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第四章・第三話 呼び声(参)



その日は、特別な知らせは届かなかった。

だからこそ、特別だった。


埋木舎に来る人の数が、増えたわけではない。

言葉が荒くなることもない。むしろ、皆、よく整えられていた。丁寧で、過不足がない。だが、その丁寧さが、ひとつの方向を指している。


「お変わりはございませんか」


誰もが、同じ問いをする。

体調を気遣う言葉であり、近況を尋ねる形でもある。だが、その裏にあるのは、応じられる状態かどうかという確認だった。


直弼は、曖昧に応じた。

曖昧であることが、まだ許されていると知っている。


庭の雪は、すでに踏み固められ始めていた。

これまで人の出入りが少なかった場所に、足跡が重なる。ひとつひとつは軽い。だが、重なれば、道になる。


書付もまた、変わった。

以前は「お話を」とだけあった。今は、日時が具体になっている。場所も示されている。内容は、依然として書かれていない。


「正式なものではありませんので」


そう添えられる言葉が、かえって重い。

正式でないからこそ、拒めば角が立つ。正式でないからこそ、記録に残らない。だが、来なかったという事実だけは、確かに残る。


直弼は、書付を机に置いた。

置いた、という動作そのものが、ひとつの応答だった。


その頃、江戸では、同じ名が、より具体的な文脈で使われ始めていた。

可能性ではない。候補でもない。

「そういう役回りになるだろう」という、前提として。


誰かが決めたわけではない。

だが、誰も止めていない。


評定の場では、その名は口にされない。

だが、名を避けた言い回しが、むしろそれを強調する。


「外から見て、角が立たぬ」

「内の均衡を崩さぬ」

「今は、あまり関わっていない」


それらの条件が、静かに積み上げられていく。

積み上げられた条件の行き着く先に、ただ一人の姿が浮かぶ。


条件が揃うということは、

選ばれたのではなく、外された結果であることが多い。


夜、埋木舎はいつもより静かだった。

人の気配が遠のいたわけではない。むしろ、近い。だが、声が届かない。皆、言うべき言葉を持たずに立ち去っている。


直弼は、灯の下で書を開いた。

だが、頁は進まない。行間に、別の文字が見える。言葉ではない。配置だ。


ここにいれば、ここにいる理由を問われる。

出れば、出た理由を問われる。


どちらも、すでに避けられない。


直弼は、書を閉じた。

筆は取らない。だが、決めないという選択も、もう選べない段階に来ていることを、はっきりと理解していた。


呼び声は、もはや声ではなかった。

環境だった。


振り向く必要はない。

すでに、前に回り込まれている。

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