夜番が消えて、死者だけが増えた
痛みは、夜にだけ正直だ。
昼のあいだ、兵はみな「大丈夫だ」と言う。胸を張って、笑って、痛みを隠す。だが夜になると、隠す力から先に眠ってしまう。残るのは呼吸だけだ。呼吸は、痛いと言う。
だからヨハンナは夜に歩く。三十二の寝台を、一晩に四度。
靴の踵はわざと減らしてある。床を鳴らすと、眠りの浅い者が目を覚ますからだ。
「姉さん」
十四番の寝台から、小さい声がした。ミロだ。左腕を落とした兵で、まだ声変わりもしていない。
「起きてたの」
「起きてない」
「起きてるじゃない」
「今、起きた」
「嘘つき。……痛いの、我慢してた?」
「してない。……ちょっとだけ」
「ちょっとが一番厄介なんだよ」
ヨハンナは寝台の脇に膝をついて、ミロの右の手首に指を三本置いた。砂時計を伏せる。脈を数えるあいだ、唇だけが動く。
「速いね」
「走ってないよ」
「走ってなくて速いのが問題なの」
毛布をめくって、左の肩の包帯に鼻を近づける。匂いは変わっていない。熱は昨日より半分ぶん高い。上がり方が、少し速い。
「明日、いちばんに診てもらおうか」
「いいよ、べつに。他の人が先で」
「駄目」
「なんで」
「あんたの熱の上がり方が、気に入らないから」
ヨハンナは帳を開いて、名前の横に印をつけた。
——先に、と。
「姉さん」
「なに」
「手紙、また書いてくれる?」
「書くけど、母さんに何て言うの。今度は」
「……元気だって」
「嘘つきばっかりだね、あんた」
ミロが笑って、笑った拍子に息が浅くなった。ヨハンナは毛布を肩まで引き上げてやって、寝台を離れた。
十五番。十六番。十七番。呼吸を聴きながら歩く。
十九番で足を止めた。
いびきが、途中で止まる型のいびきだった。仰向けで寝ると喉が塞がる人の音だ。
「グレフ。横を向いて」
「……起きてる」
「起きてるなら横を向きなさいよ」
「向くと肩が痛い」
「肩は治る。息が止まるのは治らない」
男が寝返りを打った。いびきが、続く型に変わった。
二十三番は、静かすぎた。
静かすぎる呼吸は、深く眠っている音と、力が抜けている音の二つがある。似ているが、吸うほうの立ち上がりが違う。
ヨハンナは毛布の下に手を入れて、手首を探した。脈はあった。遅い。
「軍医どの」
小声で廊下へ呼びかける。当直の助手が眠そうに顔を出した。
「二十三番、いま診て」
「朝ではいけませんか」
「朝には、たぶん間に合わない」
助手は文句を言いながらも、灯を持って走った。
その男は、朝に生きていた。
ヨハンナは帳に一行足した。刻と、脈と、それだけだ。
三十二の寝台のうち、今夜、朝までに手が届かなくなるのは二人だ。二人とも、昼のあいだは「大丈夫だ」と言っていた。
その夜が、ヨハンナの最後の夜番になった。
そのときは、まだ十四番の寝台の毛布を直しながら、明日の朝の順を考えていた。
将軍レオポルド・フォン・ダールが傷病棟に来たのは、翌日の昼だった。
手袋を外さない人だった。病棟に入ってきて、まず窓を開けさせた。匂いが不快だったのだろう。
「順を、軍が決める」
「順、と申しますと」
「手当の順だ。今日から、功のある兵を先に治す」
ヨハンナは帳を胸に抱えたまま、少しのあいだ黙っていた。
「功、でございますか」
「そうだ。敵を三人斬った兵と、荷を運んだだけの兵を、同じ順に扱う理由がない」
「熱の上がり方は、功では変わりませんが」
「口の減らん女だ」
将軍は病棟をひとわたり見て、それからヨハンナのほうへ顎を向けた。
「聞いたぞ。お前は毎晩、誰を先にするか決めているそうだな」
「決めております」
「つまり、誰を後にするかも決めている」
「はい」
「女が死ぬ順を決めるなど、軍の恥だ」
病棟が静かになった。
寝台のいくつかで、毛布の動く音がした。何人かが起き上がろうとして、起き上がれずにいる音だった。
「閣下」
「なんだ」
「『後に』は、捨てる印ではございません。朝まで保つと読んだ印です」
「では、その読みが外れたらどうする」
「外れたことがございます。三年前に、二度」
ヨハンナは正直に答えた。そこを飾ると、あとの言葉が全部軽くなる。
「その二人は、亡くなりました。名前も、刻も、帳に書いてございます」
「……よく、平気で言えるな」
「平気ではございません。書いてあるだけです」
「では訊くが」将軍は手袋の指で寝台の枠をなぞった。「昨夜、お前が『後に』と書いた者は何人だ」
「四人でございます」
「その四人が今日死んだら、誰の責だ」
「わたしの責です」
即答した。考える必要のないことだった。
「では、閣下が順をお決めになった夜に誰かが死んだら、それは閣下の責でございますね」
病棟の空気が動いた。誰かが咳をして、咳のあとで、その咳を後悔したような沈黙が続いた。
「……口の減らん女だ、と言ったな」
「二度目でございます」
将軍は帳を見た。汚い字だ、と言いたげな目だった。実際、ヨハンナの字は汚い。軍書記のハルトに毎回叱られる。
「帳は置いていけ」
「これは、わたしの手です」
「軍の記録だ」
「では、写しをお取りください。原本は、わたしが持ちます」
誰かが止めるかと思ったが、誰も止めなかった。
「閣下。順は、慣例では夜番の所見に従うことに——」
軍医長が、そこまで言った。
「慣例か」
将軍は書き付けを一枚めくっただけだった。めくる音がして、それきり誰も何も言わなかった。
軍医長は目を伏せた。三年、この病棟で一緒に働いてきた人だ。目を伏せるのが精一杯なのだろうと、ヨハンナは思った。
罪状はなかった。査問もなかった。ただ、明日から来なくていいと言われただけだ。
荷物をまとめていると、ハルトが来た。
「レーベン」
「ハルトさま」
「写しを、取っておく」
「ええ、どうぞ」
「全部だ。欄外もだ」
ヨハンナは顔を上げた。
軍書記は、四十を過ぎて痩せた男で、感情のない声で書類を読む役目の人だった。その人が、少し早口だった。
「お前の字は読みにくい。私が読める形に写しておく」
「……ありがとうございます」
「礼はいらん。私は記録係だ。記録は、あとで誰かが読む」
病棟を出るとき、ミロの寝台を見た。
眠っていた。呼吸は、昨日より少しよかった。
起こさなかった。起こして何を言えばいいのか、思いつかなかったからだ。
夜番の仕事を、人に説明したことがない。
説明すると、たいてい「ようするに見回りですね」と言われる。それで終わってしまう。
夜、廊下の端で息を止めて立つ。そうすると病棟の音が層になって聞こえてくる。
いちばん上に、いびきと寝返り。その下に、浅い呼吸。いちばん下に、痛みを我慢している者の、歯の鳴る音。
三十二人の音の中から、いちばん下の層だけを拾う。それが仕事だ。
二年目の冬に、それを軍医長に説明しようとしたことがある。
「つまり、耳がいいということかね」
「耳は普通です。数えているだけです」
「何を」
「息の、吸うほうと吐くほうの長さを」
軍医長は分からないという顔をした。それきり、誰にも説明しなくなった。
熱は、高さより速さを見る。
夜の初めに触って熱く、明け方にもっと熱いなら、それは追いつける。夜の初めはぬるくて、二度目の巡回で急に上がっているなら、朝には手が届かない。
数字では書けない。だから帳には所見だけ書いて、印をつける。先に。後に。
二十七番の男は、一度目の巡回ではぬるかった。
額に手の甲を当てて、三つ数えて、離す。それだけだ。何ともない、と本人も言った。
「痛くないんだよ、ほんとに」
「うん。じゃあ、また来る」
二度目に来たとき、同じ額が熱かった。
一度目とのあいだは、二刻ない。
「起きて」
「なんだよ、さっき来たろ」
「さっきと違うから来たの」
ヨハンナは帳を開いて、二十七番の横に印をつけた。先に、と。
熱の高さは、朝まで待てば下がることもある。上がる速さは、待っても遅くならない。
その男は、朝の手当で膿を出して助かった。三日後には自分で座って、粥を食べていた。
昼の兵は、必ず嘘をつく。
「レーベン殿、俺はいい。隣を先に見てくれ」
「隣は昨日診た。あんたは三日診てない」
「たいしたことない」
「たいしたことないの人は、たいてい三日後に死ぬんだよ」
「言い方!」
「事実だもの」
「あんた、嫁に行けないぞ」
「行かないよ、夜働いてるんだから」
そう言い合った兵が、その夜に浅い呼吸をしていた。昼のあいだ、彼は一度も痛いと言わなかった。夜になって、隠す力から先に眠った。
寝台の脇に膝をついて、脈を三つ数えた。速い。皮膚が湿っている。
「起きて」
「……ん」
「起きなくていい。息だけして」
「痛く、ない」
「うん。知ってる。明日いちばんに診てもらうから、朝まで生きてて」
「へんな、言い方だな」
「わたし、言い方が下手なの」
朝いちばんに診てもらって、彼は生きた。今は右足を引きずって、故郷で麦を作っている。
外れたことも、ある。
三年前の夏に二度。どちらも「後に」と書いた兵だった。
一人は明け方に急に落ちた。もう一人は、朝の巡回のときにはもう冷たかった。
ヨハンナは、その二人の名前を暗記している。帳を見なくても言える。
あの夏から、巡回は三度が四度になった。誰にも言わずに一度増やした。増やした一度は、給金には入っていない。
ミロの母への手紙を代筆したのは、追放される五日前だ。
「なんて書く?」
「元気って」
「それはさっき聞いた。他には」
「……えっと。左は、なくなったけど、右で字は書けるって」
「書けてないでしょ。わたしが書いてるでしょ」
「言わなきゃわかんないよ」
「ばれるよ。母親って、そういうのばれるからね」
ヨハンナは笑って、それでも、そのとおりに書いた。
字が汚いので、清書に三度書き直した。宛名だけは丁寧に書いた。
——ヴェスト村、ミロの母上さま。
その宛名を、ヨハンナは覚えている。
覚えているというより、指が覚えている。
辺境ゼーレンの野戦病棟は、天幕だった。
王都を出て十日で職を見つけた。夜番を雇う場所は、探せばある。人は誰も、夜に人が死ぬことを止められないからだ。
連隊長のアルベルト・キーンが天幕に顔を出したのは、着いて三日目の夜だった。
「レーベン殿」
「連隊長どの。どこか痛みますか」
「いや、俺じゃない」
大男が、天幕の入口で言いにくそうに立っていた。左の眉に古い傷がある。
「娘なんだ」
「娘さん」
「六つで、王都にいる。手紙に、咳が出ると書いてあって」
「お医者に」
「診せた。心配ないと言われた。……だが、こういう咳なんだ」
彼はそこで、咳の真似をした。
ごほっ、ごほ、っという、乾いた音を二回。大の男が、天幕の入口で、六つの娘の咳の真似をしていた。
ヨハンナは真顔で聴いた。
「もう一度」
「ごほっ、ごほ」
「……間は? 二回で終わりますか、三回続きますか」
「三回だ。三回で、最後がちょっと長い」
「夜に出ますか、昼にも出ますか」
「夜だと書いてあった」
「じゃあ、たぶん喉です。胸じゃない」
アルベルトが目を丸くした。
「分かるのか。真似で」
「分かります。胸の咳は、音の頭が濁ります。喉のは、乾きます」
「……あんたは、音で人が分かるんだな」
「夜だけです。昼は、みんな嘘つきなので」
彼は声を上げて笑った。天幕の中の兵が二人、うるさいと文句を言った。
それから、彼は毎晩来るようになった。
用があるときもあれば、ないときもあった。ないときは、たいてい娘の話をした。
「リーナは、俺に似なくてよかった」
「顔がですか」
「顔も、頭もだ。俺は算術がまるで駄目でな」
「連隊長がですか」
「兵の名前は全部覚えているのに、数はさっぱりだ」
「名前を覚えているほうが、よほど大事です」
ヨハンナは砂時計を伏せながら言った。
「数は、書いておけばいいので」
冬の初め、リーナが辺境まで来た。義姉が王都を離れることになって、連れてくるしかなくなったのだという。
六つの子どもは、父親に似ていなかった。痩せていて、目が大きくて、知らない女をじっと見る子だった。
「こんばんは」
「……こんばんは」
「咳、してみて」
「なんで」
「音を聴くから」
「へんなの」
リーナは咳をした。三回。最後が少し長い。
「うん、喉ね。夜、蜂蜜を舐めなさい。それと、寝るとき枕を一つ増やすの」
「まくら、ひとつしかない」
「じゃあ、上着をたたんで敷きなさい。お父さんの上着でいいわ。大きいから」
リーナが父親を見上げた。アルベルトは肩をすくめた。
「聞いたか。俺の上着だと」
「くさい?」
「くさいな」
「においがするほうがいいのよ」ヨハンナは言った。「知ってる匂いがすると、子どもの呼吸は落ち着くの」
その夜、リーナは天幕の隅で眠った。父親の上着を枕にして、咳を二度だけして、あとは静かだった。
ヨハンナは、その寝息を数えた。数える必要のない寝息だった。
翌朝、リーナが天幕の入口で待っていた。
「ねえ」
「おはよう」
「あなた、よるにあるくの」
「歩くわよ」
「なんで」
「みんなが寝てるあいだに、痛い人を探すの」
「さがすの、たいへん?」
「たいへんよ。三十二人いるもの」
リーナは指を折りはじめた。五本で足りなくなって、両手を広げて、それでも足りなくて、困った顔をした。
「たりない」
「そうなの。手が足りないのよ、この仕事」
「じゃあ、わたしのかす」
ヨハンナは、その小さな手をしばらく見ていた。
「……じゃあ、借りようかな」
「かすけど、よるはねる」
「そこは譲らないのね」
冬のあいだ、リーナは天幕によく来た。
来て、邪魔をして、包帯を巻く真似をして、兵に菓子をもらって帰る。兵たちはその時間だけ、痛いと言うのをやめた。
「あの子が来ると、静かになるんだ」
アルベルトが火の前で言った。
「痛みが減るわけじゃないんだがな」
「減りますよ」
「そうか?」
「気の逸れた痛みは、本当に少し減ります。……だから子どもは、戦場の薬なんです」
「薬にしては、うるさいがな」
「うるさい薬が、いちばん効きます」
王都の噂が届きはじめたのは、その頃だ。
傷病棟で死者が増えている、と。それも妙な増え方をしている、と。
軽い傷の兵が死に、重い傷の兵が生きている、と。
「順が、逆なんだ」
アルベルトが火に薪をくべながら言った。
「重い者は放っておいても保つ日がある。軽い者は、放っておくと二日で終わる。逆にやってるんだろう」
「重い者は、功があるからです」
「……ああ」
「功のある兵を先に治せば、戦果が上がるそうです」
火が跳ねた。アルベルトはしばらく黙って、それから短く言った。
「その将軍を、俺は知っている」
ハルトからの手紙が届いたのは、その五日後だった。
軍書記の字は、定規で引いたようにまっすぐだ。行が一つも曲がっていない。
『レーベン。
二月で、死者が二十九人増えた。前の二月は七人だった。
私は写しを取り続けている。刻も、所見も、欄外も。
それから、一つ知らせる。
三の月九日、卯の刻。ミロ・ヴェスト、十四。死亡』
ヨハンナは手紙を持ったまま、天幕の外へ出た。
外は雪だった。音が全部吸われて、何も聞こえなかった。
膝が先に落ちて、そのあとで、声が出た。
どれくらいそうしていたのか分からない。気づくと、アルベルトが横にしゃがんでいた。何も言わずに、ただ、しゃがんでいた。
「……三の月九日です」
「ああ」
「わたし、その日はここで薪を割ってました」
「ああ」
「あの子、卯の刻に死んだんです。卯の刻って、いちばん見落とされる刻なんですよ。夜番が疲れて、朝の番はまだ来ていない」
アルベルトは黙って聞いていた。
この人は、慰めない人だった。そのことに、ヨハンナは救われた。
手紙の続きには、もう一つ書いてあった。
『遺族が城門に集まっている。四十人近い。追い返せと軍が言ったが、追い返せなかった。
私は写しを陛下に出した。刻も、所見も、欄外もだ。
査問が開かれる。お前を呼ぶ。来なくてもいい。だが、来るなら、原本を持ってこい』
「行くのか」
「行きます」
「王都は、あんたを追い出した場所だ」
「ええ」
「それでも行くのか」
ヨハンナは、雪を払って立ち上がった。
「あの帳を書いたのは、わたしです」
それが理由の全部だった。復職でも、意趣返しでもない。二百十六人ぶんの名前を書いた手が、自分の手だというだけのことだ。
アルベルトは立ち上がって、天幕の裏へ行き、馬を引いてきた。
「一頭でいいです」
「二頭ある」
「二十日はかかります」
「戻らなくていい」
ヨハンナが顔を上げると、彼は少し慌てた。
「いや、そうじゃなくてだな。……急がなくていい、という意味だ。俺はここにいる。リーナもいる」
「下手ですね」
「下手だ」
彼女は笑って、それから、初めて彼の顔をまっすぐ見た。
「行ってきます」
王城の中庭に、椅子はなかった。
石畳に女たちが立っている。前の列が母親で、後ろの列が妻だった。三十七人。この二月に、この病棟で死んだ者の家族が、それだけ集まった。
数えたのはヨハンナではない。数えて名前の横に印をつけたのは、あの帳だ。
朝の光がまだ低くて、女たちの影が石畳に長く伸びていた。風は、頬の高さだけ冷たい。
軍書記ハルトが読みはじめた。
「三の月、七日。子の刻。腹の傷、膿——夜番の記に、『先に』。軍の采配に、『後に』。……八日、死亡」
「同日、丑の刻。左腕の傷、熱あり——夜番の記に、『先に』」
「同日、寅の刻。軍の采配に、『後に』」
レオポルドが顎を上げた。
「順は私が決めた。功のある者を先に治すのは、当然だ」
「三の月、八日。丑の刻。右の腿、熱あり——夜番の記に、『先に』。軍の采配に、『後に』。……十日、死亡」
名前が読まれるたび、石畳のどこかで衣擦れがした。
女たちは声を上げなかった。うつむきもしなかった。ただ、自分の家の名前が来る前に、少し息を吸うのが分かった。
「三の月、九日。卯の刻。ミロ・ヴェスト、十四」
書記の声が、少し止まった。
「——死亡」
前の列で、灰色の肩掛けをした女が一歩出た。
ミロの母だ。ヨハンナはこの人の顔を知っている。会ったことはない。宛名を三度書いただけだ。
「その子は」母親が言った。「先だったのですか。後だったのですか」
誰も答えない。
「……後だ」レオポルドが言った。「腕の兵より、功が」
母親はうなずいた。うなずいてから、崩れなかった。
崩れるかわりに、後ろを向いた。
三十七人が、順に後ろを向いていく。石畳を擦る音が、三十七回。
その音が全部やんでから、将軍ははじめて周りを見た。
背後の侍医が半歩離れていた。近衛が二人、目を伏せた。
自分の言葉が誰にも受け取られなかったことに、彼はそのとき気づいた顔をした。
「ヨハンナ・レーベン」
王が言った。
「なぜ、腕の兵を先にした」
ヨハンナは帳を受け取って、三の月七日を開いた。
「熱の上がり方が、速すぎましたので」
「それだけか」
「痛みは、夜にだけ正直です」
ヨハンナは言った。
「昼の兵は、痛くても大丈夫だと言います。夜は言えません。呼吸のほうが先に白状します。……わたしは、それを聴いて順を決めておりました」
「聴くだけか」
「聴くだけです。刻。脈。息。それだけで足ります」
帳を閉じた。閉じる音が、思ったより大きかった。
「陛下。この帳の欄外に、印がございます。わたしが『後に』した兵の、二十二人ぶん」
「……何の印だ」
「生きて帰った日付です」
中庭が静かになった。
静かというのは正しくない。三十七人の息が止まり、近衛の鎧が鳴りやみ、風だけが枇杷の葉を動かしていた。止まった音のぶんだけ、石畳が広く感じられた。
後ろの列で、松葉杖の音がした。
人垣が割れて、片脚の兵が前に出てくる。三の月十一日、腹を裂かれて運ばれてきた男だ。
「おれは、後にされました」男が言った。「それで、生きてます」
レオポルドが振り返った。
「……何を言っている」
「レーベン殿は、おれの寝台の前で三つ数えて『後だ』と書きました。腹が痛くて、おれは怒鳴った。先に診てくれと」
男は、少し笑った。
「あの夜、先に診られていたら、おれは死んでました。腹を開くには血が足りなかったからです。一晩置いて、朝に開いて、それで足だけで済んだ」
将軍は口を開いた。開いて、何も言わずに閉じた。
彼が黙ったので、中庭には風の音だけが残った。
「閣下」
ヨハンナは、初めて将軍のほうを向いた。
「『後に』が捨てる印だと、どこで読まれました」
「……女が、死ぬ順を決めていると聞いた」
「はい。決めておりました。救う順を」
長広舌はしなかった。それ以上、言うことがなかったからだ。
「私は、戦果を上げた」
将軍が言った。誰に向けたのでもない声だった。手袋の指が、自分の袖口を握っていた。握って、力が入りすぎて、震えていた。
「国境は押し返した。三年ぶりに、押し返したのだ」
「はい」
「それを、誰も——」
「閣下」
ヨハンナは、帳を胸に抱えたまま言った。
「押し返した兵の名前を、何人ご存じですか」
レオポルドの唇が動いた。動いて、止まった。
中庭にいる三十七人は、全員その名前を知っている。
知っているどころではない。産んで、育てて、送り出した名前だ。
「わたしの帳には、二百十六人ぶんの名前がございます。五年のあいだに、順をつけた兵の数です。汚い字ですが、全部書いてあります」
王が手を上げた。近衛が二人、将軍の脇に寄った。
レオポルドは抵抗しなかった。ただ、去り際に一度だけ振り返って、ミロの母を見た。母親は彼を見ていなかった。彼女はもう、後ろを向いたままだった。
人がまばらになってから、灰色の肩掛けの女がヨハンナのところへ来た。
何か言われる覚悟をした。責められる覚悟のほうが、たぶん多かった。
「あんたが、手紙を書いてくれた人かい」
「……はい」
「字が、汚いね」
「よく言われます」
母親は、そこで初めて少し笑った。笑って、すぐに顔をこわばらせた。それから、懐から折り畳んだ紙を出した。
三度書き直した、あの手紙だった。
「元気だ、って書いてあった」
「……はい」
「嘘だろう」
「嘘です」
「そうかい」
母親は紙をたたみ直して、懐に戻した。
「嘘でよかった。本当のことを書かれてたら、あたしは読めなかったよ」
それだけ言って、彼女は背を向けた。石畳を擦る音が、三十八回目に鳴った。
その夜、ヨハンナは王立傷病棟の前を通った。
通るつもりはなかった。宿へ帰る道が、そこしかなかっただけだ。
窓に灯がひとつ動いていた。
立ち止まって見上げると、寝台のあいだを歩いている影があった。手袋を外した手で、毛布に触れ、離れ、次の寝台へ行き、また戻る。
三つ目の寝台の前で、影は止まった。
止まったまま、動かなかった。しばらく待っても、動かなかった。
順を決められないのだ。
ヨハンナは、そのまま歩き出した。声はかけなかった。かけたところで、あの人が聴けるようになるわけではない。
新しい夜番が置かれたのは三日後で、三日で辞めた。
軍書記の卓に、帳が返ってきた。開くと、白紙だった。三日ぶん、一行も書かれていない。
ハルトは羽根ペンを取って、名簿に横線を一本引いた。墨がにじんで、線が少し太くなった。
「これで、消える」
「早いですね」
「記録とは、そういうものだ」
彼は写しの束をそろえて、それをヨハンナの前に置いた。
「傷病棟に戻れ、と陛下が仰せだ」
「……お断りします」
「そう言うと思った」
「夜が要るところに、行きます」
「辺境か」
「辺境です。あそこは、蝋燭が足りないので」
ハルトはうなずいて、それきり何も言わなかった。
感情のない声の人だが、ヨハンナは知っている。この人は、二月のあいだ、写しを取り続けていた。
ゼーレンに戻ると、雪はもう溶けていた。
天幕の前で、リーナが片足で跳ねていた。跳ねながら文句を言う。
「おそい! 二十日って言ったのに、二十六日!」
「数えてたの?」
「かぞえた」
「えらいわ。数えたものしか残らないもの」
アルベルトは黙って荷を受け取り、それからヨハンナの顔を見た。
「痩せたな、ヨハンナ」
名前で呼ばれたのは、初めてだった。
「……いま、名前で呼びました?」
「呼んだ」
「なぜ」
「レーベン殿では、遠い」
「馬なら三日です。行きは、職を探しながら十日かけましたけれど」
「泣いたか」
ヨハンナは答えなかった。答えないのが答えだった。
彼は、それ以上訊かなかった。かわりに、娘の肩を軽く押した。
「リーナ。この人に手を」
「なんで」
「なんででもだ」
六つの子どもは、しばらく父親を見上げていた。それから、ヨハンナのほうへ手を伸ばした。
小さい手だった。冷たかったので、ヨハンナは自分の手をこすり合わせてから、握った。
手首に指が三本、当たっている。
脈を取るときと同じ置き方だった。ヨハンナはそれに気づいて、指をずらして、握り直した。取る手ではなく、つなぐ手にした。
「まえに、かした手」リーナが言った。「かえさなくていいよ」
「……借りっぱなしでいいの」
「いいよ。まだ、たりないでしょ」
「あの」
「なんですか」
「……これは、そういう意味ですか」
「そういう意味だ」
「言葉では?」
「俺は、算術も口説き文句も駄目でな」
ヨハンナは笑った。笑ってから、少し泣いて、それからもう一度笑った。
その晩、天幕の隅に三人で寝た。
リーナが真ん中で、両側に大人がいた。子どもは咳を二度して、あとは静かになった。
ヨハンナは目を閉じて、音を聴いた。
いちばん上に、アルベルトのいびき。その下に、リーナの寝息。いちばん下の層に——何もなかった。
痛みを我慢している者の音が、この天幕には一つもない。
こんな夜があるのかと思った。五年、聴いてきて、初めてだった。
砂時計に手を伸ばして、伏せずに、そのまま置いた。
今夜は、数えなくていい。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
「専門職ざまぁ」の一本です。今回は、現場で順番を決める仕事を選びました。看護、保育、介護、災害の現場——限られた手を、誰に先に回すかを決める人がいます。決めた人は、たいてい後から責められます。「あなたが選んだ」と言われてしまう。
でも、順を決めることと、捨てることは違います。ヨハンナの「後に」は、朝まで保つと読んだ印でした。読めない人には、それが冷たさに見える。この距離が、この話の全部です。
欄外の二十二人を、紙だけで終わらせたくありませんでした。だから最後に、松葉杖の男に前へ出てきてもらいました。記録は誰かが読むためにあり、読まれた記録は、生きている体になって戻ってくる。ハルトが二月のあいだ黙って写しを取り続けていたのも、そういう仕事です。
痛みは、夜にだけ正直です。だから夜に歩く人がいる。その人の眠りが静かでありますように、と思いながら終わりを書きました。
◇◆◇ 「断罪令嬢は鮮やかに嗤う」シリーズ ◇◆◇
婚約破棄、追放、断罪。切り捨てられた令嬢の専門性が抜けた瞬間、領地は・王城は・国は、音を立てて綻んでいく。設定の切れ味と、因果がドミノ倒しに連鎖する痛快な逆転。一話完結・どこから読んでも爽快なざまぁ短編集です。
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