初恋の彼のお母様は、私のお父様の幼馴染でした
数多くの作品から目に留めていただき、ありがとうございます。
突然、後ろから大きな手で口を塞がれた。
悲鳴を上げる間もなかった。
続いてもう片方の手が私の体を抱え込み、動きを封じられた。
そして恐怖で硬直した体を持ち上げられて、抵抗できないまま近くの空き教室に連れ込まれた。僅か数秒の出来事だった。
ここは王都にある王立学園、高位貴族の子女も通う園内の警備体制は万全を期しているはずだ。不審者の侵入は考えられない。では、私をこんな目に遭わせているのは学園関係者なの?
「手を放すけど、大声を出さいないでくれ」
その声には聞き覚えがあった。
「手荒なことをして申し訳ないけど、こうでもしなきゃ君と話が出来ないから」
口を塞いでいた手が、ゆっくりと離された。
「レイド様……と、ピア様」
私を強引に空き教室へ連れ込んだのは、今はまだ私の婚約者のフィリッポ侯爵令息レイドと、ドアを閉めたのは彼の幼馴染、クランベール子爵令嬢のピアだった。
「なんのつもりです」
「話をしたいだけだ、ノヴェリ公爵邸へ行っても約束がないと追い返されるし仕方なく」
レイドは嫌悪感に鳥肌が立つ私に切羽詰まった目を向けた。
「婚約を解消したいとは、どういうことなんだ!」
私はノヴェリ公爵家の養女グリシーヌ、一カ月前に進級した二年生。赤い髪に藤色の瞳、平凡な容姿だが成績は優秀だ。
一歳年上で、ダークブロンドに翡翠の瞳の眉目秀麗なレイドとは、三カ月前に婚約を結んだものの、解消したいと義父に相談している最中だ。先方にも伝わったのだろう。
この婚約は、フィリッポ侯爵家とノヴェリ公爵家が共同事業を始めるにあたり、関係を強固にする為の政略だった。持ち掛けたのはフィリッポ侯爵家なので、それが息子の愚行で破綻しようとしているのだから、面目を潰された父親からレイドは酷く叱責されたのだろう。
「なぜなんだ、この三カ月、君との交際は順調だったのに、なぜ突然解消したいだなんて言い出すんだ」
「婚約者を蔑ろにする方とは、この先うまくやっていく自信がありませんから、早く解消したほうがお互いの為だと思いまして」
「蔑ろになんかしていないじゃないか! ……まさか先日、ピアの見舞いに行ったことを言っているのか?」
一週間前のことだった。
観劇の約束をしていたが、当日になって行けないと断られた。理由はピアが熱を出して寝込んでいるので、心配でこれから見舞いに行くとのことだった。楽しみしていた観劇なので、私は仕方なく義姉のバージニアと観に行った。バージニアはも、幼児じゃあるまいし少し熱を出したくらいで駆けつけるなんて、只ならぬ仲に違いないと言っていた。私も同感だ。
「誤解だよ、ピアとは君が心配するような関係じゃない」
「私との約束より他の人を優先したことが問題なのですよ」
「ちゃんと説明したじゃないか、君はそれなら仕方ないと納得してくれただろ」
「ええ、仕方ないと言いましたわ、私よりそちら方を大切に思うあなたの気持ちは変えられないから仕方がないと言う意味です。だから、そのような相手がいらっしゃるあなたとの婚約は無理だと義父に言いましたの」
「なぜ、そうなるんだ!? たかが一度、病気見舞いに行っただけで」
「一度で十分理解しました。婚約者より幼馴染や従妹を優先する殿方を許し続けた挙句、結局婚約破棄となる話を聞いたことがあります。私は何度も我慢しません、無駄な時間を費やしたくありませんから」
「何度もじゃないだろ、これが初めてじゃないか。病に伏した幼馴染の見舞いくらい許してくれもいいじゃないか、心が狭すぎるじゃないか?」
「生死の境を彷徨ったと言うのなら話は別ですが、お元気そうじゃありませんか」
血色も肌艶も良く足取りもしっかりしている、一週間前に高熱で寝込んでいたとは思えないピアに視線を流した。
レイドの幼馴染のピアはミルクティー色のフワフワした髪に澄んだ空色の瞳、色白で華奢で庇護欲をそそる可憐な少女だ。私の冷ややかな視線に気付くと、胸の前で手を組んでウルウル瞳で訴えかけた。
「熱が出て本当に辛かったのです。幼い頃からレイドに来てもらったら落ち着くのでつい呼んでしまったんです。グリシーヌ様とお約束があったなんて知らなかったのです」
「約束があろうがなかろうが、たかが風邪くらいで婚約者がいる令息を気軽に呼びつけるのは変です。それに応じる方もどうかしています。ですから、婚約者との約束より幼馴染を優先してもいいと言う心の広い方と婚約なさることをお勧めしますわ」
それだけではない、学園でも密かに逢引きしている噂は耳にしていた。婚約が決まってからは隠れて会っていたようだが、お節介な方々が教えてくれる。
「今後はそのようなことはしませんから、どうかレイドにやり直すチャンスを」
大きな目から大粒の涙が零れ落ちる。
やり直すもなにも、恋人がいるのを隠して婚約を結び、別れられていない時点でアウトだ。二人は幼馴染でずっと一緒にいるのだろうが、なんの旨味もない子爵令嬢との結婚をフィリッポ侯爵が許可するとは思えない。ピアは正妻になれないのなら愛人でもいいと思っているのかも知れないが、結婚前から愛人がいる相手など御免蒙りたい。私を舐めているとしか思えない。ひいてはノヴェリ公爵家を甘く見ているのだ。
「私と彼とはご縁がなかったのですよ。これからは心置きなくフィリッポ侯爵令息をお呼びしてくださいな」
「誤解しないでください、レイドも言ったようにグリシーヌ様が心配されるような関係では決してないのです。彼とはただの幼馴染なのです」
彼とはただの幼馴染、その言葉が耳の奥で谺した。
幼馴染……便利な言葉だ。
以前にも聞いた言葉。
そう、五年前。
あの時の記憶が甦る。
あの人も同じことを言っていた。
大きな目に涙を浮かべながら訴えていた。
* * *
五年前の夏。
十一歳だった私は母アドリアーヌと共にスカラノ侯爵領の本邸へ来ていた。
当時の母はスカラノ侯爵夫人で私はスカラノ侯爵令嬢だった。
普段は母と共に王都のタウンハウスで生活しているので、王都から馬車で一週間かかる領地へ赴くのは久しぶりだった。
田舎暮らしが嫌いな母がこの夏に限ってなぜ領地へ行くと言い出したのか、その時はわからなかったが、私は父と会えることが嬉しかった。
父は主に領地で生活しており、社交シーズンや所用がない限り王都へ来ることがなく年に数回しか会えなかった。特にここ数年はほとんど会っていなかったので、父とひと夏を過ごせると楽しみにしていた。
しかし父は仕事が忙しいと相手をしてくれなかった。そして母もやることがあると言って私は放置された。
仕方なく私は侍女や護衛騎士に、近くの森や湖に連れて行ってもらった。
そこでリュネイと出逢った。
キラキラしたプラチナブロンドにサファイアブルーの瞳が綺麗な、端正な顔立ちの美少年だった。彼は近くの別荘で暮らしているらしい。私たちは意気投合して毎日のように会って遊んだ。
本来活発な少女だったが、王都では厳しい淑女教育が始まっており、窮屈に感じていた私は、枷が外れて、男の子と自然の中を駆け回り、侍女や護衛騎士を困らせた。
リュネイに会うのが嬉しかった。
彼に恋をした。
初恋だった。
「今日は母上がアップルパイを焼いてくれてるんだ、友達を連れて来てもいいと言ってるから一緒に食べようよ」
「アップルパイ大好きよ、お母様の手作りってすごいのね、うちにお母様は料理なんかしないわ」
「俺の母上は得意だよ、どの料理も美味しいよ」
そうしてリュネイに案内されて到着したのは……。
「ここなの?」
そこは湖畔にあるスカラノ家の別荘だった。
お客様が来ているとは聞いていない。それどころか、別荘は今、改装中だから使えないと父は言っていたのに……。
「そうだよ。ここの持ち主は母上の幼馴染なんだ。二年前に父上が急病で亡くなって、叔父さんが家を継ぐことになったから、俺と母上は追い出されてしまったんだ。それで困っていたところ、ここを貸してくれたんだ」
お父様とリュネイのお母様は幼馴染だったのね。でも、なぜ改装中だなんて言ったのかしら? お客様がいらしているなら紹介してくれても……。
その時、玄関ホールから女の人の言い争う声が聞こえた。
「こんなところに愛人を囲っていたなんてバカにしているわ! 本邸から目と鼻の先じゃない」
「囲われているなんて誤解です、行き場のない私たちを見兼ねたアルがここを貸してくれているだけです」
「アルですって! 馴れ馴れしい、やはりそんな関係だったのね」
鬼の形相で扇を投げつけたのは母、声を荒げている母を見るは初めてだった。
「違います! 奥様が心配されるような関係では決してないのです。彼とはただの幼馴染なのです」
「私がなにも知らないと思っているの? 結婚前からあなたの存在は把握していたわ。でも、私と結婚するからにはキッパリ別れると言っていたから、その嘘を信じてしまったのよ。ずっと関係を続けていたなんて、酷い裏切りだわ!」
母に責められているのは、
「母上!」
その女性を庇うようにリュネイが割って入った。
「母上を苛めるな!」
リュネイは女性を背にして私の母を睨み上げた。
母は絶対零度の眼差しをリュネイに向けた。
「そう……この子、アルマンドとの間に出来た不義の子なのね」
「違います! リュネイはボンティ伯爵の子です」
「じゃあ、なぜボンティ伯爵家を追い出されたのかしら? 伯爵の実子なら正当な跡継ぎのはずよ」
「それは……」
その時になって母は茫然と立ち尽くしている私に気付いた。
「グリシーヌ! なぜここへ」
「わ、私はリュネイと」
母の顔がさらに険しくなる。
「なんてこと……娘まで懐柔して、私を追い出して後妻の座に収まることを狙っているのかしら」
「そんなことは決して」
「お望みどおりにしてあげるわ、ただ、娘は渡しませんから」
母は私の手を強く握って踵を返した。
「帰るわよ、こんな汚らわしい子と一緒にいてはいけません」
利発な子供だった私は、その短い会話から理解してしまった。
扇を投げつけられた女性はリュネイのお母様、彼女は父の愛人なのだろう。そして汚らわしいと言われたリュネイは、父と愛人の間に生まれた子供……私の異母兄なのだ。
衝撃の事実に放心状態の私は、母に引き摺られるように本邸に戻った。
父が王都にあまり来なかったのは、領地に愛人がいたからだった。もちろん秘密にしていたのだろうが、リュネイが別荘に来たと言っていた二年前からは、以前にも増して王都へ来なくなった父に疑いを持った母は、愛人の存在を暴くために抜き打ちで領地の本邸へ赴いたのだった。
母の疑惑は確信に変わった。
本邸に戻った私と母は、すぐに馬車を乗り換えて王都に向かった。
リュネイにさよならも言えなかった。
でも、それで良かったのかも知れない、どんな顔をして会えばいいかわからないから。彼もきっと私との関係を聞かされているだろう。
王都に到着したがスカラノ侯爵家のタウンハウスには戻らずに、私たちは母の実家であるノヴェリ公爵家へ行った。
そして母は兄であるノヴェリ公爵に泣きついた。
「あの人はずっと私を騙していたのよ。あの女はただの幼馴染、結婚したらもう会うこともないと言っていたのに、ずっと続いていたのよ。あんな子供まで作って、領地の本邸のすぐそばの別荘に隠していたのよ」
私は取り乱して涙を流す母を初めて見た。
侯爵夫人として、元公爵令嬢として厳しい淑女教育を受けた母は感情を表に出すことはなく、いつも毅然としていた。教養と品格を備えた淑女の鑑だった。家庭教師からは、母は素晴らしい見本だと言われていた。
「その、リュネイと言う子供は本当にスカラノ侯爵の子供なのか?」
伯父は母の勢いに圧倒されて困惑していた。
「あのプラチナブロンドにサファイアブルーの瞳、あの人と同じ色だった。間違いないわ」
リュネイが父に似ているとは思わなかったが、確かに、父と同じ色を持っている。私は母方の血を濃く引いているから、父の色を受け継いでいない。
ショックだった。
初恋の相手が……、初めて意識した異性が、初めて好きになった人が実の兄……好きになってはいけない人だったなんて!
決して結ばれることのない相手、結ばれてはいけない相手だったなんて……。
私の初恋は粉々に砕け散った。
そして私の心は凍り付いた。
その後、両親はスピード離婚した。
貴族が愛人を持つことは珍しくなかったが、母はリュネイのお母様の存在を決して許さなかった。
父と母の結婚は、領地経営がうまく行かず経済難に陥っていたスカラノ侯爵家が、ノヴェリ公爵家から支援を受ける為の政略だった。母が言っていたように、父は当時幼馴染の恋人がいたけれどキッパリ別れると約束したから、母も貴族令嬢としてこの政略結婚を承諾したのだ。
その約束が破られていた、最初から守られてもいなかった。
自尊心を踏みにじられた母は高額な慰謝料を請求し、侮られたノヴェリ公爵家も支援金の返却を求めた。今は領地経営も安定しているが、父には大きな痛手だっただろう。それでも父が応じたのは自分の非を求めたからだ。
父がそんな人だったことに私は失望した。
母と私はそのままノヴェリ公爵邸で生活することになった。
「あの人はあなたと会わせないことをアッサリ承諾したのよ。親権は私が貰うとしても、娘に会う権利を主張することは出来たのにね。新しい家族がいるから、私もあなたも必要ないのね」
あの日、勢いで王都に戻ってから一度も父に会っていない。手続きの為に父は王都に来ているはずなのに……。
しかしそれを私に言う必要があったのだろうか?
父親に捨てられたと聞かされた私がショックを受けるとは考えなかったのだろうか? いいや、わざと父を憎むように仕向けようとしたのかも知れない。
でも思ったより悲しくなかった。
主に領地で生活していた父と過ごした記憶が少なかったからだろう。もう会えないと言われても、私の生活に大きな変化はないのだ。
そうか、父は領地に本当に家族がいたのだ。
父にとって王都にいる母と私は家族ではなかったのだ。
父は私と母よりも、幼馴染のリュネイのお母様を選んだのだ。
* * *
「私とレイドはただの幼馴染なんです」
ピアはもう一度、念を押すように言った。
幼馴染……とても都合のいい言葉。
幼馴染……初恋を砕いた心を抉る言葉。
幼馴染……私から父親を奪った者。
そして間接的に母をも奪った。
離婚が成立した後、母は私を置いて傷心旅行に出た。他国へ嫁入りした旧友を訪ね歩くのだと言って出発した。
そして一年後、旅の途中で知り合った貿易商人と再婚したという知らせが届いた。プライドが高い根っからの高位貴族である母が、裕福な商人とは言え平民と結婚した知らせはノヴェリ公爵家の人々を驚かせた。そして、なんて切り替えが早いのだろうと呆れさせた。
遠い異国から絵葉書が届く、新しい夫と仕事で世界中を渡り歩いているらしい。文面からは自由で充実した生活が伝わる。夫に裏切られて傷ついた母が立ち直り、新たな幸せを掴んだことは喜ばしいことだ。しかし、私は一人取り残されてしまった。
独りぼっちになった私は伯父であるノヴェリ公爵の養女になった。
ノヴェリ公爵夫人は温かく迎えてくれた。同い年の従姉バージニアとは元々仲が良かったし、三歳年上の従兄エドアルドも優しかった。
しかし私の心は冷え切ったままで、心から笑えなくなった。
レイドとピアは、そんな事情は知らないだろうけど、今の私たち三人の関係はかつての両親たちの関係に似ている。
私を養女にして、実の娘と分け隔てなく育ててくれたノヴェリ公爵夫妻に少しでも恩返しができればと思って、レイドとの政略婚約を承知した。義父もレイドにこんな相手がいることを把握していなかったのだろう。
『無理です。私との約束を反故にして幼馴染を優先する方とは……。母と同じ目に遭うのではと恐怖に震えました、もう生理的に受け付けないのです』
私の訴えを義父はすんなり聞き入れてくれた。あの日、取り乱して泣いた妹アドリアーヌの姿と重なったと言って私を抱きしめてくれた。そして、早速フィリッポ侯爵家に解消の話をしてくれた。
もちろんフィリッポ侯爵がすんなり受け入れる訳もなく、話し合いは難航したようだ。そしてレイドは酷く叱られて、私を取り戻そうとしているのだ。
婚約から三カ月、私を大事にするふりをして信用を得たと思ったのだろう。だからついピアの我儘に付き合ってしまった。甘かったわね、まだ信用などしていなかった、そして剥がれた化けの皮を再び被ることは出来ないのよ。
「私は、私を一番大切にしてくれる人と結婚したいのです。ただの幼馴染を婚約者より優先する人とは結婚したくありません」
「だから、これからは」
「信用できません!」
本当に反省しているのならピアと一緒にいるべきじゃない。何度でも一人でノヴェリ公爵邸へきて、義父に頭を下げるのが筋というモノだ。
しかしまだピアと行動を共にしている。そうやって並んでいると誰が見ても恋人同士、この二人が別れるとは考えられない。なによりピアが金蔓でもあるレイドを手放すとは思えない。
「あくまで婚約を解消すると言い張るんだな」
本当なら〝破棄!〟と言いたいところだが百歩譲っているのよ。それなのにレイドは大きな溜息を漏らした。
「それなら仕方ない、解消できないように既成事実を作ってしまおう。そして偶然、ピアが目撃してしまう」
「はあっ?」
なにを言っているの? 正気とは思えない。
「そうよね、あなたは私にレイドを取られたくないから体を許したことにすればいいわ」
ピアも同意した。自分の恋人が他の女と関係を持っても平気なの?
私は大きく一歩退いて、二人から距離を取った。
「私はそんなことしないわ」
前提がおかしい、レイドを愛していないのに取られたくないなんてあり得ないし、簡単に体を許すような阿婆擦れではない。バカにするのもいい加減にしてほしい。
私は隠し持っていた短剣を取り出し、自分の首筋に突き立てた。
「尊厳を踏みにじられるようなことがあった自ら命を絶つよう、貴族令嬢ならそう教えられているわ」
「バカなことを考えるな」
レイドが慌てて手を伸ばす。
「近寄らないで!」
その時。
バーン!!!
荒々しくドアが開いた。
そこには殺気立った形相のリュネイが立っていた。
「穏便に済むなら口出しする必要はないと様子を窺っていたけど、危害を加えようとするなら見過ごせない!」
なぜ彼が?
絶妙なタイミングの登場に私は驚いた。ドア越しに会話を盗み聞ぎしていたの?
リュネイとは一カ月前に再会していた。彼が王立学園に入学した時だった。
さよならも言えず別れたきり、五年ぶりの再会だった。そして年上だと思い込んでいた彼が、実は一歳年下だったことを知った。異母兄では異母弟だったのだ。
学園に通うために領地から出てきたようだ。
彼は美少年から美青年に成長していた。キラキラしたプラチナブロンドにサファイアブルーの瞳の端正な顔立ちは令嬢たちの目を惹き、入学早々注目を浴びていた。
リュネイの方も私に気付いて、しきりに話しかけようとしていたが、私は完全に無視して彼との接触を避けまくった。五年経った今でもまだ彼の顔をまともに見る勇気がなかった。心の奥に消すことが出来ない恋心が屑ぶっていたからだ。
リュネイに罪はないのはわかっている、親を選んで生まれては来れない、私は残酷な運命を呪った。
幸い私は学園で最高位の公爵令嬢、学園内で身分は関係なく平等とされているが、それは建前で、実際は下位の者から話しかけることは憚られる。リュネイは私の態度に気付いたようで、暫くすると彼の姿が私の視界から消えていた。
それでいい。
当時の私には婚約者がいたし、学園で注目を浴びている新入生と親しくするつもりはない。
きっとリュネイは、私の家庭を壊した彼の母親と彼自身を憎んでいると思っているだろう。確かにそれもあったが、リュネイを避けた本当の理由ではない、私の心に気付いてほしくはなかった。
再会しても、私たちの道が再び交わることはない。
そのはずだった、のに……なぜ彼がここにいるの?
「もう大丈夫だから、剣はこちらへ」
リュネイは彼の登場に驚いて茫然としている私の側に来た。そして剣を握る手にそっと自分の手を添え、握り締めている私の指を解いて短剣を取り上げた。
「危ないから」
耳をくすぐる優しいリュネイの声……低くなっている、私の知らない声だ。そりゃそうよね、もう変声期を終えているのだから。
「なんだよ、お前は!」
レイドがリュネイの肩を掴んだが、リュネイは難なくその手首を捩じり上げた。
「痛っ!」
二歳年下のリュネイの方がよほど逞しい、鍛え上げられている腕の筋肉が服の上からでも窺えた。
リュネイはレイドを突き放すと、
「ここから出よう」
よろめいたレイドに鋭い視線を刺してから私を抱き寄せた。
こんなに背が高くなったのね。あの頃は同じくらいの身長だったのに、今は頭一つ高い、私の顔が彼の胸に埋まった。泣きそうになっている私の顔を隠すようにしながらドア口まで進んでから再びレイドに振り返り、
「二度とグリシーヌに近付くな」
リュネイはドスの効いた声で威嚇した。
「お前に命令される筋合いはない! グリシーヌは俺の婚約者だ!」
レイドは言い返したが、力では叶わないと察したのだろう、追おうとはせずに距離を取りながら、
「ただの痴話喧嘩なんだから、お前には関係ないだろ」
「関係はある、俺とグリシーヌは」
「リュネイ!」
私は慌てて遮ったが、
「幼馴染だから、放っては置けない」
え……。
「グリシーヌは俺にとって一番大切な人なんだ、お前みたいな屑には渡さない」
レイドとピアを残して私たちは空き教室から出た。
気丈に短剣を出して脅したものの、本当は相当怖かったのだ。まだ震えは止まらない。レイドから離れられてホッとし瞬間、涙が溢れだした。
リュネイはまるで幼い子供をあやすように私の背中を優しく摩ってくれた。
リュネイに抱き寄せられて心臓は早鐘のように打っている。レイドに襲われそうになった恐怖心で涙が込み上げたのに、一方ではリュネイに彼に触れている部分が熱を帯びて、きっと顔も真っ赤になっているだろう。忙しい……。
半分は血がつながっている姉弟とわかっていても男性として意識してしまう。私の恋は全然終わっていないのだ、なんて諦めが悪い女なのだろう。
ひと夏の恋。
数日間一緒にいただけなのに、あの日々が忘れられない。
ずっと会いたかった。
好きになってはいけない人なのに。
「その様子じゃ授業に出るのは無理だろ、家まで送ろう」
「こんな顔で戻ったら、お義母様を驚かせてしまうわ、もう少し目の腫れが引くまで待って」
「でも、学園内じゃ授業が終わったら人目につくぞ」
では医務室にと言いかけた時、先にリュネイが言った。
「うちに来ないか?」
「えっ?」
「ユルチーニ伯爵家のタウンハウス、侍女も執事もいるし安心して来てくれればいい」
「ユルチーニ伯爵家……」
思わず呟いた。彼が入学した時からずっと気になっていたことだ。なぜ、リュネイ・スカラノではなく、ユルチーニなのかと聞きたかったが、なにぶん自分から避けていたから聞く機会もなかった。
「なぜユルチーニなのかと疑問に思っているだろ、ユルチーニ伯爵家は祖母の実家なんだよ」
私の思考を読んだようにリュネイは言った。
* * *
私は促されるままユルチーニ伯爵家の馬車に乗り、伯爵家のタウンハウスに向かった。
泣き腫らした顔でノヴェリ公爵家へ戻れば大騒ぎになることは目に見えている。かと言って学園の医務室へ行けば、事情を詮索される。きっとリュネイは事実を報告するだろうし、こちらもたちまち大騒ぎになる。
レイドたちがしたことは許されることではないが、大事にはしたくなかった。私はただ婚約が解消されればいいのだ。レイドがバカなことをした為に話がややこしくなるだろう、今後どうすればいいのか考える時間も欲しかった。
ユルチーニ伯爵邸に到着した私は奥へと案内された。
途中、私の横を歩くリュネイはすこぶるご機嫌でニコニコしている。私はあんな酷い目に遭ってショックを受けているのに不謹慎じゃない? しかし、
「やっと君と話をする機会が出来た」
急に真顔になって、沈んだ声で話をはじめた。
「君がどこまで聞いているか知らないけど、あの後、母と君の父上スカラノ侯爵は再婚したんだ」
「ええ、それは知っているわ、だからリュネイも一緒に暮らしていると思っていたわ」
「俺はスカラノ籍に入れてもらえなかった。そして翌年、再婚した二人の間に子供が生まれたタイミングでユルチーニ伯爵家の養子になった」
「なぜ?」
「なぜって、君と同じだよ。俺は二人の新生活に必要なかったから捨てられたんだよ」
「そんな……」
父は私を捨てたようにリュネイもあっさり捨てたと言うの?
「母はね、息子の俺よりも初恋の幼馴染とその間に生まれた子との新生活を選んだんだ。……母を恨んではいないよ。肉親より愛する人を選んだ気持ちは、なんとなくわかる気がするから。だから今度こそ幸せになってほしいと思うけど……。大変みたいだ」
ん? 違和感を覚えた。母親のことしか言わないのはなぜ? 父親の方はスルーなのかしら。それに、
「大変って?」
「スカラノ侯爵家を支えていた君の母上がいなくなったからだよ。スカラノ侯爵は領主として領地経営をするには能力不足だった。だから傾いていたところを先代と付き合いがあったノヴェリ公爵家が手を差し伸べて支援していたんだ。そして前夫人の社交界での人脈で領地の特産物の取引や運営が成り立っていた、それが無くなればまた元のように衰退していくだけだ」
「確かに母は王都で執務をしていたわ、忙しそうだった」
「君の母上には商才があったんだよ。だから今、貿易商人と再婚して思う存分才能を発揮しているんじゃないかな」
リュネイは母がその後どうしているかも知っているのね。
「そうね、いつも楽しそうな手紙が届くわ」
置き去りにされた私の気持ちも考えずに、自分だけ人生をエンジョイしているって感じでムカつくこともある。
「もちろん俺の母上には領地運営の手伝いなんかできないし困っているだろうな。でも、愛があればどんな困難も乗り越えられるはずだ」
その言葉には皮肉がたっぷり籠っていた。
「もう、俺には関係ないことだけどね。ユルチーニ家に入ってからは一度も母と会っていないし、この先も会うことはないだろう。もう他人だ、二度と会うつもりはない。だから君に会うことも許されると思ったんだけど、君はずっと俺を避け続けていたね」
「私は……あなたと会うのが怖かった」
「なぜ?」
「なぜって」
その時ちょうど応接室に到着した。
「俺はずっと君と話がしたかったんだよ、そして、誤解を解きたかった」
リュネイが応接室の扉を開けると、暖炉の上にかかった大きな肖像画が目に飛び込んだ。
「え……」
描かれている人を見てハッとした。
「先の戦争で武勲を立てた祖母の兄上の肖像だ、俺の大伯父に当たる人だ」
リュネイが言った。
軍馬に跨り、剣を高らかに翳している英雄の姿、キラキラしたプラチナブロンドにサファイアブルーの瞳、端正なその顔はリュネイと瓜二つだった。
どういうこと? 私の頭は?????で埋め尽くされた。
「俺には祖母の家系ユルチーニ伯爵家の特徴が濃く出たようだ。父の色を受け継がなかったから不義の子だと疑われて追い出されたけど、祖母にはちゃんとわかってた、この髪と瞳はユルチーニ家の色だって」
「隔世遺伝?」
「父は前スカラノ侯爵の祖父似で、焦げ茶の髪に群青の瞳だったから、俺はボンティ伯爵家の血を継いでいないと思われてしまった。叔父はいつ調査したのか幼馴染であるスカラノ侯爵の存在を把握していた。偶然スカラノ侯爵の髪がプラチナブロンドで瞳がサファイアブルーだったから、叔父は母が浮気をしたと決めつけて祖母の言葉も聞かずに俺たちを追い出したんだ。祖母が亡くなった後、俺の境遇を知った従叔父のユルチーニ伯爵が同情して引き取ってくれたんだ」
「あなたは間違いなく前ボンティ伯爵のご子息ってことなの?」
「当たり前だ、母は浮気なんかしていない。結婚してから会っていないのは本当だと言っていた。追い出されてやむを得ず君の父上を頼ったんだ。結果、それが間違いだったんだけどね。君の家庭を崩壊させてしまった」
「じゃあ、私たちに血の繋がりは……」
誤解?
私は今まで何を悩んでいたの?
両親の離婚はリュネイたちだけのせいではない。父は恐らく政略結婚で結ばれた優秀な母に劣等感を抱いていたのだろう。だから領地に引きこもっていた卑屈な男だったのだ。いずれ両親は破綻していた。五年前の時点でもうしていたのかも知れない。
それでも母は父のことを想っていたのだろうか? あの時、リュネイのお母様と対峙した時の取り乱し方を思えば、父を愛していたから怒ったのだろう、許せなかったのだろうと想像できる。
でも父は最初から母を裏切っていたわけではなかった。
リュネイが父の子供だと言ったのは母の思い込みだった。
私はそれを信じてしまった。
私は眩暈に襲われた。
よろめいた私を支えて、リュネイはソファーに座らせてくれた。
「やっぱり誤解していたんだね」
「だって、母が断言したんだもの、あなたは父の子だと」
「あの時は君の母上も動揺していたから、俺の髪と瞳を見て思い込んでしまったんだろうね。よく顔を見てくれれば全然似てないのに。この肖像画を見てもらえれば疑惑が払拭できると思っていたから、君には是非ここへ来てほしかったんだ」
「母に言われて、私とあなたは半分血が繋がっていると思い込んでいたわ。だから好きになってはいけない人なんだと……。でも忘れられなくて、ずっと、ずっと苦しかった」
溢れたのは安堵の涙。
禁断の恋じゃなかった。
彼を好きになっても良かったんだわ。
バカみたい。
ちゃんと確認することもなく決めつけて、一人で悲劇に浸っていたなんて。
「泣いたらまた腫れてしまうよ」
リュネイは私の頬にそっとハンカチを当ててくれた。
「リュネイ、あなたは私の初恋だったのよ」
私は勢いで言ってしまった。
「奇遇だな、俺もそうだ、グリシーヌが初恋だよ」
リュネイは驚くこともなく微笑みで答えてくれた。
「ずっと会いたかった」
そしてそっと私の肩を抱き寄せた。
こんな日が来るとは思っていなかった。初恋は実らないものだと言うけれど、私の恋は成就しそうだ。
その時、〝ゴッホン!!〟大きな咳払いが聞こえた。お年頃の未婚の男女が接近しすぎ、友人の距離ではない。見過ごせない侍女たちが見張っているぞとアピールしたのだろう。
リュネイは私から手を放して座り直した。
「ユルチーニ伯爵家には正当な跡継ぎがいる、だから養子である俺が継ぐ爵位はない。でもユルチーニ伯爵家は騎士の家系だから俺も騎士として身を立てるつもりだ。近衛騎士に採用されればそれなりの身分は保証される。それでも公爵令嬢とは身分が違いすぎるのは重々承知しているけど」
少し言葉に詰まってから、
「君を諦めきれないんだ。フィリッポ侯爵令息との婚約が正式に解消されたら、ノヴェリ公爵家へお願いしに行ってもいいか?」
* * *
その後、私とレイドの婚約は、レイドの有責で破棄された。
しかしレイドが廃嫡されることで共同事業はそのまま継続されることになった。
レイドが私を空き教室に連れ込んで不埒なことをしようとした事実は公にされなかったもの、レイドとピアは卒業前に王立学園を退学した。
そしてフィリッポ侯爵領最北端の小さな町の代官に任命された、というか追いやられたそうだ。ピアも一緒に行ったそうだから愛し合う幼馴染同士はめでたく結婚できて良かったんじゃないかしら。
そして私とリュネイは母の反対を押し切って正式に婚約した。
リュネイの境遇を知り、かつ私たちの気持ちを知った義父をはじめとするノヴェリ公爵家の家族は祝福してくれた。
休日は必ず二人で過ごす。
会えなかった五年間を埋めるように一緒に過ごした。
リュネイが私の肩を抱き寄せても、ユルチーニ伯爵家の侍女たちはもう咳払いをしない。
おしまい
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