第1話:十年目の来訪者
1:道化の仮面
六月の夕方は、やたらと蒸し暑い。
蛍光灯が等間隔に並んだ事務所の天井を、北川仁はぼんやりと眺めていた。三十歳。独身。貯金は自分でも恥ずかしいくらいの額。趣味は……あったはずだが、最近は思い出せない。
デスクの上には、定時退社の十分前に上司の石崎課長から押しつけられた書類の山がある。
「北川くーん、悪いんだけどこの月次データの入力、今日中にやっといてくれる?」
石崎課長は五十代で、笑顔で人を踏みにじることが得意な、どこの職場にも必ず一人はいる厄介者だ。
仁は一秒だけ目を閉じた。
その一秒で、この状況を整理した。
断れば角が立つ。正論をぶつければ嫌われる。有能なふりをすれば、次から次へと仕事が降ってくる。
だから——。
「いやぁ、課長! 僕みたいな無能に任せちゃって大丈夫ですかね? なんか去年、うっかりフォルダごとデータ消したこともありますし、明日の朝に出社したら『北川がまたやらかした』ってことになりかねませんよ?」
仁はヘラヘラと笑いながら、後頭部をぼりぼりと掻いた。
「大げさだなぁ、君は」
石崎課長は鼻を鳴らした。
「残業代、ちゃんとつけといてよ。じゃ、よろしく」
課長は颯爽と席を立ち、ジャケットを小脇に抱えて帰っていった。
仁は笑顔のまま、その背中を見送った。
そのまま、コーヒーカップを手に取り、カップの中の冷えきったコーヒーをひと口飲んだ。
そして誰もいなくなったオフィスで、ため息を一つ、床に落とした。
(……この社会は、優秀な奴から順番に潰される)
そう思いながらも、キーボードを叩く手を動かし始める。
(だから俺は、無能でいる。お調子者の、つかみどころのない、ちょっと抜けた三十歳でいる。それが、俺の唯一の処世術だ。槍玉にも上がらず、誰かの盾にもならず、風景みたいなモブとして生きていく。それが、十年前に俺が選んだ生き方だ)
窓の外に広がる地方都市の夜景は、相変わらず地味だ。コンビニと家電量販店のネオンが光っている。東京とも大阪とも違う。何かになりそこねた街の、何かになりそこねた夜景。
仁はそれをちらりと眺めて、また画面に視線を戻した。
2:アパートの怪異
残業を終えたのは、午後8時を回ったころだった。
自転車で10分の1Kアパート、「エステートパレス北条」——どこがエステートで、どこがパレスなのかは、入居してから三年経った今もよくわからない——に帰り着いたとき、仁はいつものように鍵穴に鍵を差し込んだ。
施錠されている。異常なし。
ドアを開ける。
異常あり。
「あ、お帰り」
声がした。
見知らぬ女の子の声が。
201号室の座椅子——三年前にリサイクルショップで1800円で買った、フローリングにかなり似合っていない座椅子——に、見知らぬ女の子が座っていた。
俺の部屋のテレビで、俺が契約していない動画配信サービスのバラエティを見ながら。
制服姿で。
仁は呆然と、その光景を見た。
靴を脱いで玄関から上がり、もう一度目を向けた。
「……不法侵入、にしては」
仁はゆっくりと口を開いた。
「鍵は閉まってたし。ていうか何ですか、その格好。コスプレ?」
女の子は座椅子の上でくるりと振り向いた。
年の頃は十六か十七か、そのあたりだろう。肩まである黒髪、大きく黒い瞳、整った顔立ち。制服は、この街の高校のものではなかった。紺のブレザー、白いシャツ、プリーツスカート。昔のデザインのような気もする。
「コスプレじゃなくてこれ、私の制服だよ」
女の子は服の袖を摘んで、少し持ち上げながら言った。
「あと」
彼女は続けた。
「私もう死んでるから、ドアとか関係ないんだよね。見る?」
立ち上がった彼女は、そのまま当たり前のように壁に向かって歩いた。
壁を、すり抜けた。
廊下に出て。
また戻ってきた。
「ほら」
仁はしばらく、動かなかった。
考えた。
考えた結果。
「……ハァ。ついに残業のし過ぎで幻覚が見えるようになったか」
仁はベッドに横になった。
「寝よ」
「冷たいなー!」
女の子の声が上がる。
「もうちょっと驚いてよ! 幽霊だよ? 幽霊! マジもんの!」
「知ってる知ってる」
「マジ? 私のこと、知ってるの!?」
「いや、知らないけど」
仁はふかふかの布団に潜り込んだ。
「幻覚だから、どっちでもいいかと」
バン、という音と共に頭の上で何かが落ちた。女の子が本を床に叩きつけた音だ。本棚の本が使われたらしい。
「むかつく! 起きて! 私の話聞いて!」
「うるさい幻覚だな」
「幻覚じゃねぇし!」
仁は布団の中で目を閉じた。
本当に幻覚かもしれない。残業続きで頭がおかしくなったのかもしれない。
ただ。
その幻覚は——どういうわけか——ずっとそこにいた。
仁が根負けして布団から這い出たのは、数分後のことだった。
「で……」
仁は枕を抱えて座り直した。
「何なの、君は」
女の子はすでに座椅子に戻って、テレビを眺めていた。図々しさだけは幽霊とは思えない。
「私も詳しくはわかんないんだよね」
彼女はあっさりと言った。
「死んでて、ここに出てくることになって、っていう感じで。記憶がいろいろぼやけてる」
「なんで死んだのかも分からないってこと?」
「うん。でも、なんかやり残したことがあって、それを片付けないと向こうに行けない気がするんだよね」
「成仏できない、みたいな」
「そう、そんな感じ」
この会話は、普通じゃない。だが、壁をすり抜けた。それは見た。とりあえず、現実として受け入れる他ない。
「名前は?」
「あー……」
女の子は少し考えるような顔をした。
「それも、なんかぼんやりしてる。なんだったっけ。なんか、あった気がするんだけど」
「自分の名前も忘れてるの?」
「記憶喪失ってやつかな。死んでるし、そういうこともあるんじゃない?」
圧倒的に能天気だった。
仁はもう一度ため息をついた。
「……とりあえず、座ってて。俺、晩飯食うんで」
コンビニのレジ袋から、買ってきた弁当を取り出す。
「うぇ〜、これ晩飯なの。ちゃんとしたご飯食べて」
幽霊に食生活を心配されたのは、生まれて初めてだった。
3:剥がされる仮面
女の子がつけっぱなしにしていたテレビは、深夜のニュース特番に切り替わっていた。
仁はコンビニで買ってきた弁当を黙々と食べながら、そのテレビを見ていた。
女の子は相変わらず座椅子に陣取り、弁当のから揚げを一個よこせと要求してきたので(幽霊が食べ物を要求することに対する疑問は、すでに保留にした)、仁は無言で差し出した。
テレビの画面の中で、スーツ姿のアナウンサーが話していた。
『本日で、発生からちょうど十年となります。未解決のまま今日を迎えた——』
リモコンに手を伸ばしかけた仁の動きが、止まった。
『——いわゆる「○○市女子高生失踪事件」。当時十七歳だった少女が忽然と姿を消し、その後も行方不明のままとなっているこの事件を、今夜は改めて振り返ります』
画面に、当時のニュース映像が流れた。警察が山道を捜索する映像。インタビューを受ける地元住民。そして——
一枚の写真。
女の子の写真。制服姿の、笑顔の写真。
下に、テロップで名前が表示されていた。
「行方不明の沢田茜さん 当時十七歳」
仁の手が止まった。
弁当を持っていた手が。
画面の中の写真と、目の前の座椅子に座っている女の子の顔が——
完全に、一致していた。
血の気が引いていくのが、自分でわかった。
「あ」
隣で、女の子が声を上げた。
画面を指差しながら、どこか他人事のように。
「これ、私だ」
仁は動けなかった。
「そっか、私、十年前に死んだんだっけ」
彼女はあっさりとした口調で言った。
「うわー、でも写真写り悪〜! こんな顔してたっけ私。もっとかわいいと思ってたのに」
「……」
「ねぇ、なんで黙ってんの」
仁は、なんとか声を絞り出した。
「いや……びっくりして」
「そりゃ、びっくりするよね」
彼女——沢田茜は、けろっとした顔で続けた。
「でも、これで確定したじゃん。私のやり残したこと。犯人を見つけること!」
テレビの中でアナウンサーが続ける。
『当時の捜査では、茜さんが何者かに車で連れ去られたとみられており、目撃情報をもとに黒いセダンが捜索されましたが——』
「自分がどうなったか、全然覚えてないんだよね」
茜は言った。
「なんか、夜に歩いてたら、気づいたら死んでた、みたいな感じで」
仁の指先が冷えていく。
「でも、犯人を見つけないと成仏できない気がする。なんとなくだけど、そんな気がすごくするんだよね」
茜は仁の方を向いて、にっと笑った。
「ね、一緒に探してよ。犯人!」
その瞬間。
仁の視界の端が、歪んだ。
4:封じられた記憶
フラッシュバック、という言葉がある。PTSDという言葉も知っている。だがそのどちらの言葉も、今この瞬間に仁の脳内を席巻していくあの夜の感触を、正確には言い表せなかった。
豪雨。
ワイパーが追いつかないほどの、六月の深夜の豪雨。
ヘッドライトが照らす、濡れた山道のアスファルト。
バックミラーに映る、追ってくるヘッドライト。
環境が、状況が、全てが最悪だった。
そして、助手席から聞こえた声。
あの声。
悲鳴とも、泣き声ともつかない、あの声。
スリップ。
金属が歪む音。
崖に向かって転落していく横Gの感覚。
ガガガガッ——と、車体が地面を打つ凄まじい衝撃と金属音が脳内に響いて、仁は奥歯を噛み締めた。
(知っている)
吐き気がする。
(俺は知っている)
胃の底から何かがせり上がってくるような感覚を、仁は十年間、ずっと飲み込み続けてきた。
(誘拐犯から、お前を助け出そうとしたのは俺だ。雨の山道を必死に飛ばして、犯人を撒いたのも俺だ。でも——結局、俺のハンドル操作のせいで車は滑って、崖に落ちて——)
濁流だった。崖下を流れる、増水した川の激流。車ごと飲み込まれ、必死に這い上がった俺の隣に、もうお前の姿はなかった。どこまで流されたのか、遺体すら見つかっていない。
なのに、世間があの日からずっと騒ぎ続けているのは『謎の少女誘拐監禁事件』だ。翌朝、どこかの誰かが「黒いセダンに押し込まれる彼女を見た」なんて偽の通報をしたせいで、警察は今も、全く見当違いの場所を捜索している。
(本当のことを言えば、あの川が捜索されて、お前が見つかるかもしれない。でも、言えば俺も誘拐犯の仲間か、あるいは殺人犯にされる。それが怖くて、俺は十年間黙り続けた)
仁は目を閉じた。
(お前を死なせたのも、お前を十年間誰も見つけられない場所に置き去りにしているのも、全部——俺だ)
十年間。
ずっとそう思いながら、ずっとその重さを抱えながら、ずっとバカのフリをして、ヘラヘラ笑って、無害なモブとして生きてきた。
目の前で俺を見つめながら笑っているあの女の子を、自分が殺してしまったと。
そう思いながら、十年間生きてきた。
「ねぇ、どうしたの? 顔色悪いよ」
茜の声で、仁は現実に引き戻された。
胃の中のものを吐き出したい気持ちを、ぐっと抑える。
「……なんでもない」
仁は笑った。
いつも通りの、貼り付けた笑顔を。
「ちょっとびっくりしただけ。目の前にいる子がテレビに出てきたら、そりゃ誰だってビビるよ」
「だよね」
茜はあっけらかんと頷いた。
「でも大丈夫? 本当に顔青いけど」
「大丈夫大丈夫」
仁は笑顔のまま、コップに水を注いだ。
「それより、犯人探しの話してたよね。具体的に何か手がかりとかあるの?」
5:最悪の隠蔽工作
茜はスマホ——どこから持ってきたのかは聞かない方がいい気がした——をいじりながら、ネットの掲示板を読み上げ始めた。
「えーとね、ネットだとさ」
画面を指でスクロールしながら。
「犯人は隣町のヤクザが関係してたって書いてあるよ。黒いセダンで私を連れ去ったって。このスレ、すごいよ。写真とか証拠とか、いろいろ載ってる」
「へぇ〜」
「隣町ってどこだっけ。地元の地理、よく覚えてないんだけど」
「S市のほうかな」
仁は水を飲んだ。
「ヤクザの黒いセダンね」
「探そうよ! ね!」
茜はぱっと顔を輝かせた。
その笑顔を正面から見て、仁の胸の中で何かが軋んだ。
この笑顔を、自分は知っている。
あの夜、雨の中で彼女が助手席に乗り込んできたとき——まだ状況が飲み込めていない、でも助かったとほっとした、あの笑顔を。
(バレたら、どうなる)
仁は考えた。
(「あの夜の運転手は俺だ」と言ったら、どうなる。俺のせいでお前は死んだ、と言ったら)
彼女はどんな顔をするだろう。
また傷つく。
あの笑顔が消える。
それだけは、したくなかった。
そして、もう一つ。
(犯人は、まだ捕まっていない)
テレビの中で確かにそう言っていた。未解決事件。捜査継続中。真犯人は、まだどこかにいる。
(でも俺が「あの夜のことを知っている」と言えば、芋づる式に全部バレる。今の平穏な生活も、なけなしの匿名性も、全部終わる)
道化の仮面を、全力でかぶり直す。
それしか、なかった。
「よし」
仁は立ち上がり、ニカっと笑った。道化師の、噓くさい笑顔で。
「わかった。明日から、そのヤクザの黒いセダンとやらを探してみようか」
「本当に!?」
茜の目が輝いた。
「実はさ、俺、未解決事件の考察とか大好きなんだよね!」
大嘘だ。
「一緒に犯人探すの、ちょっと楽しそうじゃん!」
大大嘘だ。
茜は「やった! よろしくね、相棒!」と声を上げ、拳を掲げてはしゃいでいる。
仁はその隣で、背中に滲む冷や汗をぐっと意識の外に追いやりながら、引きつった笑顔を貼り付けたまま内心で叫んでいた。
(どうしてこうなった)
仁は心の中で、自分の額に手を当てた。
(彼女の記憶が戻るのが先か、俺が嘘の手がかりで上手く煙に巻くのが先か)
目の前に座っているのは、十年前に自分が——正確には、自分の過失のせいで——死なせてしまった女の子だ。
その女の子は、自分を死に追いやった相手が誰かを忘れている。
その女の子が、自分を「相棒」と呼んでいる。
その女の子と一緒に、犯人を探さなければならない。
自分が死なせてしまった、女の子の犯人を。
自分ではない、本当の犯人を。
だが、真犯人が捕まった時、俺の平穏な生活も終わりを告げる。
(俺の平穏な生活を守り、過去の罪が明るみに出るのを防ぐためには——幽霊の被害者を相手にした、命がけの「嘘の推理」を始めなければ……)
今の俺には、それしか選択肢がないように思えた。
テレビでは、まだニュースが続いていた。
『沢田茜さん、現在は二十七歳。行方不明から十年。真相は未だ闇の中です』
仁はそのニュースを横目で見ながら、水のコップを傾けた。
隣で茜が「ねぇ、今夜はここに泊まっていい?」と聞いてきた。
「死んでるのに寝るの?」
「いや寝ないけど。でも一人だと暇で」
「幽霊が言う台詞じゃないな、それ」
「幽霊にも暇はあるの!」
仁はため息をついた。断る理由も、追い出す手段も、特に思いつかなかった。
「……好きにしてくれ」
「やった!」
茜はガッツポーズをした。
仁は片付けをしながら、また小さくため息をついた。
六月の深夜。地方都市のぱっとしないアパートの一室で。
十年前に自分が死なせた女の子と、二人きり。
最悪の同居生活が、始まった。(つづく)




