑草が冬の風にはためくのが見えた。窓に顔を近づけるほど、呼吸は白く重い物体を口から投げつける、別の行動へと変化していった。


 僕と叔母は電車の二人掛けの座席に並んで座っている。叔母は口元をカラスの嘴のかたちに押さえこみ僕は、今はトドみたいに窮屈な体を窓のほうへと向け続けている。頭の中で叔母の咳の回数を正確にかぞえながら。


 静かにうすぼんやりと車輪が線路を踏みしめ軋む音が浮かぶ、叔母がむせる声、車内の喧騒、フィルターの詰まった空調のダクト音。音も時間も温もりも、そんな何もかもを車窓の外に、線路の枕木の1つ1つに置き去りにして電車はほの暗い闇の中を進んでいた。僕は叔母に話し掛けた、最初の言葉を思い出そうとしたけれど駄目だった。その自分の声はずいぶん昔の、ずいぶん遠くにあるもののように感じられた。それはきっと前の停車駅で車両中の古い空気と一緒に車外に吐き出され、さっき見た紫色の花弁みたいに強い風に吹かれて、勢いよく翻りながら空の大気に拡散してしまったのだ。ラークの甘い香りの煙がどこかに行きつく前に、空気と混じって消えていくみたいに………


 叔母が僕のいる車両に乗り込んできた時―その時この電車はひどい混み具合だった―僕は咄嗟に、声を掛けようとしていた口をつぐんだ。声を掛けてはいけない理由が希薄なのと同じぐらい、声を掛けなければいけない理由も希薄だと感じたからだ。でも結局叔母は僕に気づいて、たまたま空いた僕の隣の座席に、よろよろと腰を下ろした。叔母は衣服というものをほとんど身につけていなかった。ただ一枚青みのさした白いブラウスを、胸のところまで留めて着込んでいるに過ぎなかった。ストッキングもソックスもはいていない足元で、カーキ色のスニーカーがくるぶしまでの短い距離を温めていた。


 乗客達は皆、真夏日のように暖房の利いた車内で誰もコートやジャケットを脱ごうとはしなかった。5分に一回来る停車駅に備えて襟を立てマフラーの結びを直した。叔母が初めて咳をすると、近くの乗客達は一瞬こちらに注目して、すぐに視線と口元に靄がかかったように無関心を装い各々の方角に目を向けた。叔母が咳込むと本当に苦しそうに、肩を震わせ擦り切れるような乾いた声で泣いた。それを悟らせまいとして体の動きをとても静かに最小限に抑え込み、熱い真っ赤な吐息で呼吸を整えた。落ち着くと叔母は頬に垂れ下がった髪を耳の後ろに直した。けれど髪の毛はちょっとした拍子にまた頬に触れた。僕が我慢できなかった座席のヒーターの熱でさえ愛しむように、胸を抱えて前屈みになっているせいだ。頬に触れた気障りな髪を直すのはいつも、細く白いガラスのような指だった。


 僕は腕時計を見てみた。2時と30分と16秒のところに3本の針が止まっていた。けれど今が本当に2時30分16秒なのかは僕には分からなかった。扇形のパワーリザーブ・インジケーターの針が0の真上で瀕死を訴えていたからだ。


 正確な時間を刻めなくなった時計は、僕の偏狭な考え方からして悲劇だと思う。黒い文字盤の上を、いつ何処にいるのかもわからない、もう交わる事のない本当の時間を探して三本の針は毎日を生き続けている。少しずつ迫りくる絶望に追い詰められながら。帰ったら明日からはクオーツかソーラーの時計を身に着けよう。機械式の時計はネジを巻かずに止めてあげよう。そうすれば12時間に一回本当の時間の方から救い上げてくれる。そこからまた正確な時間を刻む夢が見られる、それが一瞬よりもずっと短い間であっても。


 叔母が座席のシートの下でマッチを擦るように左右の靴を何度もこすり合わせた。そこから生まれた熱を帯びた空気は蛇のように、叔母の脚をよじ登ろうとしてよじ登れずに、奇妙な音とともに靴のソールの下をのたうった。僕は何かを言おうと思った。とてもつまらない何かだ。声に出すと煙になって空気と混じって消えてしまう何か、そう考えた時叔母は口元を押さえて咳を始めた。蛍光灯の光が白く窓に映り、電車は停車駅に到着した。


 暗い川底に捨てられたおもちゃの家みたいに、木造の駅舎はとてもおぼろげに佇んでいた。木材に染み付いた煤が背面の闇によく溶け込むせいだ。電車が止まると駅員の男がホームに飛び出してきた。白い制帽を被って黒い外套黒い手袋をはめた、重量級のレスラーのように巨躯で毛むくじゃらの男だ。その姿は何となくアラスカ産のグリズリーベアを思わせた。


 僕には男の顔もよく見えないから、それは本当にグリズリーベアだったのかもしれない。どこかのサーカスで飼われていて、野生に還され最近の自然破壊のために食糧が確保できず、冬眠できなかった場合は冬の間中アルバイトをするよう躾けられたアラスカ生まれのグリズリーベア。レモン色をしたプラスティックのザルを左手に持っている。


 車両の乗客の何人かは電車を降りた。この駅から乗り込んでくる人はいなかった。ぽっかりと左右に開いた扉から、僕はホームの様子を眺めた。乗客は一列に並んで駅舎に向かってゆっくりと歩みを進めた。熊男はそんな乗客たち一人一人にオジギしながら右手で切符を受け取り、川を遡上するサーモンを選り分け一撃を喰らわせる時のように、掌に載せた切符を睨んで出発点と料金を換算し、問題がなければ左手のザルに投げ入れた。


 ホームを見ているとドア付近にいた男が僕の方を見て睨んだ。その男はベージュのブーツに、カーキ色のズボン、濃い緑色のチェック柄のシャツの上にベストを着ていた。どこにでもいそうな、どこにいても目立たなさそうな印象の男で服装を覚えなければ同一人物と判断できなかった。一瞬僕の視界に入ると、いつの間にか向かいの端に移り、うたた寝しながら開閉ドアにもたれかかっていた。


 もしかすると男が睨んでいたのは、僕ではなくて隣の叔母だったのかもしれない。


 叔母の咳はずっと止むことなく続いていた。口元に手を添えるのも忘れて、僅かな温もりも逃さないように身を縮め、咳をするたびに背中を大きく揺らした。そして僕が何かするのを戒めるように片手の手の平を僕に向けて掲げていた。その手はさっき見た時と同じく白いガラス細工のようでただ一言、気にしないでと言っていた。腕時計は相変わらず悲壮なまでに懸命によくわからない時間を刻み続けていた。時計の針はまるで何かしら好くないものに取り憑かれ、何か目に見えない得体の知れないものの数をかぞえているように見えた。それは一方的に増え続け減ることは決してなかった。


 開いた扉は車両にぽっかり空いた長方形に縁取られた虚無のようだった。僕は虚無を見つめた。その中には黒い駅舎があり黒い熊男がいた。熊男は動物的で能動的な営業サービススマイルで乗客を全て駅舎に送り通した後だった。左手のプラスティックのザルには、切符が半分ぐらいまで埋まっていた。熊男がゆっくりと電車の方を見る、熊男は当然の事ながら熊ではなく、ただの毛むくじゃらの男だった。


 彼がお辞儀をして顔を上げると、僕とぴったりと眼があった。僕は彼を見続けた。頭の上の白い制帽が今にも風に飛ばされそうにバタバタと暴れていた。彼には僕が何かを言いたげなのがちゃんと分かっているようだった。前の座席の背もたれに手をついて僕は身を乗り出した。彼は何も言わず目線も逸らさなかった。僕は立ちあがってあえて虚無に出て行き、ひどく苦しんでいる人がいる、せめてそれだけでも伝えようと思った。彼は、僕がしようとしていることも伝えたいことも、すべて理解しているようで一度小さく頷いた。その瞬間虚無は閉じられ、電車は走り出した。左右の扉が勢い良く閉じられると彼はすぐさま駅舎へと引き返した。熊男の営業時間は終了したのだ。


 ひどい猫背で肩を前に出して、今日のアガリの入ったプラスティックのザルを抱えて駅舎へと帰る熊男の姿は、本当の熊のように見えた。駅舎の窓ガラスも電車の窓と同様に白く凍結していて、中には蛍のように小さく仄かで温かな明かりが灯されていた。それからホームに建てられたいくつかの電灯の光、それらもずっと前に行き過ぎすでに見えなくなっていた。


 ガラスに映った景色の切れはしから、背の低いこぢんまりとしたマンションの群れが見え出してきた。また次の駅が近いのだ。僕はかつて声だったものの影や、かつて煙だったものの影を探して、じっと考えを巡らし記憶を辿り、いつまでも代わり映えしない景色を眺め続けた。けれどそれはやはり駄目だった。僕が求めているものはまさに煙のように霧散して、霞んで消えて今はもう見えなくなってしまっていた。風はまだ強く吹いていて、道端の街灯や葉の抜け落ちた市街並木を順々に揺らせていた。海底に打ちつけられた墓標のように立ち並んだビルディングの間を、風は何か大きく叫びながら吹き抜けて行った。


 尻の熱さを気にして落ち着かない僕、気だるく座席に座り頼りなげに吊り革を握り、血の気の引いた顔でうずくまる女性を霞がかった目で見る乗客達。あらゆる人の吐きだした声と息と、叔母の15回目の咳が混線した濁った空気は次の停車駅で、みんな虚無に放り出されてしまう。新しい凍えた風がやってくる。また寒くなるのだ。あの時もそうだったのだろうか。寒いですね、と僕は一度でも言ったのだろうか言わなかったのだろうか。寒いですね、と僕は言った、と思う。


「寒いですね」と僕は言った。

 2時34分のことだった。

 僕は自分の学生カバンを、手袋をつけた手で探って、咳止めかなんか気の利いたものがないだろうかと調べた。でも学生カバンの中にはそういった類のものはパン屑のかけらほども入ってはいなかった。

「そんなの、見れば判るでしょう?」と叔母は言った。

「見れば、わかる?」

「あなたは常識がない!! そう言ったの」

「見れば判るから、逆に聞いてるんじゃないか」その時叔母が僕の目を見つめて話していることに、初めて僕は気づいた。蛍光灯のちかちかとした光を受けて、叔母の瞳の大きい目は煌びやかに輝いて見えた。心配してるんだろう、と僕は言った。

「それが間違いだってどうして気付けないの? あなた、今の今までずっと黙ってたじゃない。それがどうして、もっと、我慢が出来ないのよ?」

 こっちの勝手だろう! 僕は裏表もなく、ただ心配になって声を掛けただけなんだ。それを頭ごなしに怒鳴られる筋合いなんてあるもんか。いつまでもそうしていて、一番辛いのはあなただろう。あなただろうけど、見ず知らずでもないあなたをこのままにしていて恥をかくのは、こっちなんだ!

 僕は一言小さく謝った。自分でもなんて言ったのか分からなかった。叔母はひどく疲れているようだったし、声を掛けるには遅すぎたのかもしれない。だけど僕は食い下がって言った。「そんな恰好してるから」

「こんなに寒いなんて思わなかったのよ」と叔母はしゃがれた声で言った。「私はここよりずっと遠くから来たの。これからここよりずっと遠くに行くのよ」

「………どこへ?」

「あなたちゃんと反省してる? 私がさっき話した内容記憶しているの? ちょっとここで言ってみなさいよ」

「わかってる、それは判るよ」

「バカ!!」と叔母は叫んでまた咳を始めた。悲壮の雨に濡れ、辛苦に温められた汗が、肌を伝って乾いた床を濡らした。次の駅に着くまでには、まだ時間があった。

 僕はいったいどこから来れば、白いブラウス一枚で外出する気になれるのかよく判らなかったが、とにかくその事はあまり考えないことにした。何せ叔母は、僕より7個も多くの国を回って、僕が納得も想像もできないような数々の経験をしてきたのだ。オレンジと緑のカボチャみたいな色をした対向車線が、窓の隙間から外の景色へと吸い込まれていった。線路はいつの間にか単線から上下線に分かれた複線になり、さらに複数の軌道を持った大きな駅に差し掛かろうとしとしていたが、それはずいぶん後のことだった。

 叔母の手がそっと僕の膝に触れた。叔母はバックもポーチもなにも持ち合わせてはいなかった。

「ごめんなさい。………あなたはバカじゃない」

「その言い方だと余計バカにされてるみたいだ」

「苦しいのよ」

「本当に?」

 叔母は目を見て、あなた本当はちっとも反省してないでしょ、と言った。僕は学生カバンに入れていた手を取り出し、片手で金具のところを握り膝の上でカバンを支えた。学生カバンの中には何も入ってはいなかった。教科書も弁当ももちろん咳止め薬も、何もかもを僕は所定の場所に置いてそのままにしていた。ヒーターの熱を浴びた金具は手袋を通していても熱く、僕の手の皮膚を焼いた。

「本当に、とっても苦しいの」と叔母は言った。「だからもう、そっとしておいて」


 僕は眠ろうと思う。何度もその努力をしている。誰にとってもやすらげる眠りへと。けれどいつまでたっても僕は眠ることができないでいる。きっと世界で一番愛しい叔母が、僕の隣に座っているせいだろう。


 何かしら好くないものに憑かれたみたいに、叔母は乾ききってカサカサになった咳をした。叔母の咳からは死相とラークの香りがした。死の臭いのする吐息を漏らさないよう口を塞ぎ、体の中の悪意が他を傷つけないよう、叔母は身を縮めた。僕は何か得体の知れないものの数をかぞえるように、叔母がする咳の回数をかぞえた。それは減ることはなくただただ増え続けていく………


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