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夜番が消えて、死者だけが増えた

作者: 歩人
掲載日:2026/07/31

 痛みは、夜にだけ正直だ。


 昼のあいだ、兵はみな「大丈夫だ」と言う。胸を張って、笑って、痛みを隠す。だが夜になると、隠す力から先に眠ってしまう。残るのは呼吸だけだ。呼吸は、痛いと言う。


 だからヨハンナは夜に歩く。三十二の寝台を、一晩に四度。


 靴の踵はわざと減らしてある。床を鳴らすと、眠りの浅い者が目を覚ますからだ。


「姉さん」


 十四番の寝台から、小さい声がした。ミロだ。左腕を落とした兵で、まだ声変わりもしていない。


「起きてたの」


「起きてない」


「起きてるじゃない」


「今、起きた」


「嘘つき。……痛いの、我慢してた?」


「してない。……ちょっとだけ」


「ちょっとが一番厄介なんだよ」


 ヨハンナは寝台の脇に膝をついて、ミロの右の手首に指を三本置いた。砂時計を伏せる。脈を数えるあいだ、唇だけが動く。


「速いね」


「走ってないよ」


「走ってなくて速いのが問題なの」


 毛布をめくって、左の肩の包帯に鼻を近づける。匂いは変わっていない。熱は昨日より半分ぶん高い。上がり方が、少し速い。


「明日、いちばんに診てもらおうか」


「いいよ、べつに。他の人が先で」


「駄目」


「なんで」


「あんたの熱の上がり方が、気に入らないから」


 ヨハンナは帳を開いて、名前の横に印をつけた。


 ——先に、と。


「姉さん」


「なに」


「手紙、また書いてくれる?」


「書くけど、母さんに何て言うの。今度は」


「……元気だって」


「嘘つきばっかりだね、あんた」


 ミロが笑って、笑った拍子に息が浅くなった。ヨハンナは毛布を肩まで引き上げてやって、寝台を離れた。


 十五番。十六番。十七番。呼吸を聴きながら歩く。


 十九番で足を止めた。

 いびきが、途中で止まる型のいびきだった。仰向けで寝ると喉が塞がる人の音だ。


「グレフ。横を向いて」


「……起きてる」


「起きてるなら横を向きなさいよ」


「向くと肩が痛い」


「肩は治る。息が止まるのは治らない」


 男が寝返りを打った。いびきが、続く型に変わった。


 二十三番は、静かすぎた。


 静かすぎる呼吸は、深く眠っている音と、力が抜けている音の二つがある。似ているが、吸うほうの立ち上がりが違う。


 ヨハンナは毛布の下に手を入れて、手首を探した。脈はあった。遅い。


「軍医どの」


 小声で廊下へ呼びかける。当直の助手が眠そうに顔を出した。


「二十三番、いま診て」


「朝ではいけませんか」


「朝には、たぶん間に合わない」


 助手は文句を言いながらも、灯を持って走った。


 その男は、朝に生きていた。

 ヨハンナは帳に一行足した。刻と、脈と、それだけだ。


 三十二の寝台のうち、今夜、朝までに手が届かなくなるのは二人だ。二人とも、昼のあいだは「大丈夫だ」と言っていた。


 その夜が、ヨハンナの最後の夜番になった。

 そのときは、まだ十四番の寝台の毛布を直しながら、明日の朝の順を考えていた。




 将軍レオポルド・フォン・ダールが傷病棟に来たのは、翌日の昼だった。


 手袋を外さない人だった。病棟に入ってきて、まず窓を開けさせた。匂いが不快だったのだろう。


「順を、軍が決める」


「順、と申しますと」


「手当の順だ。今日から、功のある兵を先に治す」


 ヨハンナは帳を胸に抱えたまま、少しのあいだ黙っていた。


「功、でございますか」


「そうだ。敵を三人斬った兵と、荷を運んだだけの兵を、同じ順に扱う理由がない」


「熱の上がり方は、功では変わりませんが」


「口の減らん女だ」


 将軍は病棟をひとわたり見て、それからヨハンナのほうへ顎を向けた。


「聞いたぞ。お前は毎晩、誰を先にするか決めているそうだな」


「決めております」


「つまり、誰を後にするかも決めている」


「はい」


「女が死ぬ順を決めるなど、軍の恥だ」


 病棟が静かになった。

 寝台のいくつかで、毛布の動く音がした。何人かが起き上がろうとして、起き上がれずにいる音だった。


「閣下」


「なんだ」


「『後に』は、捨てる印ではございません。朝まで保つと読んだ印です」


「では、その読みが外れたらどうする」


「外れたことがございます。三年前に、二度」


 ヨハンナは正直に答えた。そこを飾ると、あとの言葉が全部軽くなる。


「その二人は、亡くなりました。名前も、刻も、帳に書いてございます」


「……よく、平気で言えるな」


「平気ではございません。書いてあるだけです」


「では訊くが」将軍は手袋の指で寝台の枠をなぞった。「昨夜、お前が『後に』と書いた者は何人だ」


「四人でございます」


「その四人が今日死んだら、誰の責だ」


「わたしの責です」


 即答した。考える必要のないことだった。


「では、閣下が順をお決めになった夜に誰かが死んだら、それは閣下の責でございますね」


 病棟の空気が動いた。誰かが咳をして、咳のあとで、その咳を後悔したような沈黙が続いた。


「……口の減らん女だ、と言ったな」


「二度目でございます」


 将軍は帳を見た。汚い字だ、と言いたげな目だった。実際、ヨハンナの字は汚い。軍書記のハルトに毎回叱られる。


「帳は置いていけ」


「これは、わたしの手です」


「軍の記録だ」


「では、写しをお取りください。原本は、わたしが持ちます」


 誰かが止めるかと思ったが、誰も止めなかった。

「閣下。順は、慣例では夜番の所見に従うことに——」


 軍医長が、そこまで言った。


「慣例か」


 将軍は書き付けを一枚めくっただけだった。めくる音がして、それきり誰も何も言わなかった。


 軍医長は目を伏せた。三年、この病棟で一緒に働いてきた人だ。目を伏せるのが精一杯なのだろうと、ヨハンナは思った。


 罪状はなかった。査問もなかった。ただ、明日から来なくていいと言われただけだ。


 荷物をまとめていると、ハルトが来た。


「レーベン」


「ハルトさま」


「写しを、取っておく」


「ええ、どうぞ」


「全部だ。欄外もだ」


 ヨハンナは顔を上げた。


 軍書記は、四十を過ぎて痩せた男で、感情のない声で書類を読む役目の人だった。その人が、少し早口だった。


「お前の字は読みにくい。私が読める形に写しておく」


「……ありがとうございます」


「礼はいらん。私は記録係だ。記録は、あとで誰かが読む」


 病棟を出るとき、ミロの寝台を見た。

 眠っていた。呼吸は、昨日より少しよかった。


 起こさなかった。起こして何を言えばいいのか、思いつかなかったからだ。




 夜番の仕事を、人に説明したことがない。


 説明すると、たいてい「ようするに見回りですね」と言われる。それで終わってしまう。


 夜、廊下の端で息を止めて立つ。そうすると病棟の音が層になって聞こえてくる。

 いちばん上に、いびきと寝返り。その下に、浅い呼吸。いちばん下に、痛みを我慢している者の、歯の鳴る音。


 三十二人の音の中から、いちばん下の層だけを拾う。それが仕事だ。


 二年目の冬に、それを軍医長に説明しようとしたことがある。


「つまり、耳がいいということかね」


「耳は普通です。数えているだけです」


「何を」


「息の、吸うほうと吐くほうの長さを」


 軍医長は分からないという顔をした。それきり、誰にも説明しなくなった。


 熱は、高さより速さを見る。

 夜の初めに触って熱く、明け方にもっと熱いなら、それは追いつける。夜の初めはぬるくて、二度目の巡回で急に上がっているなら、朝には手が届かない。


 数字では書けない。だから帳には所見だけ書いて、印をつける。先に。後に。


 二十七番の男は、一度目の巡回ではぬるかった。

 額に手の甲を当てて、三つ数えて、離す。それだけだ。何ともない、と本人も言った。


「痛くないんだよ、ほんとに」


「うん。じゃあ、また来る」


 二度目に来たとき、同じ額が熱かった。

 一度目とのあいだは、二刻ない。


「起きて」


「なんだよ、さっき来たろ」


「さっきと違うから来たの」


 ヨハンナは帳を開いて、二十七番の横に印をつけた。先に、と。

 熱の高さは、朝まで待てば下がることもある。上がる速さは、待っても遅くならない。


 その男は、朝の手当で膿を出して助かった。三日後には自分で座って、粥を食べていた。


 昼の兵は、必ず嘘をつく。


「レーベン殿、俺はいい。隣を先に見てくれ」


「隣は昨日診た。あんたは三日診てない」


「たいしたことない」


「たいしたことないの人は、たいてい三日後に死ぬんだよ」


「言い方!」


「事実だもの」


「あんた、嫁に行けないぞ」


「行かないよ、夜働いてるんだから」


 そう言い合った兵が、その夜に浅い呼吸をしていた。昼のあいだ、彼は一度も痛いと言わなかった。夜になって、隠す力から先に眠った。


 寝台の脇に膝をついて、脈を三つ数えた。速い。皮膚が湿っている。


「起きて」


「……ん」


「起きなくていい。息だけして」


「痛く、ない」


「うん。知ってる。明日いちばんに診てもらうから、朝まで生きてて」


「へんな、言い方だな」


「わたし、言い方が下手なの」


 朝いちばんに診てもらって、彼は生きた。今は右足を引きずって、故郷で麦を作っている。


 外れたことも、ある。


 三年前の夏に二度。どちらも「後に」と書いた兵だった。

 一人は明け方に急に落ちた。もう一人は、朝の巡回のときにはもう冷たかった。


 ヨハンナは、その二人の名前を暗記している。帳を見なくても言える。


 あの夏から、巡回は三度が四度になった。誰にも言わずに一度増やした。増やした一度は、給金には入っていない。


 ミロの母への手紙を代筆したのは、追放される五日前だ。


「なんて書く?」


「元気って」


「それはさっき聞いた。他には」


「……えっと。左は、なくなったけど、右で字は書けるって」


「書けてないでしょ。わたしが書いてるでしょ」


「言わなきゃわかんないよ」


「ばれるよ。母親って、そういうのばれるからね」


 ヨハンナは笑って、それでも、そのとおりに書いた。

 字が汚いので、清書に三度書き直した。宛名だけは丁寧に書いた。


 ——ヴェスト村、ミロの母上さま。


 その宛名を、ヨハンナは覚えている。

 覚えているというより、指が覚えている。




 辺境ゼーレンの野戦病棟は、天幕だった。


 王都を出て十日で職を見つけた。夜番を雇う場所は、探せばある。人は誰も、夜に人が死ぬことを止められないからだ。


 連隊長のアルベルト・キーンが天幕に顔を出したのは、着いて三日目の夜だった。


「レーベン殿」


「連隊長どの。どこか痛みますか」


「いや、俺じゃない」


 大男が、天幕の入口で言いにくそうに立っていた。左の眉に古い傷がある。


「娘なんだ」


「娘さん」


「六つで、王都にいる。手紙に、咳が出ると書いてあって」


「お医者に」


「診せた。心配ないと言われた。……だが、こういう咳なんだ」


 彼はそこで、咳の真似をした。


 ごほっ、ごほ、っという、乾いた音を二回。大の男が、天幕の入口で、六つの娘の咳の真似をしていた。


 ヨハンナは真顔で聴いた。


「もう一度」


「ごほっ、ごほ」


「……間は? 二回で終わりますか、三回続きますか」


「三回だ。三回で、最後がちょっと長い」


「夜に出ますか、昼にも出ますか」


「夜だと書いてあった」


「じゃあ、たぶん喉です。胸じゃない」


 アルベルトが目を丸くした。


「分かるのか。真似で」


「分かります。胸の咳は、音の頭が濁ります。喉のは、乾きます」


「……あんたは、音で人が分かるんだな」


「夜だけです。昼は、みんな嘘つきなので」


 彼は声を上げて笑った。天幕の中の兵が二人、うるさいと文句を言った。


 それから、彼は毎晩来るようになった。

 用があるときもあれば、ないときもあった。ないときは、たいてい娘の話をした。


「リーナは、俺に似なくてよかった」


「顔がですか」


「顔も、頭もだ。俺は算術がまるで駄目でな」


「連隊長がですか」


「兵の名前は全部覚えているのに、数はさっぱりだ」


「名前を覚えているほうが、よほど大事です」


 ヨハンナは砂時計を伏せながら言った。


「数は、書いておけばいいので」


 冬の初め、リーナが辺境まで来た。義姉が王都を離れることになって、連れてくるしかなくなったのだという。


 六つの子どもは、父親に似ていなかった。痩せていて、目が大きくて、知らない女をじっと見る子だった。


「こんばんは」


「……こんばんは」


「咳、してみて」


「なんで」


「音を聴くから」


「へんなの」


 リーナは咳をした。三回。最後が少し長い。


「うん、喉ね。夜、蜂蜜を舐めなさい。それと、寝るとき枕を一つ増やすの」


「まくら、ひとつしかない」


「じゃあ、上着をたたんで敷きなさい。お父さんの上着でいいわ。大きいから」


 リーナが父親を見上げた。アルベルトは肩をすくめた。


「聞いたか。俺の上着だと」


「くさい?」


「くさいな」


「においがするほうがいいのよ」ヨハンナは言った。「知ってる匂いがすると、子どもの呼吸は落ち着くの」


 その夜、リーナは天幕の隅で眠った。父親の上着を枕にして、咳を二度だけして、あとは静かだった。


 ヨハンナは、その寝息を数えた。数える必要のない寝息だった。


 翌朝、リーナが天幕の入口で待っていた。


「ねえ」


「おはよう」


「あなた、よるにあるくの」


「歩くわよ」


「なんで」


「みんなが寝てるあいだに、痛い人を探すの」


「さがすの、たいへん?」


「たいへんよ。三十二人いるもの」


 リーナは指を折りはじめた。五本で足りなくなって、両手を広げて、それでも足りなくて、困った顔をした。


「たりない」


「そうなの。手が足りないのよ、この仕事」


「じゃあ、わたしのかす」


 ヨハンナは、その小さな手をしばらく見ていた。


「……じゃあ、借りようかな」


「かすけど、よるはねる」


「そこは譲らないのね」


 冬のあいだ、リーナは天幕によく来た。

 来て、邪魔をして、包帯を巻く真似をして、兵に菓子をもらって帰る。兵たちはその時間だけ、痛いと言うのをやめた。


「あの子が来ると、静かになるんだ」


 アルベルトが火の前で言った。


「痛みが減るわけじゃないんだがな」


「減りますよ」


「そうか?」


「気の逸れた痛みは、本当に少し減ります。……だから子どもは、戦場の薬なんです」


「薬にしては、うるさいがな」


「うるさい薬が、いちばん効きます」


 王都の噂が届きはじめたのは、その頃だ。


 傷病棟で死者が増えている、と。それも妙な増え方をしている、と。

 軽い傷の兵が死に、重い傷の兵が生きている、と。


「順が、逆なんだ」


 アルベルトが火に薪をくべながら言った。


「重い者は放っておいても保つ日がある。軽い者は、放っておくと二日で終わる。逆にやってるんだろう」


「重い者は、功があるからです」


「……ああ」


「功のある兵を先に治せば、戦果が上がるそうです」


 火が跳ねた。アルベルトはしばらく黙って、それから短く言った。


「その将軍を、俺は知っている」


 ハルトからの手紙が届いたのは、その五日後だった。


 軍書記の字は、定規で引いたようにまっすぐだ。行が一つも曲がっていない。


『レーベン。


 二月で、死者が二十九人増えた。前の二月は七人だった。


 私は写しを取り続けている。刻も、所見も、欄外も。


 それから、一つ知らせる。


 三の月九日、卯の刻。ミロ・ヴェスト、十四。死亡』


 ヨハンナは手紙を持ったまま、天幕の外へ出た。


 外は雪だった。音が全部吸われて、何も聞こえなかった。


 膝が先に落ちて、そのあとで、声が出た。


 どれくらいそうしていたのか分からない。気づくと、アルベルトが横にしゃがんでいた。何も言わずに、ただ、しゃがんでいた。


「……三の月九日です」


「ああ」


「わたし、その日はここで薪を割ってました」


「ああ」


「あの子、卯の刻に死んだんです。卯の刻って、いちばん見落とされる刻なんですよ。夜番が疲れて、朝の番はまだ来ていない」


 アルベルトは黙って聞いていた。


 この人は、慰めない人だった。そのことに、ヨハンナは救われた。


 手紙の続きには、もう一つ書いてあった。


『遺族が城門に集まっている。四十人近い。追い返せと軍が言ったが、追い返せなかった。


 私は写しを陛下に出した。刻も、所見も、欄外もだ。


 査問が開かれる。お前を呼ぶ。来なくてもいい。だが、来るなら、原本を持ってこい』


「行くのか」


「行きます」


「王都は、あんたを追い出した場所だ」


「ええ」


「それでも行くのか」


 ヨハンナは、雪を払って立ち上がった。


「あの帳を書いたのは、わたしです」


 それが理由の全部だった。復職でも、意趣返しでもない。二百十六人ぶんの名前を書いた手が、自分の手だというだけのことだ。


 アルベルトは立ち上がって、天幕の裏へ行き、馬を引いてきた。


「一頭でいいです」


「二頭ある」


「二十日はかかります」


「戻らなくていい」


 ヨハンナが顔を上げると、彼は少し慌てた。


「いや、そうじゃなくてだな。……急がなくていい、という意味だ。俺はここにいる。リーナもいる」


「下手ですね」


「下手だ」


 彼女は笑って、それから、初めて彼の顔をまっすぐ見た。


「行ってきます」




 王城の中庭に、椅子はなかった。


 石畳に女たちが立っている。前の列が母親で、後ろの列が妻だった。三十七人。この二月に、この病棟で死んだ者の家族が、それだけ集まった。


 数えたのはヨハンナではない。数えて名前の横に印をつけたのは、あの帳だ。


 朝の光がまだ低くて、女たちの影が石畳に長く伸びていた。風は、頬の高さだけ冷たい。


 軍書記ハルトが読みはじめた。


「三の月、七日。子の刻。腹の傷、膿——夜番の記に、『先に』。軍の采配に、『後に』。……八日、死亡」


「同日、丑の刻。左腕の傷、熱あり——夜番の記に、『先に』」


「同日、寅の刻。軍の采配に、『後に』」


 レオポルドが顎を上げた。


「順は私が決めた。功のある者を先に治すのは、当然だ」


「三の月、八日。丑の刻。右の腿、熱あり——夜番の記に、『先に』。軍の采配に、『後に』。……十日、死亡」


 名前が読まれるたび、石畳のどこかで衣擦れがした。

 女たちは声を上げなかった。うつむきもしなかった。ただ、自分の家の名前が来る前に、少し息を吸うのが分かった。


「三の月、九日。卯の刻。ミロ・ヴェスト、十四」


 書記の声が、少し止まった。


「——死亡」


 前の列で、灰色の肩掛けをした女が一歩出た。


 ミロの母だ。ヨハンナはこの人の顔を知っている。会ったことはない。宛名を三度書いただけだ。


「その子は」母親が言った。「先だったのですか。後だったのですか」


 誰も答えない。


「……後だ」レオポルドが言った。「腕の兵より、功が」


 母親はうなずいた。うなずいてから、崩れなかった。


 崩れるかわりに、後ろを向いた。


 三十七人が、順に後ろを向いていく。石畳を擦る音が、三十七回。


 その音が全部やんでから、将軍ははじめて周りを見た。

 背後の侍医が半歩離れていた。近衛が二人、目を伏せた。

 自分の言葉が誰にも受け取られなかったことに、彼はそのとき気づいた顔をした。


「ヨハンナ・レーベン」


 王が言った。


「なぜ、腕の兵を先にした」


 ヨハンナは帳を受け取って、三の月七日を開いた。


「熱の上がり方が、速すぎましたので」


「それだけか」


「痛みは、夜にだけ正直です」


 ヨハンナは言った。


「昼の兵は、痛くても大丈夫だと言います。夜は言えません。呼吸のほうが先に白状します。……わたしは、それを聴いて順を決めておりました」


「聴くだけか」


「聴くだけです。刻。脈。息。それだけで足ります」


 帳を閉じた。閉じる音が、思ったより大きかった。


「陛下。この帳の欄外に、印がございます。わたしが『後に』した兵の、二十二人ぶん」


「……何の印だ」


「生きて帰った日付です」


 中庭が静かになった。


 静かというのは正しくない。三十七人の息が止まり、近衛の鎧が鳴りやみ、風だけが枇杷の葉を動かしていた。止まった音のぶんだけ、石畳が広く感じられた。


 後ろの列で、松葉杖の音がした。


 人垣が割れて、片脚の兵が前に出てくる。三の月十一日、腹を裂かれて運ばれてきた男だ。


「おれは、後にされました」男が言った。「それで、生きてます」


 レオポルドが振り返った。


「……何を言っている」


「レーベン殿は、おれの寝台の前で三つ数えて『後だ』と書きました。腹が痛くて、おれは怒鳴った。先に診てくれと」


 男は、少し笑った。


「あの夜、先に診られていたら、おれは死んでました。腹を開くには血が足りなかったからです。一晩置いて、朝に開いて、それで足だけで済んだ」


 将軍は口を開いた。開いて、何も言わずに閉じた。


 彼が黙ったので、中庭には風の音だけが残った。


「閣下」


 ヨハンナは、初めて将軍のほうを向いた。


「『後に』が捨てる印だと、どこで読まれました」


「……女が、死ぬ順を決めていると聞いた」


「はい。決めておりました。救う順を」


 長広舌はしなかった。それ以上、言うことがなかったからだ。


「私は、戦果を上げた」


 将軍が言った。誰に向けたのでもない声だった。手袋の指が、自分の袖口を握っていた。握って、力が入りすぎて、震えていた。


「国境は押し返した。三年ぶりに、押し返したのだ」


「はい」


「それを、誰も——」


「閣下」


 ヨハンナは、帳を胸に抱えたまま言った。


「押し返した兵の名前を、何人ご存じですか」


 レオポルドの唇が動いた。動いて、止まった。


 中庭にいる三十七人は、全員その名前を知っている。

 知っているどころではない。産んで、育てて、送り出した名前だ。


「わたしの帳には、二百十六人ぶんの名前がございます。五年のあいだに、順をつけた兵の数です。汚い字ですが、全部書いてあります」


 王が手を上げた。近衛が二人、将軍の脇に寄った。


 レオポルドは抵抗しなかった。ただ、去り際に一度だけ振り返って、ミロの母を見た。母親は彼を見ていなかった。彼女はもう、後ろを向いたままだった。


 人がまばらになってから、灰色の肩掛けの女がヨハンナのところへ来た。


 何か言われる覚悟をした。責められる覚悟のほうが、たぶん多かった。


「あんたが、手紙を書いてくれた人かい」


「……はい」


「字が、汚いね」


「よく言われます」


 母親は、そこで初めて少し笑った。笑って、すぐに顔をこわばらせた。それから、懐から折り畳んだ紙を出した。


 三度書き直した、あの手紙だった。


「元気だ、って書いてあった」


「……はい」


「嘘だろう」


「嘘です」


「そうかい」


 母親は紙をたたみ直して、懐に戻した。


「嘘でよかった。本当のことを書かれてたら、あたしは読めなかったよ」


 それだけ言って、彼女は背を向けた。石畳を擦る音が、三十八回目に鳴った。




 その夜、ヨハンナは王立傷病棟の前を通った。


 通るつもりはなかった。宿へ帰る道が、そこしかなかっただけだ。


 窓に灯がひとつ動いていた。


 立ち止まって見上げると、寝台のあいだを歩いている影があった。手袋を外した手で、毛布に触れ、離れ、次の寝台へ行き、また戻る。


 三つ目の寝台の前で、影は止まった。

 止まったまま、動かなかった。しばらく待っても、動かなかった。


 順を決められないのだ。


 ヨハンナは、そのまま歩き出した。声はかけなかった。かけたところで、あの人が聴けるようになるわけではない。


 新しい夜番が置かれたのは三日後で、三日で辞めた。


 軍書記の卓に、帳が返ってきた。開くと、白紙だった。三日ぶん、一行も書かれていない。


 ハルトは羽根ペンを取って、名簿に横線を一本引いた。墨がにじんで、線が少し太くなった。


「これで、消える」


「早いですね」


「記録とは、そういうものだ」


 彼は写しの束をそろえて、それをヨハンナの前に置いた。


「傷病棟に戻れ、と陛下が仰せだ」


「……お断りします」


「そう言うと思った」


「夜が要るところに、行きます」


「辺境か」


「辺境です。あそこは、蝋燭が足りないので」


 ハルトはうなずいて、それきり何も言わなかった。

 感情のない声の人だが、ヨハンナは知っている。この人は、二月のあいだ、写しを取り続けていた。




 ゼーレンに戻ると、雪はもう溶けていた。


 天幕の前で、リーナが片足で跳ねていた。跳ねながら文句を言う。


「おそい! 二十日って言ったのに、二十六日!」


「数えてたの?」


「かぞえた」


「えらいわ。数えたものしか残らないもの」


 アルベルトは黙って荷を受け取り、それからヨハンナの顔を見た。


「痩せたな、ヨハンナ」


 名前で呼ばれたのは、初めてだった。


「……いま、名前で呼びました?」


「呼んだ」


「なぜ」


「レーベン殿では、遠い」


「馬なら三日です。行きは、職を探しながら十日かけましたけれど」


「泣いたか」


 ヨハンナは答えなかった。答えないのが答えだった。


 彼は、それ以上訊かなかった。かわりに、娘の肩を軽く押した。


「リーナ。この人に手を」


「なんで」


「なんででもだ」


 六つの子どもは、しばらく父親を見上げていた。それから、ヨハンナのほうへ手を伸ばした。


 小さい手だった。冷たかったので、ヨハンナは自分の手をこすり合わせてから、握った。


 手首に指が三本、当たっている。

 脈を取るときと同じ置き方だった。ヨハンナはそれに気づいて、指をずらして、握り直した。取る手ではなく、つなぐ手にした。


「まえに、かした手」リーナが言った。「かえさなくていいよ」


「……借りっぱなしでいいの」


「いいよ。まだ、たりないでしょ」


「あの」


「なんですか」


「……これは、そういう意味ですか」


「そういう意味だ」


「言葉では?」


「俺は、算術も口説き文句も駄目でな」


 ヨハンナは笑った。笑ってから、少し泣いて、それからもう一度笑った。


 その晩、天幕の隅に三人で寝た。


 リーナが真ん中で、両側に大人がいた。子どもは咳を二度して、あとは静かになった。


 ヨハンナは目を閉じて、音を聴いた。


 いちばん上に、アルベルトのいびき。その下に、リーナの寝息。いちばん下の層に——何もなかった。


 痛みを我慢している者の音が、この天幕には一つもない。


 こんな夜があるのかと思った。五年、聴いてきて、初めてだった。


 砂時計に手を伸ばして、伏せずに、そのまま置いた。

 今夜は、数えなくていい。



最後まで読んでいただきありがとうございました。




 「専門職ざまぁ」の一本です。今回は、現場で順番を決める仕事を選びました。看護、保育、介護、災害の現場——限られた手を、誰に先に回すかを決める人がいます。決めた人は、たいてい後から責められます。「あなたが選んだ」と言われてしまう。


 でも、順を決めることと、捨てることは違います。ヨハンナの「後に」は、朝まで保つと読んだ印でした。読めない人には、それが冷たさに見える。この距離が、この話の全部です。


 欄外の二十二人を、紙だけで終わらせたくありませんでした。だから最後に、松葉杖の男に前へ出てきてもらいました。記録は誰かが読むためにあり、読まれた記録は、生きている体になって戻ってくる。ハルトが二月のあいだ黙って写しを取り続けていたのも、そういう仕事です。


 痛みは、夜にだけ正直です。だから夜に歩く人がいる。その人の眠りが静かでありますように、と思いながら終わりを書きました。




◇◆◇ 「断罪令嬢は鮮やかに嗤う」シリーズ ◇◆◇




婚約破棄、追放、断罪。切り捨てられた令嬢の専門性が抜けた瞬間、領地は・王城は・国は、音を立てて綻んでいく。設定の切れ味と、因果がドミノ倒しに連鎖する痛快な逆転。一話完結・どこから読んでも爽快なざまぁ短編集です。




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