第五章 朱に至る
動きは、急にはならなかった。
むしろ、丁寧だった。
会う人の数が、少しだけ増えた。
用件は曖昧で、言葉は選ばれている。誰も結論を口にしない。だが、話の向きは揃っていた。どの言葉も、同じ場所へ戻ってくる。
「今は、誰もが苦しい立場にあります」
そう言われると、返す言葉は限られる。
苦しいのは事実だ。苦しさを否定すれば、他を軽んじることになる。
「お役目というほどのことではありませんが」
その前置きも、何度か聞いた。
役目ではない、と言いながら、役目以外の可能性が、ひとつずつ消えていく。
直弼は、聞き役に徹した。
否定もしない。肯定もしない。だが、その態度が、いつまでも通用するわけではないことを、本人が一番よく分かっている。
埋木舎の庭は、雪解けを迎えていた。
白はまだ残っているが、下から土の色が覗いている。踏み固められた道は、溶け始めると、形を失いやすい。だが、一度できた道は、完全には消えない。
「お考えは、いかがでしょう」
そう問われたとき、直弼は少しだけ間を置いた。
考えていないわけではない。考え続けている。だが、その考えを言葉にすること自体が、一つの決定になる。
「まだ、状況を見ております」
それは、嘘ではなかった。
だが、真実でもない。
状況は、見るものではなく、囲まれるものに変わりつつある。
書付が、整理され始めていた。
これまでのように、ただ積まれるのではない。順番が付けられ、要点が抜き出され、まとめられている。誰がまとめているのかは、明示されない。ただ、作業が進んでいる。
まとめられるということは、
引き渡される準備が整うということだ。
直弼は、その書付に手を伸ばさなかった。
だが、目は通した。避けては通れないことを、避けずに見る。それが、今の自分に残された唯一の選択だと、理解している。
夜、灯の下で、直弼は一通の紙を前に置いた。
返事を書くための紙ではない。覚え書きでもない。ただの白紙だ。
そこに何かを書けば、記録になる。
書かなければ、流れに任せることになる。
どちらも、安全ではない。
直弼は、筆を置いたまま、しばらく動かなかった。
外では、雪解けの水が、静かに流れている。音は小さい。だが、止めることはできない。
引き受けるかどうか、ではない。
すでに、その段階は過ぎている。
どう引き受けるか。
どこまで引き受けるか。
何を、引き受けないままでいるか。
問いは、形を変えながら、直弼の前に並んでいた。
朱は、まだ見えない。
だが、白の下で、確かに色づき始めている。




